第18話「美味しい!」

 シャーッ、と心地よく軽い音を奏でて自転車は走った。

 丘の下り坂、視界が開けた先に広々と広がるのは青い空と、青い海。

 ボクたちはふたりで頬に、体に風を受け、風とひとつになり、風を引き連れて坂を下る。


「あはははは!」


 彼女は笑っていた。まるで大好きなジェットコースターに乗ったかのように。

 

「気持ちいい風! こんな風初めて! 初めてと思えるくらい久しぶり!」


 ペダルをがなくても速度は緩まらずに、自転車は緩やかなカーブがかかった緩やかな坂をすべり降りる。ハンドルにしがみつくボクは彼女ほど笑えない――この自転車を横転させないための責任を全部になっているからだ。


「速い! 速い、速い、速いなぁ!」

「こっ、漕いじゃダメだよ。もう、これ以上スピードを出したらこけちゃうからさ!」

「だってせっかく私にもペダルがあるんだもの。漕ぎたい!」

「わあああ!」


 がっと加速がつく。ボクにしたら、自転車が勝手にスピードをつけているようなものだ。

 早朝の海に向かう道路は本当に空いている。後ろからも前からも自動車はやってこない。

 今はボクたちだけの道だ。ボクたちだけのために用意された道だ。


 それは、なんて幸運なことなんだろう。


「……あ」


 必死にバランスを保ちハンドルを制御する自転車が坂を下りきる。海岸と標高が等しくなる。数十メートルの高さを数分かけて丸い丘の外縁がいえんを走り終えたのだ。

 少しずつブレーキをかけて速度を落とす。海岸に沿う国道と合流するのだ。


 彼女が違う声音の声を上げたのは、そんな瞬間だった。


「ねえ、あそこにホットドッグ屋さんがある!」

「え、え、どこ、どこ!?」


 事故を起こさないように道と自動車に目を配らなければならないボクには、店のひとつひとつを観察する余裕などない。万が一にも海にたどり着けなかったなんていう馬鹿なことを起こさないだけで精一杯だ。


「右! 道の向こう側! ねえ、ホットドッグ食べたい!」

「わ、わわ、わかったよ」


 海は木々と背の低い建物の向こう側。勾配こうばいがなくなったここからでは見えない。

 折良おりよく青信号になっていた丁字ていじの交差点に進入し、大きくハンドルを右に切って惰性で進む。


「すとーっぷ!」


 可愛い号令に従ってボクは自転車を停車させた。暑さというより、ここまで事故を起こさずに走り抜けた緊張が一気に解けて、シャツの下が汗で濡れる。


「私、朝ごはん食べてなかったの。お腹空いた!」


 建物の前で気の早いホットドッグ屋の屋台が開いている。朝から海水浴を楽しむ客目当てだろうか、まだ開店したばかりで客はついていなかった。


「そっか。早かったもんね。一個でいい?」

「二個!」

「は、ははは」


 自転車のスタンドを起こして立て、ボクはポケットから財布を出した。

 彼女は短いスカートを泳がせるようにして小さく散歩する。その後ろ姿の可愛さに思わず頬が緩んだ。


「いらっしゃい! 珍しい自転車乗ってるね!」


 白いエプロンをつけた気さくで大柄な親父さんが明るい声をかけてくれる。


「朝から彼女つきとは幸せもんだ。この色男!」

「あ、ははは……。ホットドッグ、三個ください」

「あいよ!」


 ヒーターで温められていたパンが取り出される。

 財布を開いて小銭を出そうとしていたボクは視線を泳がせ、彼女の姿を探した。


「うん?」


 百歩くらい先に彼女の姿があった。


「……あれ?」


 今までスキップするような歩調で歩いていた軽やかさが嘘のように、前を見つめてじっと立っている。病院からここまではしゃいでいた空気が払われたかのようだった。


「兄さん! お待ちどう!」

「あ、はい」


 小銭と温かい紙袋が交わされ、紙袋を手にしたボクは自転車を駐めたまま彼女の元に駆け寄った。


「ねえ」

「……あ」


 彼女がこちらを振り向いた。まるで、忘れていたというように。


「あ……死神さん……」

「どうしたの。どこか、体の調子がおかしくなったとか?」

「ううん、全然そんなことないの。……ほら! このポスト、青くて形も珍しいから!」


 笑みを浮かべた――浮かべ直した彼女の声にボクは視線を振る。鉄製の円筒形、レトロな雰囲気の真っ青な色で塗装されたポストが建っていた。


「ああ、これ。海の近くだからこんな色で塗っているのかな」

「私、こんな形と色のポスト、見たことなかったから」

「ほら、ホットドッグ。冷めないうちに食べよう」

「ありがとう!」


 明るさを取り戻して彼女はボクからホットドッグをひとつ受け取り、その場でかぶりついた。


「美味しい!」

「あはは。ふたつも食べられる?」

「食べられる!」

「あはは」

「あはははは!」


 口元を赤いケチャップで汚した彼女が満面の笑みを見せる。つられるようにボクも自分の分を紙袋から出し、彼女と同じようにかぶりついた。


 サクッと焼き上がったパンとみずみずしいレタス、そして噛むと豚肉の旨味うまみがあふれ出すソーセージ。濃いケチャップと舌に刺さるようなマスタード。

 それが口の中で一緒になって、美味しい、という感覚しか感じさせなくしてくれる。


「美味しいね」

「そうでしょう! よかった、こんな美味しいホットドッグ屋さん見つけられて!」

「キミの鼻がよほど良かったんだよ。匂いをぎつけたんだろう?」

「そうそう! ね、ふたつめ!」

「あははは……」


 彼女はボクから受け取ったふたつめにかぶりつく。この世でいちばん美味しいものを食べているかのような彼女の姿に、ボクは微笑むしかできない。


 でも、本当はこのホットドッグも、よくよく味わって食べればそこら辺のものと大して変わらない、平凡なものかも知れない。

 このホットドッグを美味しくさせてくれているのは、ふたりで食べているからなんだ。


 ふたりですれば、何でも楽しい。

 道をただ走るのだって、ありふれたものを食べるのだって。

 そして、海で泳ぐのだって。


 海。

 砂浜に波が押し寄せてくる潮騒しおさいの音が、耳をませば聞こえてくる。

 海は、もうそこ。


 彼女が願い続けた海は、もうそこなんだ。

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