第17話「海はもう、向こうに見えているんだから!」

 派手な音を立ててカーテンが開けられると、ほとんど向こうがそのまま見えるくらいに薄く白いレースカーディガンを羽織はおり、同じ素材の短いフリルスカートを腰に巻いた彼女の姿が現れた。


「さ、行きましょう!」


 快活に笑い、麦わら帽子を被ったしおりは真新しく白いサンダルで歩き出す。足取りのひとつひとつが軽やかで、まるで宙を踏みそうな勢いがあった。


「――あ」


 ドアを抜け、廊下ろうかに出た所でその足が止まる。立った爪先が滑るように少女の体がくるりと回れ右をして、自分が出た病室に向き直った。


「どうしたの? 忘れ物?」

「んー……忘れ物、かな……」


 ゆっくりとドアが閉められていく。彼女の手で。


「私、この病室で何年も過ごしたの。自分の部屋のようなものだから」


 ドアが閉まる。


「やだな、私、自分でかしておいて。さあ、海に行くぞー!」


 再びきびすを返し、彼女は元気に歩き出した。

 ――もう、彼女がこの部屋に戻ってくることは、ないんだ。

 ボクは何も言わずに彼女の後をついていく。


「あ」


 廊下を歩きナースセンターに差し掛かった所で、彼女の歩みが鈍った。前から一人の看護師が歩いてくる……ボクにも見覚えのある女性看護師だ。

 栞の脇を自然に通り過ぎ、栞にもボクにも視線を向けなかった。


 彼女には見えていないことになっているから、当然か。


「松坂さん」


 背中を見せて離れていく看護師に栞が呼びかけた。看護師の名前だろうか。


「ごめんなさい」


 ぺこり、と深々と一礼し、顔を上げた。

 その瞳には、複雑な輝きが帯びられていた。

 栞の担当看護師だったのか。そこまで詳しいことは聞いていないし、調べてもない。


 ただ、ボクから詮索せんさくするような話じゃない。

 栞が、彼女が話したくなった時、聞けばいい話だ。


「死神さん、早く早く!」


 一瞬の放心から覚めると、栞がエレベータホールに向かって歩き出している。

 ボクはうなずいて、彼女の後を追った。



   ◇   ◇   ◇



 病院の玄関脇に、ボクたちの海までの乗り物はめられていた。


「わ! わ、わわ!」


 その車両・・・を見た途端に彼女が目を輝かせる。


「すっごい! 二人乗り自転車だ!」


 ハンドルがひとつにサドルとペダルがふたつ――真っ青なフレームが輝いているタンデム自転車の姿に彼女の声が弾んだ。


「かっこいい! 私、実物見るの初めて!」

「ボクもこんなの乗ったことないよ、ふたりじゃ」

「あははは、ここまでひとりで乗ってきたんだ」

「ふたりで乗った時の感覚がわからないから、ちょっと怖いけど」


 でも、ボクはこれで海まで行きたかったんだ。彼女と。

 まだ早朝だというのに暑い気配がする。海からの風が潮の匂いを運んでくる。

 太陽の光がまぶしいアスファルトの道を、この自転車で颯爽さっそうと走る。


 ペダルが回る音、チェーンが鳴る音、風を切る音。

 そんな音の向こうに彼女のはしゃぐ声を想像しながら、こいつをいできたんだ。


「乗ってみないと始まらないわ!」


 風を巻くように脚を回して、彼女は後ろのサドルにまたがった。何の不安も怖れもないと言うように。


「早く! 早く!」

「わ、わかった。乗るよ、乗る……」

「死神さんったら、自分でこれを用意して弱気になっちゃってるんだから」


 あはは、と彼女は笑っていた。


「覚悟を決めて行こうよ! ほら! 海はもう、向こうに見えているんだから!」

「う、うん。乗る、乗るよ……」


 ハンドルを握る。フレームをまたぐための脚を上げようと、気合いを入れる。

 視線を上げれば、緩やかな丘を下った向こうに海の青さが見えていた。


「ここまでひとりで漕いできたんだ、ひとりもふたりも同じだよね……」

「がんばって!」

「うん」


 誰に選んでもらったのでもない。自分でこれを選んだんだ。

 なら、漕ぎ出そう。

 海へ。


「行くよ」


 ボクはサドルにまたがった。ハンドルを握り、ペダルに足を乗せた。


「あぶないからね。最初は控えめにいくよ、控えめに……」


 ぐっ、と足を踏み込む。ただでも普通の自転車より重い車体、そして後ろに少女一人分を乗せているために踏み出しが重い。


「わ、わわ、わ」


 のろのろとした出だしにふらつく。


「ダメダメ! もっと思い切りよくいくの!」

「わっ」


 ガッ、と意図しない加速がかかる。ボクの体が後ろに引っ張られる。


「ペダルがふたつあるんだもの! ――漕がなきゃ!」

「うわ、わ、ああ、わわ――――!」


 自動車の往来も少ないアスファルトの道に自転車がおどり出る。チェーンが軽快に回る音を奏で、太陽の光の下に風の速度で滑り出した。


「しっかりハンドルを握っていて! 死神さん!」

「速い、速すぎる――!」

「あははははは!」


 ふたつの声を交えさせながら、ボクたちは光あふれる夏の世界へと駆け出した。

 たった数分でたどり着ける、陸と海の狭間はざまへと向かって。

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