第16話「そうね! デートだもの!」

 夜が明けた。



   ◇   ◇   ◇



 朝、七時をほんの少し回った時刻。

 病院の一階、早朝から外来診察を受診するために結構混雑している広い待合ホールを、ボクは左肩に大きなボストンバッグを抱えて歩いていた。


 いつも着ている黒いスーツ、『死神課』の制服とは全くちがう、白いシャツにネイビーブルーのショートパンツ、革靴ではなく黒いサンダルといった格好だ。

 傍目はためからはどう見ても、無機質な病院より海辺の方が似合う格好だろう。


 右手には古めかしい手持ち燭台しょくだいを持っている。刺さっている蝋燭ろうそくにはピンク色というあり得ない色の炎が灯っていた。

 そんなものを手に海辺を歩く人間もいないだろうが。


 朝の病院の真ん中を堂々と歩いても、すれ違う患者さんや、医師や看護師さんはボクに目を向けようともしない。見えないかのように素通りしていく。

 実際に見えていないんだ。今は、誰にでも見えるように実体化しているのにも関わらず。


 サンダルのゴム底がぺたぺたぺたと鳴る音と共に、ボクは歩く。


「コンビニやカフェまでこんな時間から開いてるのか」


 診察前の待ち時間は長い。それを少しでも快適に過ごさせようという配慮はいりょだろうか――そんなことを考えながらボクは待合ホールの奥へ奥へと進み、病棟に上がるエレベータが並ぶエレベータホールにたどりついた。


 降りてきたエレベータに乗り込み、二十階のボタンを押す。空を飛ばずにこの高さまで来るのは初めてだなと思いつつ、開いたドアから外に足を踏み出し、悠々と廊下の真ん中を歩いてボクは、彼女の病室の前に立った。


「はぁい!」


 ノックの返事を聞いて、スライドドアを開ける。


「わ!」


 ボクの姿を認めた途端、彼女――しおりは大きな声を上げた。


「死神さんがおしゃれしてる!」

「海に行くからね」


 驚いている彼女が笑顔なのにボクも笑みをこぼしながら、病室の隅に燭台を置く。


「あの黒いスーツで浜辺に行くわけにもいかないから」

「そうね! デートだもの! 服装は大事よね!」

「デート?」

「そうじゃないの?」


 彼女の瞳の中で、目を点にしているボクがいた。


「…………そ、そうだね…………」

「海デート!」


 今まで考えたこともなかった概念がいねんだった。

 そうか、これはデートになるのか。


「もう最高! 私、起きてから本当にご機嫌なのよ! ほら!」

「わっ」


 彼女がベッドの上で、跳ねるようにすっくと立ち上がった。


「体に力があふれてる感じ! 今までこんなに元気なことなかったの! このままパタパタ飛んでいけるみたい!」

「あ、あぶないよ。今まで半分寝たきりみたいなものだったんだ。脚が慣れてないかも」

「だいじょうぶだいじょうぶ!」


 ぴょん、と軽く跳び、彼女は床に足をついて両腕を開いた。『十点満点』のポーズだ。

 昨日まで、自分の体重を脚だけで支えられもしなかった人間の動きじゃない。こうなるとわかっていても、びっくりするくらいの違いだった。


「朝日が出た頃に起きて、体の調子が良すぎたから思わず走っちゃったもの! 歩行器なしで一階のコンビニまで行けたの、もう何年かぶり!」

「ちゃ、ちゃんと眠れた?」

「十時間くらい! もう布団に入った瞬間もうぐっすりで、夢も見なかったくらい! こんなに目覚めの気持ちいい朝も初めて!」

「――そう……」


 ボクはその彼女の言葉に、涙を流しそうになった。

 彼女が眠れないだろうことを、ボクは心配していたんだ。


 ――だって。

 これが彼女の、最後の朝なんだから。

 その最後の朝を、笑顔で迎えられている彼女。


 ボクは、そんな彼女の心境なんて聞かない。聞きたくもない。

 ただ、彼女が浮かべている笑顔が、心からのものであってくれることを、願うだけだ。


「――よく眠らないと、ちゃんと遊べないからね。あ、そうだ」


 自分の芝居が不自然に見られていないのを願いながら、ボクは話題を変えた。


「一本、キミの髪の毛が欲しいんだ」

「髪の毛?」

「抜いた髪をこの蝋燭に結びつける」


 彼女が根元から抜いた一本の髪を、既に結びつけられていたボクの髪に重ねるようにボクは蝋燭に結びつけた。

 音もなく蝋燭の炎が膨らむ。しかし少しも熱くない。これは炎のようで炎じゃないんだ。


「ピンクの火って、初めて見たぁ……不思議ね……」

「これは死後世界の道具なんだ」


 先輩から借り受けた道具だった。


「今のボクは実体化しているから、昨日までみたいにキミ以外にも見えてしまうんだよ」

「あ、それで窓から入ってこなかったんだ」

「……ボクはすっかり、窓から入ってくる人になってる?」

「最初のインパクトがすごすぎたんだもの」


 くすくす、と彼女は笑った。本当に可笑おかしそうだった。


「たまたま窓の向こうを見ている時に、あなたがすぅっと窓をすり抜けてきたから、頭の中が真っ白になっちゃって。自分でも何を言ってるのかわからずにしゃべってたわ」

「そ、そうなんだ……で、この蝋燭に髪の毛を結びつけると、その髪の毛の持ち主は周囲の人々に認識されなくなる。忘れ去られてしまうんだ――この炎が、灯り続けている間は」

「そっか。私も、この病棟から抜け出さないといけないものね」


 ふたりでこの病院から抜け出すのは、ちょっとした脱出劇だ。

 男子禁制の女子病棟にボクが入り込むのも、まともに歩けないはずの彼女が必ず通過しなくてはいけないナースセンターでとがめられずに堂々と出て行くのも、この道具の力が必要なんだ。


 その手段の全部を準備してくれた先輩には感謝するしかない。ちょっと悔しいけれど、まあ、根はいい人だっていうのは、わかるから……。


「死神さん!」

「あ、ごめん、ぼうっとしてた」


 遠い想いに夢うつつになっていたボクはその声で引き戻され、あわてて肩のボストンバッグをベッドの上に置いた。


「服や水着が入ってる。ここで水着も着ちゃって」

「浜辺で上を脱ぐだけで海に入れるの、素敵! 一度やってみたかったんだぁ!」


 飛びつくように彼女はボストンバッグのファスナーを開き、その中をのぞき込んで――ボクの方を見た。


「見ちゃダメ!」

「ご、ごめん!」


 シャッ、とカーテンが閉じる。


「死神さんって時々デリカシーが抜けるところがある! きらい!」

「ごめんってば。全然れてないんだ。上手く立ち回れないのは……」

「わぁ! 可愛い!」


 カーテンにけて見える影の形で、彼女が水着を手で広げているのがわかった。


「私がイメージしていたのとぴったり! リクエストしておいてよかったぁ!」

「よ、よかった」


 カーテンに映る影がどったんばったんと動く。患者衣かんじゃいやその下のものが脱ぎ捨てられて、彼女がおろしたての水着に体を通す一部始終が見えた。


 明るく、はしゃいでいて、本当に元気だ。

 昨日までベッドの上からほとんど動けなかったのが、冗談かと思えるようだ。


「じゃん!」


 向こうからカーテンが開けられて、白いワンピースの水着だけを着た彼女のまぶしい姿が現れた。


「わぁ! なんて格好で出てくるんだ!」

「なんて格好って、これ、水着でしょ?」


 肩に通る細いひもを引っ張って、彼女が笑った。

 細い彼女の体をぴったりと包み込んだ白の布地は朝の差し込んだ光をきらきらと反射していて、本当に眩しかった。


「でも、それは海だからいいんじゃないか。部屋の中だったら下着も同じだよ……」

「変な死神さん。私、今日は一日この格好なのよ? 今からあわてていたら神経がもたないんじゃない?」


 ベッドの上で飛び跳ねるようにして彼女が身をひねった。腰の後ろに小さくついたフリルがひらひらと泳ぐ。


「死神さん、どう? 自分でも可愛いと思うんだけど」

「う、うん」


 ボクは背筋が伸びる想いで言った。


「とても可愛いよ、キミは……」

「えっ?」

「え、えっ?」


 彼女の戸惑とまどいの声にボクが戸惑う。


「やぁだ! 水着のことを言ったのに!」

「あ!」


 開いたボクの口から心臓が飛び出そうになった。


「あはは。でも、本当にこの水着、可愛い! ありがとう! それに私、言い忘れていたことがあったからちょっと心配していたのよ!」

「い、言い忘れ?」

「白の水着って、インナー着ないと透けちゃうもの! ちゃんと買ってきてくれてよかった! 本当にありがとうね! あ、早く上も着るね!」


 シャッ、と再びカーテンが引かれる。その向こうでまた影が動くのを見て、ボクはもう一度ため息を吐いた。


『お前が選んだそれな』


 大型ストアで彼女の水着を選び、レジに並ぶボクに先輩が言ってくれた。


『インナーないと確実に透けるぞ。――お前、彼女のスケスケな姿を見てニヤニヤしたいのか?』

「ありがとうございます、先輩……」


 ボクはあの先輩に感謝した。本当に、心の底から感謝した。

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