第14話「死神さんのえっち」

 放心したような顔で彼女は、ボクの顔を見つめていた。

 そんなに長い時間ではなかったと思う。呼吸を十回すれば納まるそんな時間だ。

 ただ、ボクにはそれが長い、本当に長い時間に思えた。


 投函とうかんした手紙の返事を待つ、それくらいに長い時間。

 いや、裁判所で裁判長から判決を聞かされる、被告のような気分だったのかも知れない。

 ボクは待った。


「う…………」


 彼女の頬が感情の波に震えて、言葉が出てくるのを、待った。


「う――――」


 彼女の口が、開いた。


「うれしい!!」


 笑顔だった。

 心から喜んでいるというのがわかる、そうであるのが信じられる、そうとしか思えないほどに輝く笑顔だった。


「うれしい、うれしい、うれしい、うれしい!!」


 あふれる笑顔から声が弾んでいた。彼女自身も体を弾ませ、今まで見せた笑顔の中で、いちばんきらめくような明るさでボクに訴えかけていた。


「本当!? 本当ね!? 嘘じゃないのね!? 嘘だったら許さないから!! 死神さん、本当に信じていいのね!?」

「……だいじょうぶ。嘘じゃないよ。本当、本当のことだよ」

「やったぁ!」


 ぱっ、と彼女の腕が開く。その体が前に傾こうとした勢いに、ボクは手を前に突き出していた。


「待って!! 飛びつくのはダメだ! すり抜ける!!」

「わっ」


 彼女の伸びようとした体が止まった。ひやりとした感覚がボクの背中をすべり落ちていく。


「ケガをするよ。あぶなかった」

「そうだったね。つい忘れちゃった。あんまりうれしかったんだもの。あはは」


 この、内側から津波のように押し寄せてくる喜びをどうしたらいいか、それがわからないように彼女はくるりとその場で回ろうとして、


「わ、わわわ」


 バランスを崩して、とっさに壁の手すりにしがみついた。


「だからあぶないってば!」

「あはは、あははは! ごめんなさい! 体が勝手に動くほどうれしかったの!」


 手をつけるものをつたってベッドに腰掛けた彼女の姿に、ボクはほっと息をいた。


「でも! 大事なこと忘れてる!」

「え?」

「水着!」


 それ以上の一大事がありうるのかという勢いで彼女は言った。


「私、水着なんて持ってない!」

「ああ……」

「お店が開くのは何時ごろになるのかな!? 朝一番に海に行って、もう一分でも早く泳ぎたいのに! 時間が本当にもったいない!!」

「ボクが今から買ってくる」

「今から?」

「うん」


 急がせていた理由は、これなんだ。


「今から、明日に必要になるものを全部買ってくる」


 彼女の視線が窓の外に向く。数分前はいくらかまだ明るかった空の色が完全に夜の色になっていた。


「最近はすごいね。深夜零時を回っても開いている大きなお店があるんだから。そこで必要なものは全部買えるって先輩から聞いた。食べ物や飲み物や水着、パラソルやシートやビニールボート、自転車までひとつの店でそろうんだって。海の近くの店だからなんだろうけど、便利なものだよね」

「お金は? 死神さんが払うの?」

「必要経費として上から出るんだ。キミは気にしないでいい、本当に。そういうことになってるから」

「よかったぁ!」

「明日の朝早くに迎えに来るから。この病室から直接、あの海水浴場まで行くんだ。そのために、準備は全部今夜のうちにする」

「水着が自分で選べないのは残念かなぁ。ね! 布地があんまり少ないのは恥ずかしいから! 白のワンピースがいいかなぁ。あ、でもサイズはどうしよう。試着しないと、ぴったりのが選べないんじゃ」

「それも大丈夫」


 胸ポケットから手帳のファイルを出す。昨日彼女と初めて会った時に見せた、彼女のプロフィールを全てまとめたファイルだ。


「キミの体のサイズもこれにってる。ここから海に向かう途中の服も、下着も、きっとぴったりなやつを買ってくるから――」

「えっち」


 大きな枕を胸で抱え口元をその端に当てた彼女が、ジト目でこちらを見ていた。


「死神さんのえっち」

「いや! そ、そういう、よこしまな発想じゃないんだ! ボ、ボクは――」

「可愛い水着を選んでくれないと、許してあげない」


 枕に押しつけている彼女の口元が、笑っていた。


「あ、あははは……」

「私、早く寝る!」


 風を巻くように彼女が布団をかぶった。


「明日が楽しみで眠れそうにないから、早く寝る! ――死神さん、遅刻しないでね! 本当に楽しみにしているんだから――あ! 明日の天気はどうなってるの!? もしもこれで雨だったりしたら、私、死んでも死にきれないわ!」

「だ、大丈夫、確認してる。明日は一滴の雨も降らない、一日中快晴だから。すごく暑くなるって」

「よかった! じゃあ安心して眠れる! ――死神さん、準備を全部押しつけちゃうけど、ゴメンね! ありがとう!」

「いいんだ」


 それは気休めでもなんでもない、心からの言葉だった。


「ボクはしたくてやってるだけだから。ボクも明日、キミと海で泳ぐのは、本当に楽しみなんだ……」


 ボクは笑い、彼女に背を向けた。

 閉じたまぶたから涙がこぼれるのは、見られずにすんだ。


「明日は、明日は、とっても素敵な一日にしようね!」

「あはは」


 ボクは窓をすり抜けて、二十階にある病室を出て空に舞った。

 泣くのは、もう少し距離を離さないとできなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る