第13話「天使になれないのなら、せめて」
ボクが彼女の病室に飛び込んだのは、西の空が
「わ」
息を切らせて突然に入ってきたボクの姿に、彼女はベッドの上で一瞬、跳ねるほどに体を浮かせた。
「びっくりしたぁ。あのね、死神さん」
飛び跳ねている心臓を押さえ込むように、胸に手を当てている彼女が言う。
「来てくれるのは本当に、本当に本当にうれしいんだけど、ここ、一応女の子の部屋だから、入ってくる前にノックくらいは欲しいかな?」
「はぁ、はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
「長かったね。死神さんがいう『関係部署』に謝りに行ってたの? 今日は朝からいなくてもう夕方になっちゃったから、いつ来てくれるのかとずっとそわそわしていたわ。でも来てくれてよかった。ひょっとしてもう来てくれないんじゃないかとか、ふっと頭を
「はぁ、はぁっ、はぁ、はっ、はぁ……」
「――死神さん?」
ようやく呼吸を落ち着けたボクの顔を、彼女はベッドの上からのぞき込むかのように上体を
「何か、あったの?」
「急ぎで、伝えなきゃいけないことが……そして、急ぎで返事をもらわないと、いけないことが……聞いてほしい。それで落ち着いて、答えてほしい」
「うん」
「泳げるんだ」
「え?」
「キミが、海で、泳げるんだ!」
「――――」
彼女が、息を飲んだ。
続いて出てくる言葉は、なかった。
「キミがその気になれば、海で泳げる! 泳ぎたがっていただろう、キミは!」
「――――海で?」
聞いた言葉の意味を
ボクはたたみ掛ける――時間が、ないんだ。
「そうなんだ。キミが海で泳ぎたいと望めば、明日、海で泳げる。泳げるんだ。だけど」
「だけど?」
「だけど……」
心の勢いが、失速する。
――言え。
言うんだ。
言わなければならないことを。
「――だけど……」
「死神さん」
優しく、優しく、ただ優しく微笑んだ。
「私が、言ってもいいのよ?」
「…………いいや…………」
ボクは、彼女を救えない。
天使ならば彼女に命を与えることもできるのかも知れないけれど、ボクは天使じゃない。
死神だ。
人の死に立ち会い、魂を
「天使になれないのなら、せめて……」
そうだ。
せめて、せめて。
「せめて、死神らしくあらねばならないんだ、ボクは。そうでなければ、ボクがここにいる意味もない……」
「うん」
ボクの体がよろけ、そのまま窓の側に寄る。
窓からはオレンジの西日が差し込んできていた。部屋の半分がその色に染まっている。
「二ヶ月分の命を一日に……いや、半日分、太陽が出ている間に注ぎ込めば、君は海で泳げるくらいに元気になれる。
元気になって、海で泳ぐことができるんだ。
そして……」
「そして?」
「そして、キミは……」
「私は……」
彼女が、布団から足を抜いた。素足を床につけ、立つ。
その細い体が一瞬、ぐらと揺れたことにボクは手を伸ばしそうになったが、彼女はベッドの枠を手でつかんでそれをこらえた。
そのまま、少し危なっかしい足取りで歩き、ボクの隣に並ぶ。
並んだまま、その視線が窓の外に向く。
ボクもその視線を、視線で追う。
遙かに遠く、遠くに見える海岸よりも遠く。
西の方角、空と海との境界線の方をふたりで眺める。
水平線を
「太陽が、沈んだと同時に……」
それが今、黒く輝く世界の境目を乗り越えて、ボクたちの視界の外に沈んでいく。
黄金の夕日が半ばまで消え、頭を残すまで消えていく。
ボクの視野の中で、涙のスクリーン越しに全てがぼやけ――。
「太陽が完全に沈んだと同時に、死が始まる……」
今、太陽は、完全に見えなくなった。
現在の時刻、午後六時五十五分ごろ。
今日と一日しか変わらぬ明日には、彼女はこの時間、もう。
「そこからどれくらい保つの?」
彼女の声には、
「……太陽が完全に沈んで、数分間」
先輩が言っていたことを、ボクはそのまま、言葉を写すように口にした。
他人の言葉を借りなければ、こんなことは口にもできなかったから……。
「――夕焼けの名残り、赤さが消えるころには、キミは死ぬ。多分、あっという間に……」
「ふぅん…………」
その、夕日が
――断ってくれ。
この話を、断ってくれ。
今までおとぎ話のように現実味のない『死』の話だったが、今は
この話を受ければ、キミは二十四時間後、生きてはいない。
死んでしまうんだ、本当に。
一日を海で遊ぶために、二ヶ月の命を使い果たす。
そんなの、いいわけがない。いいわけがないだろう?
海で泳げなくったって、いいじゃないか。
二ヶ月の間、細々としてでも、ボクたちはいっしょにいるんだ。
ボクはその二ヶ月の間、ずっとキミの側にいる。
キミとボクとで、この夏の終わりを迎えるんだ。
だから。
だから、断ってくれ。
ボクは彼女の横顔にそう、視線で
これはボクの判断で決めてはいけないんだ。彼女に決めさせなければ、意味はないんだ。
「つまんないな」
彼女が本当につまらなさそうに言ったその言葉の、次に口にした言葉が、全ての運命を定めた。
「ひとりで泳いでも、つまんない」
――――え?
「だって、せっかくの夏の海だもの。死神さんは私が泳いでいるところを見ているだけでしょ?」
――――あ。
「真っ青に晴れた空。輝くような白い砂浜。どこまでも
もう闇の色に変わっていくだろう濃密な紺色の空を背中にして、彼女がボクを見ていた。
「ひとりで泳いでもつまんない。死神さんといっしょに泳げたら、もう、楽しくて楽しくて楽しくて、仕方ないほど楽しいと思うのに……」
「――泳げるよ」
彼女は
「ボクも泳げる」
ボクは言った。言ってはならないことかも知れなかったけど、言った。
彼女に
彼女に嘘を吐いたことで判断を変えさせたという、深い傷を負いたくなかったから。
「一日くらいなら、この夜で体を実体化させられるんだ。だから、泳げるよ。
泳ぐことも、走ることも、食べることも、飲むこともできる。
――そして。
今、ボクたちが見送ったあの夕日を、明日。
波が打ち寄せる砂浜でふたり、ならんで。
肩を寄せ合いながら見送ることも、できるんだ。
どうする?
キミは、どうする?
今すぐ、決めてほしい。
今、たった今、ここで。
その答えを、ボクに聞かせてほしい……」
ボクは、涙を流していた。
流さずにそんなことが、聞けようはずもなかった。
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