第10話「――私、あなたのこと――」

 目を開くと、暗かった。


「――あれ……?」


 うと、うと、という感覚から覚めると、真っ暗な病室の中にいた。

 ベッドの枕元、壁の機器からぶらさがっているナースコールのスイッチだけがうすく光っている。窓にもカーテンが閉められ……時間は……。


 腕時計の明かりをつけて確認すると、深夜の二時だった。日をまたいでいる……。


「……ボクは、眠ってしまっていたのか……」


 あのあと、彼女と色んな話をした。本のこと、死後世界のこと、この世のこと……。

 この世のことについては、彼女の方が詳しいくらいだ。記憶を消されて死後世界で意識を与えられたボクは、物事の詳しい知識など持ち合わせてない。


 話は弾み、時間を忘れ、先輩からのポケットベルの呼び出しもなく、いつの間にか眠ってしまったのか。精神体にも、霊体にも眠りは必要なんだ。『気疲れ』するんだから。


しおり……?」


 おそるおそるベッドをのぞくと、布団をかぶって彼女が眠っていた。


「ああ……」


 すぅ、すぅ、と静かな寝息だけが部屋で聞こえる。暗がりで全然見えないけれど、その落ち着いたリズムだけで彼女が安心しきった寝顔をしているのが見えるようだった。


 ボクは、どうしようか。


「帰って眠るのもいいけど、ここで一夜を明かすのと変わらないんだよな……」


 なら、ここに残って朝まで眠るか。


「いや、女の子の部屋でそれも……」


 彼女はマズいと思っていないから、眠り込んだボクを起こさずに自分も眠ってしまったんだろうけど……。

 思考のシーソーゲームにおちいり込んで、ボクは腕を組んだ格好でふよふよ浮かび、残るか帰るかを思案し続けた。


 カタ、という音がドアでしたのは、そんな時だった。


「……あれ?」


 音の方に視線を向けると、スライドドアがゆっくりと開いていく。一瞬、びくっと緊張したが、見つかる心配はないのだと気がついて息をらした。


「……看護師さんの巡視じゅんしかな?」


 夜勤の看護師さんなんだろう。ご苦労様なこと――。


「――――!」


 明かりも持たずに入ってきた人影、廊下の弱い照明の光を背中に受けてうかがえたその面相に、顔が引きつった。引きつって当然だった。

 男だった。二十歳を過ぎたくらいの顔立ちの、顔の肌がでこぼこだらけの背の高い男。


 絶対に看護師には見えない。青い患者衣かんじゃいを着ているのはこの病院に入院している患者かんじゃなのか――確かこの部屋は、男性入室禁止の女子病棟びょうとうのはず!


 ボクが驚いている間に何のためらいもなく部屋にすべり込んだ男がドアを閉め、何も見えなくなる。鍵がかかる音が鳴る。

 ボクが予想した、ボクが恐れた展開から足を少しも踏み外さずに足音が動き、彼女のベッドがぎしっときしんだ。


「っ!?」


 侵入者に部屋の空気をき回されたような気配に気づいたのか、彼女が目を覚ました息づかいを発し――発した瞬間に、声が完全にくぐもった――口をふさがれている!!


「わめくなよ」


 ぞわっ、と悪寒おかんが体中を駆け抜けた。


「わめいたら息ができないようにするぞ」


 こ――こいつ!!

 暗闇でほとんど見えない。彼女は布団の下で体をよじらせているのが気配だけで伝わってくる。どのみち、とんでもない様子なのは、明かりをつけなくてもわかる!


「お前、病院でもうわさになってるぜ。もうすぐ死ぬんだってな。もう何年もこの病院で入院してるらしいじゃねぇか」


 男の寒気がするくらいに酷薄こくはくな声と、彼女がふさがれた口からうなる声しか聞こえてこない。


「どうせ男も知らねえんだろ。死ぬ前に色々知っておいた方がいいぜ。これも社会勉強ってやつだ。なぁ?」

「――勝手なことを言うな!」


 ボクは声の気配になぐりかかった。ナースコールのスイッチが発している光で、布団をかぶっている彼女に馬乗りになっている人影がわずかに見える!


「うわっ!?」

「っ!」


 ぶよぶよの破れないゼリーを殴ったような感覚がこぶしを滑らせ、ボクは自分の腕の勢いに巻き込まれてつんのめった。

 かすかに触った、という感触がしたのはボクだけではない。


「今の、何だ!? 何か俺の頭を冷やしていったぞ!?」

「く、くそっ……」


 男にボクの声は聞こえない――けど、触ることもほとんどできない。精神を集中させているからごくごくわずかに接触することができたけど、きりでられたくらいの感触しかなかったろう。


「――でも!」


 ボクはさらに殴りかかった。両方の腕を風車のようにして拳を男に叩きつけた、叩きつけようとした。

 弾力がある霧を殴っている感触しかしない。ダメージもほとんどない!


 だけど、男を驚かせるには十分だった。


「だっ、だっ、誰だ!? 誰かいんのか!?」

「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」


 気力を限界までに張り詰めさせて霊体を動かすのは、肉体を実際に動かす以上に疲れる。目に見えない『何か』に後頭部を触られている感覚に男は戸惑とまどっているようだが、このままではボクの方が疲れ切って、動けなくなり――。


「――そうだ!!」


 壁かられ下がり、ボタンをうすく緑に輝かせているナースコールの呼び出しスイッチ。

 ボクはそのボタンに両手の親指を乗せ、ボタンを押しつぶす覚悟で、押し込んだ。


 ピ! と壁のランプが灯る。


『はい、早川さん』


 間を置かずにナースセンターの応答が壁のスピーカーから聞こえた。


『どうなさいました?』

「げぇっ!?」


 男が悲鳴をあげた。当然だろう、押す者がいないのに・・・・・・・・・勝手にナースコールがつながったのだから!


「食らえ!」


 彼女にしか聞こえない声でボクは床を蹴り、壁に体をぶつける――部屋の照明のスイッチに向かって!

 全部の闇を払い飛ばすように、明るい光が一瞬にして部屋を照らした。


「なんだぁっ!?」


 彼女の口に手の平を押しつけたままの男が目をき、振り返っている姿が明らかになる。施錠せじょうされたドアからは誰も入って来られない、自分たち二人以外は誰もいないはず・・の部屋なのに、とその引きつりきった顔が叫んでいた。


『あなた、誰!!』


 スピーカーからとがめる声が響いた。


『どうしてそこに男の人がいるの!! ――警備員、警備員!! 二〇二五にいまるにいご室!!』

「うわああ!!」


 バネ仕掛けのように男はベッドから跳ね退いてドアにしがみつき、自分でかけた鍵にはばまれてノブと一瞬の格闘をしたあと、入って来た時の冷静さが嘘のように騒音を撒き散らしながら病室を飛び出していった。


「待て!! 止まれ!!」


 その無様な足音を追って警備員らしき足音が床を叩き、病室の前を通り過ぎていく。


「早川さん、大丈夫!?」


 夜間に落とされている廊下ろうかの照明も全灯にされ、その明るい光の中を走ってきた女性看護師が部屋に飛び込んできた。

 ベッドの上で身を起こした栞が、上手く息をできずに喉を跳ねさせ、身を縮めている。


「無事ね!? 変なことはされてない!? 何かされたのなら、今、正直に言うのよ!?」


 遠くで金属の板を何かが連続で重く叩く音が聞こえ、これも遠い悲鳴が聞こえてきた。


「だいじょうぶ……大丈夫です。ナ……ナースコールで、助かりましたから……」


 彼女の着衣を調べている看護師の肩越しに、ボクと彼女の目線があった。


「ありがとう……助けてくれて……」

「いいのよ、これが仕事だから」

「本当に、キミが助かって、よかった……」


 勘違かんちがいをした看護師に体を支えられながら、震えながらでも彼女はボクの返事に、うなずいてくれた。

 よかったと心から思う反面、彼女の肩を抱くことができないのが、本当に悔しかった。


「何かあったらまた、ナースコールを押しなさいね」


 言い残して看護師が部屋を去り、ドアが閉められてから、ボクは彼女の側に寄り添った。


「ゴメン。ボクに力があったら、あんな奴にあんなことをさせなかったのに……」

「死神さんがいてくれたから助かったんだもの。気にしないで。――あ、でも……」


 彼女は何かを思いついたように人差し指を唇の端に当てた。


「私、しくじったのかも」

「何を?」

「もしかして、私があの人に殺されていたら、あなたのお仕事も楽に進んだのかもって」

「っ」


 瞬間、ボクの頭の中が、真っ白になった。

 それくらいの力が、彼女の言葉にはあった。彼女の言葉から、ボクは感じた。


「自殺じゃないんだもの。その方があなたにとって、都合が――」

「何を言うんだよ!!」


 ボクの怒鳴り声が稲妻いなずまとなって、彼女の頭を打った。


「殺されていいはずがないじゃないか!! もっと自分の命を大事にしてよっ!!」

「あ…………」


 自分でも今まで発したことがないほどの、重く熱い声。

 それを間近で受けた彼女は目を見開き、口を開け、そして小さく縮こまった。


「ゴ……ゴメンなさい……」


 そのままうつむき――くすくすと彼女は笑い出した。


「ど……どうして笑うのさ……」

「だって、可笑おかしいもの……可笑しいでしょ? 朝、いきなりこの部屋にやってきて、『今すぐ死んでくれないかな』って言った人が、同じ口で『自分の命を大事にしろ』なんて言うんだもの」

「ぐ」


 それ以上、何も言えなかった。


「――でも、死神さん、本当にありがとう」


 彼女は笑った。明るく、可愛く、愛らしく笑った。

 ボクがこの笑顔を守ったんだと、自慢したくなる笑顔だった。


「私、この命、本当に大事にする。もうすぐ死んでしまうけど、その時まで大事に、大事に、最後の最後まで大事にする。約束するわ。――私、あなたのこと――」

「えっ」


 最後の言葉は、唇の動きだけで――音に、ならなかった。


「え、あ、今、最後の、なんて」

「おやすみ!」


 風を巻くくらいの勢いでくるりと背中を向けて彼女は布団に潜り込み、枕元のスイッチに触れて部屋の照明を消した。


「あ、わ、うわ」


 うろたえているボクを背中にして彼女がくすくすと笑い、数分後には寝息がかなでられる。


「キミは……」


 キミは今、最後になんて言ったんだ?

 その解答を自分の中で得るには、朝までの時間は、あまりに短すぎた。

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