第3部:第2話 束縛の大蛇

 キャバクラ『狐の宴』が、今宵も艶やかな夜の帳に包まれる頃。


「隼人さん、この前のお客さん、ちょっと束縛がきつかったです」


 ホステスの梓が、隼人に相談を持ちかけていた。


「何があったんだ?」


「あの人、私に執着してるみたいで。トイレにも行かせて貰えず、息も詰まりそうでした…」


 梓の瞳に、憂いの色が浮かぶ。


「そうか。それは大変だったな。客だからって、女の子を完全に束縛するのは良くないな」


 隼人は、眉をひそめる。


「でも、お店の売上のためにも、お客様を無下にはできないし…」


 梓は、複雑な胸の内を明かす。


「梓、お前は自由に生きていい。客の束縛に屈する必要なんかない」


 隼人は、梓の目を見て真剣に言う。


「隼人さん…。ありがとう。隼人さんがそう言ってくれると、心強いです」


 梓は、隼人の優しさに救われた思いだった。


 一方、店内の片隅では、妖狐の姉妹が談笑している。


「ねえ、姉さん、この前の妖狐の集会、行きたくなかったの?」


 妹が、姉に尋ねる。


「ええ、あの集会は因習に縛られすぎていて、窮屈だったわ」


 姉は、うんざりした様子で答える。


「姉さんは自由な生き方がお好きだものね」


「そうなの。でも、伝統を守れだの、妖狐らしくあれだの、気楽に生きさせてくれないのよね」


 姉は、溜息をつく。


「まったく、古い習慣の束縛って、厄介よね」


 妹も、同感だという顔をする。


 そんな彼女たちの会話を、隼人は遠巻きに聞いていた。


(束縛か…。人間の世界でも、妖狐の世界でも、つきまとう問題なのかもしれないな)


 隼人は、束縛という言葉に思いを馳せる。そのとき、店のドアが勢いよく開く音が響いた。


「隼人殿、お願いです!」


 入ってきたのは、一人の老妖狐だった。その表情は、どこか惑いに満ちている。


「どうしました?」


 隼人が、老妖狐に駆け寄る。


「私の孫娘が、『束縛の大蛇』に囚われてしまったのです!」


 老妖狐は、必死の形相で訴える。


「『束縛の大蛇』だって…?」


 隼人は、聞き慣れない名前に戸惑う。


「八岐大蛇の分身にして、左腕の化身…。妖狐たちの自由を奪い、心を縛り上げる恐ろしい存在なのです」


 老妖狐は、恐怖に震える声で説明する。


「そんな…。妖狐の自由を奪うだって?」


 隼人は、愕然とする。


「隼人、これは看過できないね」


 そこへ翼も駆けつけ、隼人の隣に立つ。


「ああ、放っておけない。俺たちが、孫娘さんを取り戻してくる!」


 隼人は、力強く宣言する。


「頼もしいお言葉、感謝します!」


 老妖狐は、隼人に頭を下げる。


 妖狐にとって、自由とは何よりも尊いもの。隼人はそれを脅かす存在は、看過できなかったのだ。


「隼人、『束縛の大蛇』は左腕の化身なんだって。油断は禁物だよ」


 翼が注意を促す。八岐大蛇の力を甘く見てはならないのだ。


「わかってる。俺たちの全力を持って、孫娘さんを取り戻そう!」


 隼人の瞳には、たぎるような決意の炎が宿った。二人は、再び妖狐の世界へと向かった。


 森閑とした妖狐の里に、不穏な空気が流れる。


「隼人、ここは…」


 辺りを見回す翼。道の両脇には、無数の妖狐たちが佇んでいた。だがその瞳は虚ろで、生気を失っている。


「みんな、『束縛の大蛇』に魂を縛られているんだ…!」


 隼人は、歯を噛み締める。


「ハハハ…愚かな妖狐どもよ。私こそが、お前たちに安寧をもたらす存在だ」


 地の底から湧き上がるような、不気味な声。『束縛の大蛇』が、姿を現した。


「私の束縛こそが、お前たちに幸福を与える。自由など幻想に過ぎぬ」


 大蛇は、妖狐たちを惑わす言葉を紡ぐ。


「束縛された世界にこそ、喜びがある。逃れられぬ運命を受け入れることで、お前たちは余計な夢も見ず、心の平穏を得るのだ」


 甘美な囁きに、妖狐たちの心が揺らぐ。


「ふざけるな! そんな偽りの平和など、真の幸福じゃない!」


 隼人が、怒りの声を上げる。


「妖狐にとって大切なのは、自由に生きること。お前のような奴には、絶対に妖狐の心は渡さない!」


 自由を守る決意に燃える隼人。


「お前如きが、私の束縛を解けるものか。さあ、妖狐の心も体も、すべて我が物とするのだ!」


 『束縛の大蛇』が、恐ろしい気配を放つ。


「うわっ、こ、これは…!?」


 信じられない光景が、隼人たちの前に広がっていた。


 大蛇に洗脳された妖狐たちが、意思なき人形のように隼人に襲いかかってくるのだ。


「くっ…! みんな、正気に戻るんだ!」


 隼人は必死に呼びかけるが、妖狐たちには届かない。


「無駄だ。奴らの自由意志は、もはや死に絶えた。私にすべてを委ねるがいい」


『束縛の大蛇』が、不敵にわらう。


「そんな、簡単に諦められるか…! みんなを、必ず助け出してみせる…!」


 疲弊しながらも、隼人は戦い続ける。


 だが、妖狐たちの攻撃は止まない。圧倒的な束縛の力の前に、隼人と翼の反撃は、空しく宙に散っていく。


「ふっ、勝てはしない。私の束縛を受け入れよ」


 大蛇の声が、隼人の脳裏に突き刺さる。


「そんな…俺の力じゃ、どうにも…」


 倒れ伏す隼人。翼も、無念の表情で項垂れる。


 勝てない──圧倒的な絶望が、二人を包み込もうとする。


 だが、その時。


「隼人よ、諦めるにはまだ早い」


 凛とした声が、廃墟に響き渡った。


「ち、父上…!」


 姿を現したのは、隼人の父・鞍馬だった。


 妖狐の長である彼は、かつて数々の強敵を打ち倒してきた英雄でもある。その威風堂々とした佇まいは、今も健在だ。


「お前は今、自らに課した心の束縛に囚われている」


 鞍馬は、悟りの言葉を紡ぐ。


「強くなければならぬ、仲間を守らねばならぬ、妖狐の長の器ではない──己の枷に縛られているうちは、本当の力は発揮できぬぞ」


「何…?」


 隼人は、鞍馬の言葉の意味を探る。


「人は誰しも、己の信念に惑わされ、自らを縛る。だがそれは、真の強さへの試練。本当の自由とは、その呪縛から解き放たれた先にこそある」


 鞍馬の諭しに、隼人は目を見開く。


「悔しいが一理ある…! 俺は今まで、自分に課した使命に縛られていたのか…」


 隼人の脳裏に、かけがえのない仲間の笑顔が浮かぶ。


「俺がしたいのは、ただみんなの笑顔を守ることだ。みんなが誰にも縛られず、自由に生きることだ。そのために戦うんだ…!」


 隼人の瞳に、新たな光が宿る。


「…気づいたか。その決意こそが、お前を束縛から解き放つ」


 鞍馬は、静かに目を閉じる。


「隼人よ、心のままに戦うのだ」


「……」


 隼人は、鞍馬に礼は言わず『束縛の大蛇』に向かって立ち上がる。もはや迷いはない。ただ己の信念を胸に、戦うのみ。


 その身から、眩い光が放たれる。


「な、何だ、その光は!?」


 『束縛の大蛇』が、怯えた声を上げる。


「俺の心は、もう何者にも縛られはしない。自由の意志を持って、お前を倒す!」


 光に包まれた隼人が、大蛇に向かって突き進む。


 その拳は、かつてないほどの力強さに満ちている。


「た、たわごとを! 我が束縛を破ることなど、できはしない!」


 『束縛の大蛇』が、必死に隼人を攻撃する。だが隼人は、その攻撃をものともしない。


「俺の心は解き放たれた。もう、お前の言葉に惑わされはしない!」


 隼人の言葉は、妖狐たちの心にも響く。


 一人また一人と、束縛から解放された妖狐たちが、我に返っていく。


「私も…自由に生きたい!」


「隼人殿についていく! これが、私の意志だ!」


 次々と束縛を断ち切る妖狐たち。大蛇の支配は、瓦解し始めていた。


「こ、これは一体…!? 私の束縛が、次々と解かれていく…!」


 『束縛の大蛇』が、信じられない光景に愕然とする。


「みんなの心は、もうお前のものじゃない。自由を求める意志は、何物にも縛られはしないんだ!」


 隼人の言葉が、妖狐たちに勇気を与える。


「隼人殿、わたしたちも共に戦います!」


「束縛なんかに、負けるものか!」


 妖狐たちが、隼人の後ろに結集する。彼らの瞳には、自由を勝ち取る決意が燃えていた。


「僕も、君の力になる!」


 翼も駆け寄り、隼人の手を取る。


「 俺たちの絆は、何者にも縛られはしない! 『束縛の大蛇』よ、喰らえ!」


 隼人と翼、妖狐たちが力を合わせ、大蛇に拳を炸裂させた。


「ぐわあああ!」


 『束縛の大蛇』が、苦痛の叫びを上げ、妖狐たちが歓声を上げる。


「隼人殿、やりました!」


「私たちは、もう自由だ!」


 妖狐たちの喜びの声が、辺りに響き渡る。


「そんな…バカな…! 私の束縛が…破られるだとォ…!?」


 『束縛の大蛇』の体が、光に包まれ始める。


「自由を求める心は、決して束縛されはしない。さあ、消えろ!」


 隼人が、最後の一撃を放つ。


「う、うわあああ!」


 凄まじい光と共に、『束縛の大蛇』は封印される。


「…やったのか?」


 息を切らせながら、隼人が呟く。


「ああ…みんなの力のおかげだ。一人じゃ、こんな奇跡は起こせなかった」


 隼人は、仲間たちに感謝の眼差しを向ける。


「隼人殿、ありがとうございます! あなたのおかげで、自由を取り戻せました!」


 妖狐たちが、次々と隼人に駆け寄る。


「俺はただ、心のままに戦っただけだ。本当に助かったのは、自由を求めるお前たちの強い意志だよ」


 隼人は、優しい笑顔で妖狐たちを見つめる。


 その時、鞍馬が隼人に歩み寄った。


「お前は今日、大きく成長した。自らに課した束縛から解き放たれ、またひとつ力を発揮できるようになったのだ」


「…でも、俺は父上のような支配者になる気はない」


 隼人は、複雑な表情で呟く。


「ふっ、今はお前なりの生き方を選べばいい。だが、いつか力が必要になる時が来るだろう。その時は、また力を貸してやろう」


 そう言って、鞍馬は静かに立ち去っていった。隼人は、鞍馬の背中をじっと見つめる。彼もまた、自由を求めて歩んでいるのかもしれない。


 妖狐の里に、再び平穏が戻った。老妖狐の孫娘も束縛から解き放たれ、家族の元へと帰っていった。


 『狐の宴』に戻った隼人は、仲間たちに出迎えられる。


「隼人さん、おかえり! 無事で良かった!」


「お疲れ様! 活躍、聞いたよ!」


 紅葉や響也が、隼人を歓迎する。


「ただいま、みんな。俺は、もっと強くなりたい。もっと自由に、なりたいんだ」


 隼人は、仲間たちに向けて微笑む。


「隼人さんが目指す自由は、きっと特別なものだね。私たちも、隼人さんについていくよ」


「ああ、隼人の夢は、俺たちの夢だ。一緒に叶えようぜ」


 仲間たちの言葉に、隼人は頷く。


「そうだな。みんなと一緒なら、自由の意味もきっと見つかる。今日学んだことを胸に、また一歩ずつ。俺たちなりの道を、歩んでいこう」


 妖狐と人間が織りなす自由の世界。その実現のために、隼人は戦う。


 歌舞伎町の上には、今日も満天の星空が広がっていた。自由を目指す者たちを、優しく見守るかのように──。

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狐の宴~歌舞伎町怪奇譚 たきせあきひこ @puzzlepocket

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