第3部 大蛇の封印編

第3部:第1話 葛藤の大蛇

 歌舞伎町に夕日が差し込み、ネオンがぼんやりと灯り始める頃、隼人と翼がキャバクラ『狐の宴』の扉を開けた。


 店内に足を踏み入れた二人を、馴染みの面々が笑顔で出迎える。


「お帰り、隼人さん、翼さん! 無事で良かったです!」


 ホステスの紅葉が駆け寄り、安堵の表情で二人を抱きしめた。隼人は優しく微笑みながら、紅葉の背中を抱き寄せる。


「ただいま、紅葉。心配かけて悪かった」


 カウンター越しに料理人の英嗣も手を振りながら、隼人たちを迎える。


「隼人オーナー、翼マネージャー。お帰りなさい。いい仕事してきたみたいですね」


「ありがとう、英嗣さん。みんなのおかげだよ」


 翼も晴れやかな表情で答える。店内は温かな空気に包まれ、いつもの賑やかさが戻ってきた。


 しばらくぶりに戻ってきた隼人と翼を歓迎するように、『狐の宴』の面々は歓声を上げる。さっそく祝杯を上げようと、ホステスの朱璃がシャンパンを取り出した。


「隼人さん、翼さん、おかえりなさい。今日は思う存分飲んでいってくださいね」


 豪快にシャンパンを注ぐ朱璃に、隼人と翼は顔を見合わせて笑った。『狐の宴』は、いつだって彼らの帰る場所だ。苦楽を共にしてきた仲間との再会に、二人の表情はすっかり和らいでいる。


 楽しげな宴の最中、ふいに店の扉が勢いよく開かれた。


「た、助けてください! 隼人様、お願いです!」


 必死の形相で飛び込んできたのは、見慣れぬ一人の妖狐だった。その言葉に、隼人は驚きつつも冷静に歩み寄る。


「どうしたんだ? 落ち着いて、ゆっくり話してくれ」


 隼人が安心させるような声で問いかけると、妖狐は、ひざまずいたまま涙を浮かべ事情を語り始めた。


「私の仲間が、八岐大蛇やまたのおろちの分身にさらわれてしまったんです! お願いします、助けてください!」


 その言葉に、店内が騒然となる。


「八岐大蛇だって…!? あやかしのボスじゃないか…!」


 隼人の言葉に、翼も険しい表情で頷く。


「隼人…。八岐大蛇にさらわれたって大変なことなんだよね」


「ああ」


 隼人は真剣な面持ちで頷くと、妖狐の手を取って立ち上がらせた。


「心配するな。俺が必ず助けに行く。八岐大蛇から友だちを救い出そう!」


 隼人の言葉に、妖狐は涙を浮かべながら頭を下げた。隼人は決意に満ちた表情で、仲間たちに向き直ろうとする。


 その時、店内が突如として神々しい光に包まれた。眩い光が収まると、そこには荘厳な佇まいの稲荷神が現れた。


「待つのだ、隼人よ。お前一人の力では、八岐大蛇には敵わぬぞ」


 稲荷神の凛とした声が、店内に響き渡る。隼人は驚きつつも、稲荷神に向かって頭を下げた。


「稲荷神様…! 一体どういうことでしょうか?」


 隼人が畏まりながら尋ねると、稲荷神は静かに語り始めた。


「八岐大蛇の封印が解かれつつあるのだ。太古の昔、我ら稲荷神によって八岐大蛇はばらばらにされ、各地に封印されていた。だが今、その一部の封印が解け、分身たちが動き出したのだ」


「分身…?」


 隼人が眉をひそめる。


「うむ。中でも、私の封印を破り飛び出した『葛藤の大蛇おろち』が、激しく暴れておる。多くの妖狐を惑わし、その力を吸い上げているのだ」


 その言葉に、隼人と翼は愕然とした。


「このままでは、妖狐も人間も、再び八岐大蛇に心を喰らわれてしまうやもしれぬ」


 稲荷神の危惧に、二人の表情が曇る。稲荷神は続けた。


「隼人殿。そなたには妖狐の長としての資質がある。どうか、そなたの力を貸してほしい。『葛藤の大蛇』の封印を、そなたに任せたいのだ」


 稲荷神の言葉に、隼人は運命の重みを感じずにはいられない。


「俺が…、大蛇の封印を…?」


 戸惑う隼人に、稲荷神は真摯な眼差しを向けた。


「八岐大蛇の分身を封じるには、妖狐のおさくらい強力な力が必要なのだ。その力は神をもしのぐ。隼人殿のお父上である鞍馬殿も、その力の片鱗を宿しておられる。どうか、親子で手を取り合い、大蛇を封印して欲しい」


 鞍馬の名前を聞いて、隼人の表情が曇る。鞍馬は妖狐の長として、隼人の力を世界を支配する野望のために利用しようとしている。一方、隼人は母・小百合の遺志を継ぎ、人と妖狐が共存できる世界を目指しているのだ。


 そんな二人が手を組むことなど、ありえないことだ。


「父上の力を借りるですって…? あいつは妖狐も人間も支配しようとするようなやからです!」


 隼人を見て、翼が心配そうに声をかけた。


「隼人…確かに鞍馬は信用ならないけど、今はどうしても彼の力が必要なんでしょ?」


 隼人は唇を噛み締め、答える。


「…わかってる。でも、世界を支配しようとするようなやつと、一緒には戦えない」


「葛藤があるのは重々承知しているが…。隼人殿には、鞍馬殿とも協力し、妖狐の長としての真の力を引き出していただきたい…」


 稲荷神の言葉に、隼人は重々しく頷いた。


「…俺には、妖狐の長の力を引き出すことが、父上の野望に加担することになりそうで怖いんです。でも、八岐大蛇を封印するためには、父上と一緒に戦うことも必要なんですよね…」


「そうだな。そなたの葛藤は、良くわかる。だが、そなたの力が妖狐の世界も人間の世界も救うことになるのだ」


「俺は、まだ父上と一緒に戦えるかはわかりません。でも、力が目覚めても父上の野望には絶対に協力しません。それでよければ、俺にやらせてください」


「そう。それでよい。そなたの流されない心の強さ。それこそが、妖狐の長たる者の器でもある」


 そう言って、稲荷神は隼人の肩に手を置いた。温かな光が隼人の体を包み込む。


「私の加護があれば、鞍馬殿の力に飲まれることもないだろう。そなたの心を信じ、精進を重ねて欲しい」


「ありがとうございます、稲荷神様」


 厳しい表情ながらも、隼人の目には希望の光が灯っていた。


「では、鞍馬殿からの助言を授けよう」


 稲荷神が言葉を続ける。


「父上からの助言だって?」


 隼人は驚きを隠せない。


「うむ。『妖狐の長たるもの、己の心を制することが肝要だ。心の葛藤に負ければ、八岐大蛇に魂を喰われる。己を信じる強さを持て』とのことだ」


「いや、だから俺は、長になる気は…」


 隼人は戸惑いを隠せずにいた。自分の力を父・鞍馬に利用されるのではないかという不安が、心をよぎる。


「隼人、鞍馬が協力してくれるだけでも、よしとしよう」


 翼が隼人の背中を押すように言葉をかける。


「今回は、鞍馬の力もみんなの助けになるんだから」


 翼の言葉に、隼人は複雑な表情で頷いた。確かに目の前の脅威に立ち向かうためには、自分の力が必要とされているのだ。だが、それが鞍馬の思惑通りに動くことにつながるのではないか──そんな葛藤が隼人の心を締め付ける。


「…わかった。俺にできることを、精一杯やってみる。ただし、鞍馬の言いなりになるつもりはない」


 隼人の言葉に、稲荷神も翼も頷く。隼人の決意は、自分の信念に基づいたものだと理解しているのだ。こうして隼人と翼は、『葛藤の大蛇』討伐へ出かけることとなった。


 妖狐の里へ向かう道中、隼人の心には葛藤と覚悟が渦巻いていた。妖狐の長として、仲間を守るために戦うこと。だが同時に、その力を鞍馬の野望のために利用されることへの警戒心も拭えない。


(俺は、自分の信じる道を進むんだ…。決して鞍馬の言いなりにはならない…)


 そう心に誓う隼人。長い道のりを経て、一行は妖狐の里の洞窟へ辿り着いた。


「この奥に、八岐大蛇の分身『葛藤の大蛇』が潜んでいるのか…」


 隼人が身を竦ませながら呟く。


「隼人殿、そなたなら必ずや使命を果たせるはず。私はそなたの心の強さを信じておる」


 そう言うと、稲荷神は一振の日本刀を手渡した。


「はい! みんなを守るため、そして自分自身のためにも、必ず『葛藤の大蛇』を封印します!」


 刀をかかげながら隼人は誓う。そうして三人は、深い洞窟の中へと足を踏み入れていった。


 洞窟の中は、予想以上に暗く、じめじめとした空間が広がっている。


「なんて不気味な場所なんだ…。妖気も薄気味悪いし…」


 翼が身震いしながら言う。隼人も同感だったが、こんな時こそ強気でいなければならない。


「大丈夫、俺たちなら必ず封印できる。…ん?」


 その時だった。


「隼人、前方に何かいるよ!」


「なっ…!?」


 翼の指差す先、洞窟の奥から巨大な影が現れた。


「ハハハ…ようこそ、愚かなる者どもよ」


 それは鱗に覆われた、蛇のような肌を持つあやかしだった。八岐大蛇の分身『葛藤の大蛇』だ。


「お前が『葛藤の大蛇』か! 攫った妖狐たちはどこだ!」


 隼人が怒りを込めて問いかける。大蛇はニヤリと不気味に笑うと、尾で洞窟の壁を指し示した。


「ほれ、そこだ」


 壁には、無数の妖狐たちが張り付けられていた。みな意識を失っているようで、まるで操り人形のように動かない。


「な、なんてことを…!」


 怒りに震える隼人に、大蛇は愉快そうに言った。


「何が許さないだ。妖狐の長を気取るお前こそ、私に魂を捧げるがいい。さすれば、とっておきの番犬にしてやろう」


「ふざけるな! 俺は誰の犬にもならない! 必ずお前を倒す!」


 隼人が刀を構え、鋭い眼光を浴びせる。すると、『葛藤の大蛇』もさすがに本気になったようだ。


「どこまでも愚かだな。ならば、その若さゆえの葛藤、存分に見せてもらおうではないか!」


 大蛇が勢いよく襲いかかってくる。


「来いっ! お前を必ず封印してみせる!」


 こうして、隼人と『葛藤の大蛇』の壮絶な戦いの火蓋が切られるのだった。大蛇の猛攻に、隼人は必死で応戦する。だが、大蛇の力は想像以上に強大で、次第に隼人は劣勢に立たされていく。


「くっ…! こいつ、手強い…!」


「ハハハ! 妖狐の長の器があるとはいえ、所詮は若造。私の力には及ばぬわ!」


 大蛇の尾が、鞭のように隼人を襲う。隼人は何とか刀で防ぐが、徐々に体力が奪われていくのを感じていた。


(このままじゃ、いずれ力尽きてしまう…! 何とかしないと…!)


 その時、不意に洞窟に渦巻く妖気が変化した。それは隼人にも覚えのある気配だ。


「隼人よ、情けない。それが八岐大蛇との戦いの全てか?」


「父上!」


 現れたのは、隼人の父親であり、妖狐の長・鞍馬だった。隼人は複雑な表情で鞍馬を見つめる。


「貴様は妖狐の長・鞍馬! 何をしに来た!」


 そう言って大蛇が牙をむく。それに対し、鞍馬は不敵に笑みを浮かべた。


「八岐大蛇の分身とはいえ、復活したばかりでそれほどの力はないようだな」


「黙れ、鞍馬! お前も八岐大蛇様に魂を喰われたいのか!」


「ハッ、脅しても無駄だ。『葛藤の大蛇』よ、私からも一つ忠告しておこう。私の息子をなめるな。妖狐の長の力に目覚めれば、奴の強さはこんなものではない」


 鞍馬の言葉に、大蛇が目を剥く。だが、隼人は鞍馬の気持ちに反発した。


「父上…! 俺の力は、あんたの野望のためには使わせない…!」


「隼人よ、まあ聞け。私の力を借りれば、お前は楽に『葛藤の大蛇』を倒せるぞ」


「いや、俺は…。俺は、あんたの力に頼るつもりもない!」


 隼人は敵意をむき出しにして言い放つ。鞍馬は不敵に笑った。


「つれないことを言うな。お前だけの力では、大蛇には敵わないだろう」


「うるさい! 俺は、独りで戦う!」


 そう言って隼人は、再び大蛇に立ち向かっていく。だが、その攻撃はことごとく弾かれ、隼人は徐々に追い詰められていった。


「くっ…! こいつ、強すぎる…!」


「隼人、私の言う通りだろう? お前には、まだ私の力が必要なのだ」


 鞍馬が再び言う。隼人は苦々しい表情で、己の無力さを噛みしめていた。


(くそっ…! このままじゃ、みんなを守れない…!)


 葛藤に揺れる隼人。その時、稲荷神が言葉を紡いだ。


「隼人殿、妖狐の長としての力を使うのだ。それがそなたの宿命なのだ」


「だが、そうなれば…俺は父上の野望を手助けしてしまう…!」


「そなたに妖狐の長の力が備わっているのは事実だ。それを受け入れ、目覚めるのだ」


 稲荷神の言葉に、隼人の葛藤はさらに深まる。見かねた翼が声をかけた。


「隼人、君は正しい道を歩める人だ! たとえ妖狐の長になっても、君なら大丈夫だよ!」


 翼の言葉が隼人の背中を押す。隼人は唇を噛み、答えた。


「…わかった。だが、俺は決して父上の言いなりにはならない。この力は、みんなを守るために使う!」


 そう宣言すると、隼人の体が淡い光に包まれた。


「葛藤を乗り越えただと…!?」


「おお、隼人殿が妖狐の長の力に目覚めつつある…!」


 大蛇が目を剥き、稲荷神は感嘆の声を上げる。光が収まると、隼人の周りには妖気が渦巻いていた。


「行くぞ、父上…! 俺たちで、大蛇を倒すんだ!」


「ふん…その意気だ。さあ、私の力を借りて戦うがいい!」


 鞍馬も妖気を解き放ち、親子二人で大蛇に立ち向かう。


「八岐大蛇の分身よ、我らの力を思い知るがいい!」


 鞍馬の放った強烈な妖気が、大蛇を直撃する。


「ぐわああっ! き、貴様ら…!」


 追い詰められた大蛇に、隼人がトドメの一撃を放つ。


「これで終わりだ! 『葛藤の大蛇』よ、消えろ!」


 閃光が走る。


「ぐおおおお! こ、この私が…再び…封印されるとは…!」


 凄まじい光が洞窟を満たし、大蛇は消滅した。


「…やったのか?」


 放心状態の隼人に、鞍馬が話しかける。


「ああ、お前は立派に戦った。だが、私の力がなければ勝てなかっただろう?」


「…俺は、あんたの力に頼ったわけじゃない。この力は、仲間を守るために使ったまでだ」


 そう言い切る隼人。鞍馬は憮然としながらも、特に言い返すことはせず去っていった。


(一人では、まだ八岐大蛇には及ばない…。だが、鞍馬の下につく気はない…!)


 葛藤を抱えつつも、隼人は前を向く。張り付けられていた妖狐たちが我に返り、隼人に駆け寄った。


「隼人様、ありがとうございます! 助けていただき、感謝します!」


「ああ、もう大丈夫だ。みんなで力を合わせれば、どんな強敵にも負けない。まずは仲間との絆を強めるところから始めよう」


 妖狐たちの歓喜の声が、洞窟に響き渡る。かくして『葛藤の大蛇』の脅威は去った。


 『狐の宴』に戻った隼人を、華やかな拍手が出迎えた。


「おめでとう、隼人! 『葛藤の大蛇』を見事に倒したって話だな!」


「隼人オーナー、お帰りなさい。無事で本当に良かった…! みんな心配してたんだから」


 紅葉と響也が駆け寄り、安堵の表情で隼人を出迎える。店内には、隼人の帰りを待ちわびていた仲間たちの姿があった。


「ただいま、紅葉、響也。それに…みんな」


 隼人は、こみ上げる感情を堪えながら言葉を続ける。


「俺一人の力じゃない。お前たち、仲間がいたからこそ戦えたんだ。…ありがとう」


 隼人の言葉に、店内が暖かな空気に包まれる。紅葉が隼人の手を取り、優しく微笑んだ。


「私たちはいつだって、あなたの味方よ。ずっとそばにいるわ」


「ああ、その通りだ。お前が道を外れそうになったら、みんなで引っ張り戻してやるからな」


 響也も思わず口元を緩める。隼人は感謝の気持ちを胸に、改めて仲間の顔を見つめた。


「…そうだな。道は平坦じゃない。今度は八岐大蛇の封印だ。でも、妖狐と人間が共存できる世界を作るまで、俺は全力を注ぎたい。だから協力してくれ。お前たちと一緒なら、どんな困難も乗り越えられる気がするんだ」


 隼人の心に、確かな手応えと希望が宿る。仲間との絆があれば、必ず世界を救うことができると。


「さあ、まずは『葛藤の大蛇』を倒した祝いだ! みんなで楽しく騒ごう!」


 満面の笑みを見せる隼人。店内は歓声に包まれ、宴の準備が始まるのだった──。

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