第2部 異界の祭り編
第2部:第1話 慈悲の祭り
深紅に染まる夕空。歌舞伎町の喧騒を背に、隼人は静かに目を閉じていた。ほんの一年前までは、確かに存在していた母の面影が、脳裏に焼きついて離れない。
「母さん…」
呟きが、冷たい風に乗って虚しく消えていく。隣で足を止めた翼が、隼人の表情を案じるように見つめていた。
「隼人、無理しなくていいんだ。母親を失った悲しみは、そう簡単に癒えるものじゃない」
「…わかってる。でも、母さんが最後に残した言葉を、無駄にはできないんだ」
隼人の瞳に、かすかな炎が灯る。それは、かけがえのない人の遺志を継ぐ者の、揺るぎない決意の表れだった。
「人間と妖狐が、共に生きられる世界。俺はその実現を、母さんに約束したんだ」
風が二人の髪をなびかせる。歌舞伎町のネオンが、やけに眩しく感じられた。
「俺、妖狐の世界に行くよ」
不意に告げられた隼人の言葉に、翼の瞳が見開かれる。
「隼人…! それじゃまるで、鞍馬の思うつぼだ。妖狐の世界は危険なんだぞ」
「わかってる。でも、母さんが何故死ななければならなかったのか…真相を確かめずにはいられない」
隼人の口調は静かだが、そこには譲れない意志が宿っていた。
「母さんの無念を晴らすため、そして人間と妖狐の架け橋となるため。俺は、行かなきゃいけないんだ」
翼は無言で目を伏せる。隼人の決意は、揺るがないことを悟っていた。
「…わかった。だったら、僕も一緒に行く」
「翼…!?」
「隼人の親友として、君を一人で行かせるわけにはいかないだろ? 僕にも手伝わせてくれないか」
真摯な瞳で語りかける翼。隼人は驚きを隠せずにいた。
「いいのか…? 妖狐の世界は、俺たち人間にとっては過酷な場所なんだぞ」
「それくらいのリスクは覚悟の上さ。隼人と共に世界を変える。それが、僕の決意だ」
言葉には迷いがない。隼人は観念したように瞼を閉じ、小さく息を吐いた。
「…ありがとう、翼。心強いよ」
二人の間に、固い絆で結ばれている手応えが伝わっていく。
数日後、『狐の宴』に別れを告げる隼人と翼。店を任される響也は、気丈に振る舞っていた。
「隼人、翼。レディたちは僕に任せてくれ。必ず帰りを待ってるぜ」
澪と紅葉も、涙を浮かべつつ微笑んでいる。
「無事を祈ってます。絶対に戻ってきてくださいね」
「ご武運を。私たちは必ずあなた方の帰りを待っています」
朱璃に梓、英嗣も心配そうな面持ちで見送る。そして銀次。
「隼人、悪ィな。俺も行きたかったぜ…せめてみやげ話くらい聞かせてくれよな」
茶化すように言いつつ、銀次の言葉には親友を案じる温もりが滲んでいた。
「ああ、約束する。かっこいい土産話、楽しみにしてろよ」
笑顔で応える隼人。最後に、みなの温かな視線を受けて、隼人はゆっくりと告げた。
「みんな、必ず帰る。俺はここに…母さんの遺志を果たすと誓うよ」
『狐の宴』の面々に見送られ、隼人と翼は妖狐の世界への扉へ歩みを進める。差し込む陽光が、未知なる世界への道を照らしていた。
現世と隔絶された、妖狐の住まう不思議な世界。
鮮やかな橙色をした空。逆巻く炎のような雲。所々に、燐光を放つ狐火が漂っている。
隼人と翼の眼前に広がるのは、それはもう現実離れした幻想的な光景だった。
「ここが、妖狐の世界…?」
目を丸くする翼に、隼人も感嘆のため息をもらす。
「ああ…母さんから聞いた通りだ。この世界の美しさは、人間の想像を超えている」
足元の大地は深い藍色をしており、まるで海の底を歩いているかのような錯覚を覚える。
空を見上げれば、星々が点在し、まるで絵画のように美しい夜空が広がっている。よく目を凝らしてみると、星々の中に、無数の狐火が交じっているのが分かった。
「隼人、あれを見てくれ…!」
緊張した面持ちの翼が、遠くの一点を指差す。隼人が視線を向けると、そこには神秘的な光景が広がっていた。
鳥居のような巨大な門。その前で、数多の妖狐たちが列をなしている。皆、厳かな面持ちで佇んでいる。
「あれは…まるで、祭りのようだな。妖狐たちは、何をしているんだ…?」
隼人の呟きに、翼も首を傾げる。二人の視線の先、妖狐たちの列の前方に、一際大きな狐火が輝いていた。
やがてその狐火が形を変え、一人の男の姿となる。長い白髪に、鋭い眼光。隼人と翼は、その存在感に圧倒された。
「あ、あの妖狐は、他とは格が違う…まるで長老のようだ」
翼の観察に、隼人も頷く。男は狐火に照らし出された高座に立つと、集まった妖狐たちに語りかけた。
「我が同胞たちよ。今宵は『慈悲の祭り』の夜。罪を犯した者が、許しを乞う夜」
長老の声は、酒々としていながらも、どこか哀愁を帯びて聞こえる。
「過ちを犯した者たちよ、前に出よ。そして己の罪と向き合うのだ」
その呼びかけに、列から数体の妖狐が進み出る。その全員が、罪の意識に苛まれているのか、うつむいて佇んでいた。
対して、彼らと向かい合う形で、別の妖狐たちが立つ。長老は、彼らに向かって言った。
「被害に遭った者たちよ。加害者を直視し、思いの丈を述べよ」
被害者の妖狐たちが、前に進み出る。そのうちの一人が、罪を犯した妖狐に向かって語り始めた。
「私は、あなたに傷つけられました。信頼していたのに、裏切られた悲しみは、深く心に刻まれています」
その言葉に、加害者の妖狐は身を竦ませる。しかし、被害者の妖狐は続ける。
「それでも、あなたが罪と向き合う姿を見て、私は考えを改めました。憎しみを手放し、あなたを許そうと思うのです」
その言葉に、加害者の妖狐の瞳から、涙がこぼれ落ちた。
「申し訳ありませんでした…。私の過ちは、償いきれないほど大きいのです」
罪の告白に、被害者の妖狐は静かに微笑む。
「罪を認めることが、贖罪への第一歩。あなたを許し、新たな関係を築きたいと思います」
そう言って、被害者の妖狐は、加害者の妖狐に手を差し伸べた。
その光景を見ていた隼人は、言葉を失っている。
(罪人を、これほど慈悲深く迎え入れるなんて…)
隣の翼も、感嘆の息を漏らしていた。
「隼人、あれが本当の慈悲なのかもしれない。憎しみを乗り越え、理解し合おうとする心…」
「ああ…俺も、あの妖狐たちを見習わないとな。鞍馬への怒りに囚われていちゃ、前に進めない」
そう呟く隼人の胸に浮かび上がるのは、母・小百合の微笑み。
(母さん…俺も、あなたの教えを胸に刻むよ。憎しみではなく、慈悲の心を持って生きる)
『慈悲の祭り』は、隼人の心に静かな革命を起こしていた。
やがて祭りは終わりを告げ、妖狐たちは去っていった。残されたのは、感慨に浸る隼人と翼の姿だけだ。
祭りを見学した後、隼人と翼は感慨に浸っていた。
「隼人、この祭りを通して、僕らは慈悲の大切さを学んだね」
翼の言葉に、隼人は静かに頷く。しかし、どこか釈然としない表情を浮かべていた。
「ああ、慈悲の心は尊いものだ。だが…本当に、全ての罪が許されていいのかな?」
「どういう意味だい、隼人?」
隼人の問いかけに、翼は眉を顰める。
「罪を償う意志のない者まで、無条件に許していいのかってことだよ」
隼人の言葉は、真剣そのものだった。
「隼人…。確かに、罪の重さは人それぞれ違う。償いの意志も、変わってくるだろうね」
「そうだろ? 罪を犯しておきながら、許しを求めるだけの奴もいる。そんなヤツは、許されていいのか?」
隼人の口調は、次第に熱を帯びてくる。対する翼は、困ったように息を吐いた。
「隼人、慈悲とは無条件のものだと思う。罪人の心まで測ろうとするのは、慈悲じゃない」
「でも、それじゃ罪人をのさばらせるだけだ! 被害者の気持ちを踏みにじるようなもんだろ!」
「だからと言って、全ての罪人を糾弾していいのかい? それは、あまりに過酷だよ」
翼の言葉に、隼人は思わず食ってかかる。
「お前は、甘いんだよ! 罪を犯した以上、相応の代償が必要なんだ!」
「隼人! 君は、慈悲の心を忘れているんじゃないか!」
翼も、声を荒げて反論する。
「俺は、現実を直視してるだけだ! お前こそ、理想ばかり追いかけて!」
「君は、憎しみに目が曇ってるんだよ! そんなんじゃ、鞍馬と同じだ!」
翼の言葉に、隼人は絶句する。
「…なんだと? 俺を、鞍馬と一緒にするのか…?」
「いいや、違う! 君は、鞍馬とは違う…ごめん、言い過ぎた」
我に返った翼は、隼人に詫びる。隼人もまた、自分の感情に任せて言い過ぎたことを感じていた。
「…いや、謝るのは俺の方こそだ。お前の言う通り、俺は慈悲の心を忘れかけていた」
隼人は、深々と頭を下げる。
「隼人…。君の、被害者に寄り添う気持ちは分かるよ。ただ、そこに囚われ過ぎないで欲しい」
「ああ、肝に銘じる。憎しみに負けず、慈悲の心を持ち続けることの大切さをな」
隼人は、翼の言葉を心に刻むのだった。
「翼、ありがとう。君がいなかったら、俺は道を踏み外していたかもしれない」
「隼人…。君を助けられるのは、僕の喜びだよ。君と共に、真実へ至る道を歩みたい」
そう言って微笑む翼。隼人もまた、親友の温かさに心を洗われる思いだった。
(翼…俺は、お前の優しさに、どれだけ救われただろうか)
心の中で、隼人は翼への感謝の想いを馳せる。
「俺たちは、お互いに高め合える。慈悲の心を忘れず、真っ直ぐ進もう」
「うん。二人なら、必ず真実にたどり着ける。そして、新たな世界を築けるはずだ」
固い握手を交わし、隼人と翼は再び歩み出す。
一時は対立した二人の思想。されど、互いを思いやる心があれば、乗り越えられる。
慈悲と、それを実践する寛容の心。二人の学びは、まだ始まったばかりなのだった。
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