第1部:第13話 虚無の狐

 歌舞伎町のネオンが煌めく夜。キャバクラ『狐の宴』では、いつものようにホステスたちが華やかに客をもてなしていた。


 店内の喧騒を離れ、マネージャーの翼は事務所で伝票の整理をしている。蛍光灯の明かりに照らされた紙の山を前に、翼はふと顔を上げる。そこには、上品な額縁に収められたオーナーの隼人との2ショット写真があった。


(隼人…僕は隼人と二人で、この店を作り上げてきた。隼人の力強さと優しさに、いつも助けられてばかりだ。でも、僕の想いは伝えられないまま…)


 翼は隼人への密かな想いを胸に秘めていた。仕事のパートナーとしての信頼関係を壊したくない一心で、翼はその想いを隠し続けている。


 そんな翼の胸の内を知ってか知らずか、事務所のドアがノックされる。


「翼さん、ちょっといいかしら?」


 甘い声と共に、ドアが開かれた。するとそこには、艶やかなドレス姿の紅葉が立っていた。


「紅葉さん、どうしたの? いつもより早い時間だけど」


「実は、ちょっと話があって…」


 妖艶な微笑みを浮かべる紅葉。しかしその瞳は、いつもの輝きを失っているように見えた。


 翼は席を立ち、紅葉をソファーに案内する。オレンジ色の照明が、しっとりと二人を照らし出す。


「…話って、なんですか?」


「翼さん、私…最近、仕事に疑問を感じているの」


 切り出した紅葉の言葉に、翼は思わず眉をひそめる。


「疑問、って…?」


「お客様を楽しませることが、私の生きがいだと思っていた。でも最近、このままでいいのかなって…」


 いつになく弱気な紅葉の様子に、翼は戸惑いを隠せない。紅葉といえば、いつだって仕事に熱心で、ホステスの鏡とも呼べる存在だ。そんな彼女が悩みを抱えるなんて。


「紅葉さん、どうしてそんなふうに考えるようになったの?」


「…昨日、ひとりのお客様と話をしたの。人生に意味なんてない、バーで過ごす時間は無意味だって言われて…」


 紅葉の瞳から、ますます輝きが消えていく。


「お客様の言うとおりかもしれない。私たちは一時の夢を売る商売だわ。お客様の人生から見たら、取るに足らない存在なのかもしれない…」


 そう言いながら、紅葉は悲しげに目を伏せる。


 翼は、動揺を隠しきれずにいた。紅葉の言葉は、翼自身が抱える疑問とも重なる。客を笑顔にすることが自分たちの使命だと信じていたが、この仕事に本当の意味はあるのだろうか。


「君の気持ちは分かる。正直言って、僕だって似たようなことを考えたことがある」


 しかし、目の前で打ちひしがれる紅葉を見ていられない。翼は、何とか彼女を勇気づけようと言葉を紡ぐ。


「でも、君はいつだって素晴らしい接客をしてきた。お客様だって、君と過ごす時間を楽しみにしているはずだよ」


 優しく微笑みかける翼。けれど紅葉の表情は、依然として晴れない。


「翼さんは優しいわ。でも、私たちがこの店で過ごす時間は、お客様にとってはほんの一瞬のことなのかもしれない。結局は、現実逃避のお手伝いをしているだけなのよね…」


 言葉を紡ぐ紅葉の指先が、わずかに震えている。その姿に、翼は胸を痛める。


(紅葉…君の悩みは、僕にはあまりにも重く感じられる。けれど、君の力になりたい。隼人に頼るのは簡単だけど、今度は僕が紅葉を助けなきゃ…!)


 そう心に誓った翼は、紅葉の手を静かに握る。


「紅葉、君は一人じゃない。僕や隼人、他のホステスの子たちだっている。みんなで力を合わせれば、答えは見つかるはずだよ」


「翼さん…」


 翼の思いに心打たれたのか、紅葉の瞳に僅かな光が戻る。その時、事務所のドアが不意に開かれた。


「翼、紅葉。ちょっといいか?」


 現れたのは、オーナーの隼人だった。いつになく緊張した面持ちの隼人を見て、翼の鼓動がドキリと跳ねた。


「隼人、どうしたんだい?」


「ちょっと変な話なんだが…客席に見慣れない女性がいるんだ。どこかの芸能事務所の人間かと思ったんだが、どうも様子が…」


 その言葉に、紅葉が息を呑む。


「まさか…例の…」


 紅葉の反応に、隼人が眉根を寄せる。


「例の、って…?」


「私、昨日少し変わったお客様と話をしたの。人生に意味なんてない、バーで過ごす時間は無意味だなんて言っていて…」


 その言葉に、隼人の表情が一変する。


「それは…『虚無の狐』の言葉だ…!」


 隼人の言葉に、事務所に緊張が走る。


「『虚無の狐』…あの伝説の妖狐が、まさか私たちの店に…?」


 青ざめる紅葉に、翼は懸命に話しかける。


「紅葉、落ち着いて。僕たちには隼人がいる。必ず守ってくれるはずだ」


 半妖の血を引く隼人の存在は、『狐の宴』の面々にとって心強い味方だ。だが隼人は、少しだけ弱気な複雑な表情を浮かべる。それだけ、『虚無の狐』の力は強大なのだろう。


「…みんなには、もう話しておくべきだったのかもしれない。実は俺の父、鞍馬が放った妖狐の一匹なんだ。『虚無の狐』は」


「え…!?」


 衝撃の事実に、紅葉も翼も言葉を失う。隼人は二人の反応をしっかりと受け止めつつ、静かに立ち上がる。


「いずれにせよ、あの妖狐を放っておくわけにはいかない。俺が食い止める」


「隼人、一人で行くつもりかい…?」


 翼の制止の言葉も空しく、隼人は静かに事務所を後にする。その凛とした背中を見送りながら、翼の脳裏をある考えがよぎる。


(もし…隼人でも『虚無の狐』に敵わなかったら…僕には、仲間を守ることができるだろうか…)


 胸に去来する不安。けれど翼は、その思いを振り払うように首を振る。


「…紅葉、僕は君を一人にはしない。必ず君の力になるから」


 そう言い残し、翼は紅葉の手を握り締める。


「翼さん…ありがとう。私、もう逃げたりしない。隼人さんと翼さんと共に、この店を守るわ」


 力強く頷く紅葉。二人は固い決意を胸に、ホールへと向かうのだった。


 ホールに足を踏み入れた翼と紅葉の前に、蠱惑的な笑みを浮かべる女性の姿があった。真紅のドレスに身を包み、艶やかな黒髪を揺らす彼女。その妖しい雰囲気に、店内がざわめきに包まれる。


「私が『虚無の狐』よ。愚かな人間たちよ、虚無の中に溺れるがいい…」


 甘美な声が、人々の心を蝕んでいく。常連客たちの表情が、みるみるうちに虚ろになっていく。


「まずい…お客さんたちが、『虚無の狐』に取り憑かれてしまう…!」


 紅葉が息を呑む中、隼人が一歩前に出る。


「『虚無の狐』…客を巻き込むのはよしてもらおうか」


 低く抑えた声で、隼人が告げる。けれど『虚無の狐』は、愉悦の笑みを深めるばかりだ。


「ああ、隼人。久しぶりだね。鞍馬の忌まわしき血を引く半妖の子よ」


 その言葉に、客席がどよめく。


「オーナーが…妖狐だって…?」


「いったい、何が起こってるの…?」


 動揺が店内を支配する中、隼人は『虚無の狐』を見据える。


「俺の血のことはどうでもいい。お前の目的は何だ?」


「フフフ…私はただ、虚無の美学を広めているだけよ。この世に真の意味などない。無に身を委ねることこそ、究極の悟りなのだから…」


 妖艶な微笑みで語る『虚無の狐』。その甘い誘惑に、何人ものホステスが心を奪われていく。


「く…『虚無の狐』の魔力に、仲間が…!」


 紅葉の悲痛な叫びが、翼の胸を締め付ける。


(ここまで強力な妖狐だなんて…! このままでは、店も、仲間も…!)


 焦燥が胸を駆け巡る。その時、『虚無の狐』の視線が、紅葉に注がれる。


「ほう…仲間想いの純真な魂。だが、お前も私の虚無に飲み込まれるがいい…!」


 不敵な笑みと共に、『虚無の狐』が紅葉に襲いかかる。


「紅葉、危ない!」


 咄嗟に紅葉を庇う翼。しかし、『虚無の狐』の魔力は、容赦なく二人を飲み込んでいく。


「う、ぐっ…『虚無の狐』の魔力が…心に入り込んでくる…!」


「翼さん…! しっかりして…!」


 互いを案じる二人。だが、虚無の力は、少しずつ二人の意識を蝕んでいく。


「クク…無駄な抵抗だよ。心の奥底に眠る虚無に、身を委ねればいい…」


 『虚無の狐』の甘い誘惑に、翼の心が揺らぐ。


(僕には、紅葉を守ることなんてできないのか…? 結局、頼りになるのは隼人だけなのか…?)


 脳裏をよぎるのは、いつも隼人に助けられてばかりの自分の姿。無力な自分が、情けなくて惨めだ。


「じゃあ、私の手で楽にしてあげよう」


 そんな翼の意識が、闇に沈もうとしたその時。耳元で、優しい声がする。


「翼…しっかりしろ。君は、『狐の宴』になくてはならない大切な存在なんだ」


「…隼人?」


 かすかに開く瞼。そこには、隼人の凛々しい横顔があった。


「『虚無の狐』…俺の仲間に、これ以上触れさせはしない!」


 隼人の身体から、まばゆい光がほとばしる。半妖の血が、ここぞとばかりに目覚めたのだ。


「なに…? その光は、一体…?」


 『虚無の狐』が目を眩ませる。その隙を狙い、隼人が放った光の矢が、『虚無の狐』の胸を貫く。


「ぐはっ…! こ、この半妖の分際で…私に傷を…!」


 苦しげに呻く『虚無の狐』。一方、隼人の放った光は、『虚無の狐』に取り憑かれた人々の心をも解き放っていく。


「う、うん…? 私、何をしていたの…?」「いったい、何があったんだ…?」


 我に返る常連客やホステスたち。『虚無の狐』の魔力が、少しずつ弱まっているのがわかる。


「は、隼人…僕は、君を…」


 かすかに意識を取り戻しつつある翼。その言葉を、隼人が遮る。


「翼、謝ることはない。君の支えがあってこそ、俺はみんなを守れているんだ」


 そう微笑む隼人。その笑顔に、かすかな憧憬の念を抱きながら、翼は紅葉に駆け寄る。


「紅葉、大丈夫か? しっかりしろ!」


「翼さん…ごめんなさい。私、また迷っちゃった…」


「謝ることはないさ。君はこれからも、『狐の宴』を支える大切な存在なんだから」


 力強く紅葉の手を握る翼。その結束に、力を得たのか、紅葉の瞳にいつもの光が戻る。


「そうですね…私、この店のホステスとして、お客様を笑顔にすることが生きがいなんです!」


 紅葉の言葉に、翼も隼人も頷く。


「ああ、その通りだ。君の笑顔は、この店の宝物だからな」


 そして隼人は、なおも苦悶する『虚無の狐』に歩み寄る。


「『虚無の狐』よ…無に生きることが、本当の悟りだと? 笑わせるな。意味を求めて足掻く人間の姿にこそ、真の美しさがあるんだ」


「ば、馬鹿な…! 虚無の美学が、こんな浅はかな連中に負けるだと…!?」


 『虚無の狐』の身体が、みるみるうちに色褪せていく。


「信じられない…私の魔力が、尽きていく…ここまでなのか…」


 力尽きた『虚無の狐』が、消えゆく寸前、忌々しげに隼人を睨みつける。


「隼人…いつかこの恨み、必ず…!」


「望むところだ。その時は、またこの『狐の宴』で待っている」


 凛然と告げる隼人。『虚無の狐』の姿が、かき消えるように失われていった。


 こうして『虚無の狐』の一件は、解決を見たのだった。店内に、安堵の空気が流れる。


「ふう…みんな、無事でよかった。今夜は、ゆっくり休むといい」


 隼人の言葉に、ホステスたちが頷く。


「はい、オーナー。でも、明日からまた全力で頑張ります!」


「ええ、私たちの笑顔で、お客様を癒やしていかなくちゃ」


 紅葉や他のホステスたちの言葉に、隼人は嬉しそうに微笑む。


「…ありがとう、みんな。この店は、俺だけじゃ守れない。君たちがいるから、『狐の宴』は成り立っているんだ」


「隼人…」


 胸を熱くする翼。けれど、その想いを飲み込むように、翼は明るく言う。


「みんなの力を合わせれば、どんな困難も乗り越えられる。そうだろう、隼人?」


「ああ、その通りだ。たとえ妖狐の脅威が迫ろうと、俺たちは負けない。この店を、みんなの笑顔を守るために」


 隼人と翼、そしてホステスたち。『狐の宴』の面々は、固く手を結ぶ。この一時の安らぎを、いつまでも大切にするために。

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