第1部:第11話 傲慢の狐
歌舞伎町の夜。キラキラと輝くネオンに照らされたキャバクラ『狐の宴』には、いつもと違う緊張感が漂っていた。
店内に一歩足を踏み入れた瞬間、隼人はその違和感を察知する。ホステスたちの笑顔には、どこか硬さがある。客たちの笑い声も、いつもより大きく、わざとらしく響く。
そんな中、一人の女性が目を引いた。長い黒髪に、凛とした美貌。そして何より、周囲を見下すような、傲慢な眼差し。
彼女の名は澪。どこか謎めいた雰囲気を纏っている。
隼人は手招きした澪に近づき、低い声で問いかける。
「お嬢さん、こちらは初めてですね。何かご用件でも?」
すると澪は、隼人を上から下まで眺めると、不敵に微笑んだ。
「ふん、お前がこの店のオーナーかい。正直言って、たいした男には見えないね」
その傲慢な物言いに、隼人は思わず眉をひそめる。澪の正体は分からないが、彼女が普通の客ではないことは確かだった。
「お客様、そのような言葉遣いは控えていただきたいのですが」
「お客様だって? 私はこの店を選んであげたんだよ。感謝するべきだと思うけどね」
澪の高飛車な態度に、隼人は我慢ならない。しかしオーナーとして、客に不快な思いをさせるわけにはいかない。
「…かしこまりました。ではお嬢さん、どのような接客をご所望ですか?」
「ええ、まずはこの店で一番の美女を連れてきて。私がその子を指名するわ」
「かしこまりました。では、ナンバーワンホステスの紅葉をご紹介します」
そう言って、隼人は紅葉に目配せをする。しかし、紅葉の様子がいつもと違うことに気づく。
紅葉は澪を見つめ、まるで虜になったかのような表情を浮かべていた。
「お嬢さん、私こそがあなたにふさわしいホステスです。どうぞ、私をご指名ください」
妖艶な笑みを浮かべる紅葉。その様子に、隼人は違和感を覚える。
(紅葉…? いったい何があったんだ? まるで澪に心を奪われたみたいだ…)
事態を飲み込めない隼人。しかし、目の前の客を待たせるわけにはいかない。
「さあ紅葉、私を楽しませてちょうだい」
媚びるような声を上げる澪。紅葉はうっとりとした表情で、彼女に寄り添う。
二人がテーブル席へと向かう中、隼人はマネージャーの翼を呼び寄せる。
「翼、紅葉の様子がおかしい。澪という客に、何かされたんじゃないか?」
「俺も気になっていた。紅葉さんだけでなく、他のホステスたちも様子が変だ。まるで澪さんに、心を奪われたみたいに…」
翼もまた、事態の異常性を感じ取っていた。その表情は真剣そのものだ。
しかし、翼の心の奥底では、別の感情も渦巻いていた。
(隼人、君は澪さんの美貌に、心惹かれてはいないだろうか。もし君が、誰かを好きになってしまったら…)
疼くような気持ちを隠しながら、翼はホステスたちの様子を観察し始める。
一方その頃、澪と紅葉はテーブル席で談笑していた。
「ねえ紅葉、私のことをもっと褒めて。私の美しさを、たっぷりと称えるのよ」
「はい、澪さま。あなたの美しさは、この世のものとは思えません。まるで女神のようです」
「ええ、そう。私こそが、美の絶対的な基準なの。ねえ、私のためなら何だってするわよね?」
「ええ、もちろんです!澪さまのために、私は何だってします!」
紅葉の瞳には、狂気すら感じられた。まるで澪の虜になってしまったかのように。
澪は満足そうに微笑むと、紅葉の髪をそっと撫でる。
「いい子ね、紅葉。あなたは私の側にいなさい。もう私から、離れることは許さないわ」
「は、はい、澪さま…! 私は、永遠にあなたに仕えます…!」
忠誠を誓う紅葉。その様子を、ドアの隙間から隼人と翼が見ていた。
「隼人…紅葉さんは完全に、澪さんに心を奪われてしまったようだ」
「ああ、紅葉だけじゃない。梓の様子も、おかしい。まるで、澪を崇拝するかのように…」
眉をひそめる隼人。店内を見渡すと、ホステスたちは皆、虚ろな瞳で澪を見つめている。
一方、澪はそんなホステスたちを見下ろし、高笑いを上げるのだった。
「ほら、よく見なさい。美しい私を崇めるのが、あなたたちの喜びなのよ」
その不敵な笑み。まさしく『傲慢の狐』と呼ぶにふさわしい、威圧感に満ちたオーラ。
隼人は拳を握りしめる。このままでは、『狐の宴』が澪の独裁下に置かれてしまう。
「何としても、ホステスたちを澪の呪縛から解放しなければ。でも、一体どうすれば…」
「隼人、君に協力したい。ホステスたちのためにも、君のためにも」
そう言う翼の瞳には、強い意志が宿っていた。しかし、胸の内では複雑な感情が渦巻いている。
(隼人、君が澪さんに惹かれていないことを、僕は祈る。君には誰かに特別な感情を持って欲しくない…)
複雑な気持ちを胸に秘めつつ、翼もまた事態の打開策を考え始めるのだった。
一方、澪の野望は日に日にエスカレートしていく。
「今夜のショーでは、私の美しさを存分にアピールするわ。その美しさの前に、客も従業員も皆ひれ伏すことでしょう」
鏡の前で微笑む澪。彼女の瞳には、狂気の輝きすら宿っていた。
『狐の宴』は、今まさに傲慢な魔の手に飲み込まれようとしている。
澪の影響力は、日に日に強まるばかりだ。ホステスたちは完全に彼女の虜となり、客たちもまた、澪の美しさに魅了されていく。
そんな中、隼人は翼と共に、澪の正体を探ろうと奔走していた。
「翼、澪について何か分かったか?」
「ああ、彼女はかつて、他の店でも同じようなことをしでかしていたらしい。美貌を武器に、店を乗っ取ろうとしたんだ」
翼の報告に、隼人は眉をひそめる。
「やはり、澪は『傲慢の狐』だったか。このままでは、『狐の宴』が彼女の手に落ちてしまう…!」
焦燥感を隠せない隼人。しかし翼は、冷静に分析を続ける。
「隼人、澪さんは確かに傲慢だ。でも、その傲慢さの裏に、何か別の感情が隠れているような気がするんだ」
「別の感情…?」
「ああ。例えば、孤独とか、寂しさとか…。彼女は美しさを武器に、人の心を支配することで、自分の存在意義を見出そうとしているのかもしれない」
翼の言葉に、隼人は目を見開く。
「なるほど…。澪は美しさを求めるあまり、心の豊かさを失ってしまったのか…」
隼人は澪の内面に、翼は隼人の内面に思いを馳せる。
(隼人、そんなに必死に澪さんのことを…。澪さんの心の闇に、共感を覚えてしまったのか? そんな君を、僕は守りたい…よ…)
胸の内で呟く翼。しかし、その思いを口にすることはできない。
そんな二人の元に、新たな情報がもたらされる。
「隼人さん、大変です! 澪さんが、店の外でも何やら企んでいるようなんです!」
息を切らせて駆け込んできたのは、料理人の英嗣だった。
「店の外だって…?」
「はい! 歌舞伎町のあちこちで、澪さんを崇拝するような集会が開かれ始めているんです。まるでカルト宗教のようで…」
英嗣の報告に、隼人たちは愕然とする。
「そんな…澪のやつ、『狐の宴』だけでは飽き足らず、歌舞伎町全体を支配下に置こうって言うのか…!」
この事態に、隼人は決意を新たにする。
「翼、今夜中に澪を説得する。何としても、彼女を止めなければ!」
「ああ、わかった。僕も全力で君を支えるよ」
二人は固い握手を交わす。今宵は、運命の夜になるだろう。
夜。『狐の宴』の個室。隼人は、澪を前に静かに語り始めた。
「澪。いや、『傲慢の狐』。俺はお前の野望を見過ごすことはできない」
その言葉に、澪は不敵に微笑む。
「あら、隼人君。私の美しさに、あなたも抗えなくなったの?」
「いや、違う。お前の美しさは認める。それは紛れもない事実だ。だが、その美しさを利用して他者を支配するのは、間違っている!」
力強く言い放つ隼人。澪は、面白そうに眉を上げる。
「間違っている? 何がよ。私は私の美しさを、存分に活かしているだけ」
「お前は美しさだけを追求するあまり、心の美しさを忘れてしまった。それでは、本当の意味で美しくなることはできないんだ」
「心の美しさだって? そんなの、私には必要ないわ。この世界は、美しい者が支配するのが当然なの」
澪の瞳が、傲慢な輝きを放つ。隼人は、思わず言葉を詰まらせる。
(美しさを求める澪の姿勢は、ある意味で純粋だ。だが、それは…!)
葛藤する隼人。その時、事務所の扉が勢いよく開かれる。
「隼人、負けるな! 澪の考えは間違っている!」
乱入してきたのは、他ならぬ翼だった。
「翼…!」
「澪さん。美しさとは多くあるものです。一つの価値観で測ることはできない。隼人は、そのことに気づいているんです」
毅然と言い放つ翼。その言葉に、澪が眉をひそめる。
「多くある? 価値感はたくさんあるですって? 私こそが、美の絶対的基準なのよ」
「いいえ。美しさには、いろいろな形がある。内面の美しさ、多様性を認め合う美しさ…。そうした美しさにこそ、価値があるんです」
訴える翼。その真摯な眼差しに、隼人の心が熱くなる。
(翼…君は、俺の考えを代弁してくれたんだね)
隼人は、新たな勇気を得る。傍らで見守る翼に、感謝の念を送りながら。
「澪、俺はお前と共に、新しい美の形を探したい。『狐の宴』を、多様な美しさを認め合う場所にするんだ」
「多様な美しさだって…?」
戸惑いの色を浮かべる澪。その心の隙間に、隼人の言葉が突き刺さる。
「そう。お前の美しさも、その一つとして歓迎しよう。だからこそ、他者の美しさも認める。そうすれば、お前はもっと輝けるはずだ」
「私を受け入れてくれるの…?」
澪の瞳から、『傲慢の狐』の面影が薄れていく。
その時、ドアの外から声が響いた。
「そうよ、澪さん! 私たちはみんな、あなたの本当の美しさが見たいの!」
声の主は、紅葉と梓。彼女たちもまた、澪の呪縛から解き放たれつつあるのだ。
澪の心に、激しい葛藤の嵐が吹き荒れる。傲慢さと、隼人たちの説く思想。美の独占と、美の共有。
やがて、澪の瞳から力強い光が放たれる。『傲慢の狐』の妖力が、音を立てて砕け散るのだった。
「私、負けたわ…でも、この負けは、悪くないかもしれない…」
小さく微笑む澪。その笑顔は、これまでとはどこか違っていた。
こうして『傲慢の狐』は打ち倒され澪はただの妖狐に戻った。『狐の宴』に新たな風が吹き始める。多様な美しさを認め合い、共に高め合う――。それが、新生『狐の宴』の理念となったのだ。
事件の後、隼人は一人、夜の街を歩いていた。そこに現れたのは、翼だった。
「隼人、君は強かったよ。澪さんの考えを、見事に論破した」
「いや、俺一人の力じゃない。君や、紅葉たちの助けがあったからこそだ」
謙遜する隼人。その隣で、翼もまた静かに微笑む。
「隼人…僕は、君の美しさが大好きだ。その強さも、優しさも、全てがかけがえのないものなんだ」
「え…?」
翼の唐突な告白に、隼人は言葉を失う。しかし、胸の奥では小さな喜びの火が灯る。
「翼…俺も、君の誠実さが好きだ。仲間思いで、時に厳しくも優しい、君の内面の美しさが」
そう言って隼人は、ゆっくりと翼の手を取る。穏やかな夜風が、二人の髪をなびかせる。
『狐の宴』の一件は、隼人と翼の心をも、新たな段階へと導いたのだった。
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