第1部:第10話 執着の狐

 深夜の歌舞伎町、キャバクラ『狐の宴』のテーブル席で、ホステスの梓と常連客の真島が親密な会話を交わしていた。


「真島さん、今日も来てくださって嬉しいです。お話ができるのが、私の楽しみなんです」


 梓の瞳には、真島への強い想いが宿っている。真島もまた、それを心地よく感じているようだ。


「梓ちゃん、君といると本当に癒されるよ。今日の仕事も、ジジババとのめんどくせえやり取りで疲れたんだけどさ、仕事の疲れも吹っ飛んじゃうね」


 二人の会話は弾み、まるで恋人同士のように見える。それを遠巻きに見ていた隼人は、ふと違和感を覚える。


(梓と真島の仲って、ただならぬ雰囲気だな…。まるで、梓が真島にガチ恋しているみたいだ…)


 確かに最近の梓は、真島のことになると異様なまでのテンションの上がり方を見せていた。それが、隼人には少し不自然に映るのだ。


 やがて営業が終わり、ホステスたちが事務室で帰り支度をする中、梓だけがホールに残っていた。


「梓、まだ帰らないのか?」


 隼人が声をかけると、梓はどこか上の空だ。


「隼人さん…。私、真島さんと一緒にいたいんです。真島さんは、私の特別な人なんです…」


 その言葉に、隼人は思わず眉をひそめる。


「特別って…。梓、お前、真島のことを…」


「好きなんです。真島さんがいないと、生きていけない気がするんです…!」


 梓の瞳は、真島への強い執着に染まっている。それを見た隼人は、言葉を失ってしまう。真島があまり良い仕事をしている人間ではないことを知っていたからだ。


 その時、梓の背後に一匹の妖狐が姿を現した。


「私は『執着の狐』。お前の心に宿った、真島への執着を感じたのだ」


 妖艶な笑みを浮かべる狐。隼人は、事態の深刻さを察する。


「お前が、梓の執着心を煽ったのか…!」


 隼人が怒りを露わにすると、『執着の狐』は不敵に笑う。


「フフフ、私は梓の心に既にあった執着を、少し後押ししただけ。彼女は本来、真島への愛に生きる運命なのだ」


 『執着の狐』の言葉は、甘美な毒のようだ。それに梓の意識が飲み込まれていく。


「そうだわ…。私は真島さんだけを見つめて生きたい…。真島さんのためなら、何だってできる…!」


 梓の瞳が、執着に染まっていくのを見た隼人は、背筋が凍る思いがした。


 一方その頃、事務室では翼がホステスたちと梓について話し合っていた。


「梓ちゃん、最近様子がおかしいと思いません? あのお客様と付き合ってるみたいで…」


 紅葉の言葉に、他のホステスたちもうなずく。


「そう言えば、プライベートでもデートしてるらしいわよ。ちょっと入れ込みすぎじゃない?」


 梓の異変を心配する面々。その時、隼人が慌てた様子で駆け込んでくる。


「大変だ! 梓が、『執着の狐』に取り憑かれている!」


 その知らせに、ホステスたちの表情から血の気が引いた。


「ど、どういうこと…? 梓ちゃんが、妖狐に…?」


 動揺する紅葉に、隼人は事情を説明する。


「『執着の狐』は、梓の真島への執着心に付け込んだ。このままでは、梓の心が執着に蝕まれてしまう…!」


 深刻な状況に、翼も眉をひそめる。


「それは、まずいね…。早く梓ちゃんを助けないと!」


 そう言って立ち上がる翼。隼人もうなずき、再びホールへと急ぐ。


 そこには、『執着の狐』に操られたかのような梓の姿があった。


「梓、しっかりしろ! お前は『執着の狐』に惑わされているんだ!」


 隼人が必死に呼びかける。しかし、梓の意識は『執着の狐』に支配され、もはや隼人の言葉は届かない。


「隼人さんには分からないわ…。私は、真島さんとの愛が全てなの…! 邪魔をしないで…!」


 梓の言葉は、まるで別人のようだ。その様子に、隼人は言葉を失う。


 『執着の狐』は、高笑いをあげながら隼人に告げた。


「無駄だ、隼人。梓の執着は、もはや彼女の生きる糧。お前では、決して解くことはできない」


 絶望的な状況に、隼人は歯を食いしばる。


(くそっ…! このままじゃ、梓が執着に呑まれてしまう…!)


 焦燥が隼人の体を駆け巡る。だが、彼は諦めるつもりはなかった。


「いや、俺は…梓を絶対に助ける…! 『執着の狐』の呪縛から、解放してみせるッ…!」


 隼人と『執着の狐』が対峙する中、事務室ではホステスたちが心配そうに話し合っていた。


「梓ちゃん、大丈夫かしら…。私たちにできることは何かないの?」


 紅葉がそう呟くと、他のホステスたちも口々に意見を述べる。


「梓ちゃんを信じて、見守るしかないわ。でも、私たちの気持ちは必ず梓ちゃんに届くはずよ」


「そうだね。梓ちゃんなら、必ず『執着の狐』の呪縛から解放されるわ。私たちにできるのは、祈ることだけど…」


 ホステスたちは手を合わせ、梓の無事を祈る。その想いは、きっと梓の心の支えになるはずだ。


 『執着の狐』は隼人を挑発するように言う。


「隼人よ、お前だって人の心に執着はあるはずだ。例えば…翼への執着とかな?」


 その言葉に、隼人も翼も動揺を隠せない。


「な、何を言っている…! 俺は翼を大切に思っているが、それは執着とは違う!」


 隼人が反論を続ける裏で、翼は心の中で葛藤していた。


(隼人…君は、いつも一人で戦おうとする。でも、僕は君を助けたい…。この想いは、ただの友情とは違う気もするけれど…)


 翼は隼人への特別な想いに気づきつつあった。しかし、その想いを言葉にすることができない。


(今は、梓ちゃんを救うことが最優先だ。僕の想いは、後回しにしよう…)


 そう心に決める翼。彼の隼人への想いは、まだ胸の奥にしまわれたままだった。


 『執着の狐』は意地悪く笑う。


「本当に翼への想いは執着ではないのかな? 執着と愛は、紙一重なのだよ。梓が真島に執着するように、翼がお前に執着するように、お前だって翼に執着しているんじゃないか?」


 『執着の狐』の言葉は、まるで隼人の心に毒を注ぐかのようだ。一瞬、隼人の表情が揺らぐ。


「俺は…翼に執着しているのか…?」


 隼人の脳裏に、翼との日々が走馬灯のように蘇る。いつも翼を特別に想い、大切にしてきた自分がいる。それは、執着と呼べるものなのか。


 隼人の迷いを見透かしたように、『執着の狐』が甘美な声で囁く。


「そう、隼人。お前の中にも、執着の炎が燃えているのだ。その炎に身を委ねれば、もっと強い力を手に入れられる。翼を独占できるのだぞ」


 『執着の狐』の誘惑に、隼人の心が揺さぶられる。執着の炎に飲み込まれそうになる。


 だが、そこで隼人は我に返った。


「…違う! 俺が翼を想うのは、執着なんかじゃない!」


 力強く言い放つ隼人。その眼差しは、揺るぎない意志に満ちている。


「俺は翼の幸せを心から願っている。たとえ、翼がこの店以外を選んだとしても、応援するつもりだ。それが、本当の愛情ってもんだろ!」


 隼人の言葉には、翼への想いが込められている。その真摯な思いに、『執着の狐』は怯むように後ずさる。


「そ、そんな…! こんなはずでは…!」


 狐の策略は、隼人の強い意志の前に崩れ去っていく。


「認めろ、狐。お前の負けだ。俺の翼への想いは、執着なんかじゃない。誰かを思う、純粋な愛なんだ」


 凛とした眼差しで『執着の狐』を見据える隼人。その姿は、まさに勇者のようだ。その力を感じ取ったのか、『執着の狐』が怯むように後ずさる。


「そ、そんな…! 隼人から完全に執着が消えている…!」


 動揺を隠せない『執着の狐』。隼人はその隙を見逃さず、梓に語りかける。


「梓! お前の真島への想いは、本当の愛じゃない! 自分を見失うほどの執着は、決して幸せにはつながらないんだ!」


 真摯な眼差しで訴える隼人。その言葉が、梓の心に届き始める。


「隼人さん…。私…、真島さんに頼まれて悪いこともしていたの…」


「梓…。それは…」


「そう、私…自分を見失っていたんだわ…。真島さんへの想いは、執着だった…」


 梓の瞳から、執着の炎が消えゆく。それを見た『執着の狐』は、絶叫する。


「あり得ない…! 私の力が、効かないだと…!?」


 『執着の狐』の姿が、次第に薄れていく。梓は、我に返ったように涙を流し、隼人に抱きしめられるのだった。


 事件の後、梓は隼人とホステスたちの前で、真島への想いを告白する。


「私、真島さんのことが好きだと思っていました。真島さんも私を好きなんだと。でも、それは本当の愛ではなく、自分の寂しさを紛らわせるための執着だったんです…」


 涙ながらに語る梓に、隼人は優しく微笑む。


「梓、執着と愛は違う。本当に大切な人を想う気持ちは、相手の幸せを願うもの。自分を犠牲にしてまで相手に尽くすのは、決して健全な愛じゃない」


 隼人の言葉に、梓はゆっくりとうなずく。


「隼人さん、ありがとうございます。私、これからは自分らしく生きていきます。真島さんへの感謝の気持ちは忘れないけど、執着は手放します」


 そう言って微笑む梓。その表情は、以前より輝きに満ちている。


 そんな梓を見守る隼人と翼。二人の間には、特別な信頼関係が生まれつつあった。


「隼人、君の想いは執着じゃないと、わかっているよ。僕も、君を特別に思っているけど、それは…」


 翼は言葉を濁すが、隼人はその真意を友情だと受け取った。


「ああ、分かってる。俺たちの絆は、執着を超えたものだ。共に歩む仲間としての、かけがえのない絆なんだ」


 そう告げる隼人に、翼はがっかりしたような、それでいて安堵の表情を見せるのだった。

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