第1部:第9話 偽善の狐
東京の夜、ネオンに彩られた歌舞伎町。その喧騒の中に、ひときわ異彩を放つ店がある。キャバクラ『狐の宴』。
妖艶な紅をまとったホステスたちが、艶やかに舞う。それは、人の世の楽園か、それとも妖狐の巣窟か。
『狐の宴』のオーナー、隼人は、その双方の顔を持つ男だ。
ある夜のこと。隼人は店の裏で、不気味な気配を感じた。
「誰だ…?」
警戒する隼人の前に、一匹の狐が姿を現す。
「私は『偽善の狐』…人の偽善を嗅ぎ分ける妖狐だ…」
甘美な声を響かせる狐。その瞳に、妖しい光が宿る。
「偽善だと? 何が言いたい?」
低い声で問う隼人。『偽善の狐』は、不敵な笑みを浮かべる。
「隼人君、君の店のホステスたちは、本当に心から大事なお客様に尽くしているのかな? 善意を装う、偽善者たちなのではないかな?」
挑発的な言葉が、夜風に乗って響く。
「ふざけるな。うちのホステスたちは、誰よりも真摯に仕事に打ち込んでいる。偽善だなんて、言わせない」
怒りを滲ませる隼人。だが、『偽善の狐』は動じない。
「本当にそうかな? 彼女たちの心の奥底にある、本当の想いを確かめてみようじゃないか」
言葉と共に、『偽善の狐』の瞳が赤く輝く。次の瞬間、隼人の意識が翳り、怪しい狐火に彩られる深い闇へと引きずり込まれていく。
「な、何をする気だ…!」
抗おうとする隼人。しかし、目の前の光景が、彼の言葉をなくさせた。
そこには、ホステスたちの知られざる素顔があった。表面上の優しさの裏に隠された欲望、見せかけの献身の影に潜む虚栄心。それらは、深淵に
「こ、これは…」
思わず目を背ける隼人。『偽善の狐』の不気味な
「ふふふ…。例えば、紅葉ちゃん。ナンバーワンホステスとして頑張っているけど、本当は疲れ切っているんじゃないかな?」
『偽善の狐』の言葉に、隼人は一瞬言葉を失う。確かに、紅葉は時折疲れた表情を見せることがある。
「紅葉は…でも、それでもお客様のために頑張ろうとしている。それを偽善だなんて言えるのか?」
反論する隼人。しかし、『偽善の狐』は意地悪く
「じゃあ、朱璃ちゃんはどうかな? 売上のためなら、同僚をも蹴落とすような子だよね。優しさを装っているだけじゃないのかな?」
その指摘に、隼人は一瞬言葉に詰まる。確かに、朱璃の行動には自己中心的な面もある。
「朱璃にも問題はある。でも、それを偽善とは言わない。彼女なりに、ホステスとしてのプライドを持っているんだ」
「プライドねぇ…。でも、それって結局のところ、自分の評価を上げるためにやっているだけなんじゃない?」
『偽善の狐』の言葉に、隼人は反論しようとして、ふと言葉を詰まらせる。
(自分の評価のために売上をあげている…)
隼人が思い悩んでいると、『偽善の狐』が不敵な笑みを深める。
「隼人君、私と一緒に、もっと深くホステスたちの本性を見てみようじゃないか」
紅葉の疲れ切った本心、朱璃の虚栄心…。
隠されていた彼女たちの弱さが、赤裸々に晒されている。
「み、みんな…こんな思いを抱えていたのか…」
ショックを受ける隼人。その隣で、『偽善の狐』が意地悪く笑う。
「どうだい隼人君? 君の大切なホステスたちも、所詮は偽善にまみれた存在なんだよ」
真実を突きつけられ、隼人の心が揺らぐ。
(俺は、みんなの本心から、目を背けていたのか…?)
疑念が頭をもたげる。だが、そんな隼人の脳裏に、ふと一人のホステスの姿が浮かぶ。
それは、人見知りで接客が苦手な梓だ。いつも笑顔を絶やさず、一生懸命お客様に接している彼女の姿が思い出される。
「梓は…苦手なことにも真摯に向き合おうとしている。あれは、偽善なんかじゃない…!」
「真摯? 笑わせる。接客が苦手なら、最初からこの仕事につかなければいいだけだ。自分に嘘をついているだけじゃないか」
『偽善の狐』の言葉は、隼人の胸に突き刺さる。
(確かに、無理して笑顔を作ることは、ある意味で自分に嘘をつくことかもしれない。でも…)
葛藤する隼人。だが、彼の中で、ある確信が生まれつつあった。
「いや、違う。梓は苦手意識を克服しようと努力している。それを嘘だなんて言えるのか?」
力強く反論する隼人。『偽善の狐』は、少し動揺した様子を見せる。
「努力? そんなの偽善の言い訳だよ。本当は自分のためにやっているだけなんだろう?」
しかし、隼人は首を横に振る。
「いいや、努力の裏に自分の満足感があるからといって、それが偽善になるわけじゃない。大切なのは、その努力が他者のためでもあるということだ」
隼人の言葉は、揺るぎない強さを宿している。
「確かに、ホステスの仕事には、お客様を喜ばせることで自分も満足するという側面がある。でも、そこに他者への思いやりの心がある限り、それを偽善とは呼べない」
真っ直ぐに語る隼人。その姿勢に、『偽善の狐』は怯むように後ずさる。
「な、何を根拠に、そう言い切れるんだ…! 利己的な想いがあるなら、それは紛れもない偽善のはずだ…!」
動揺を隠せない『偽善の狐』。しかし、隼人は、力強く続ける。
「利己心は悪いものじゃない。むしろ、利己心があるからこそ、人は他者のために行動しようと思えるんだ」
力強く言葉を紡ぐ隼人。その真摯な眼差しに、『偽善の狐』は言葉を失う。
「他人の幸せを願うことが、結果的に自分の幸せにもつながる。自分を思う気持ちと他人を思う気持ちは、表裏一体なんだよ」
その言葉に、『偽善の狐』の表情が歪む。
「ば、ばかな…! 利己心を肯定するだと…!? そんなの、偽善以外の何物でもない…!」
錯乱するように叫ぶ『偽善の狐』。だが隼人は、穏やかな口調で続けた。
「偽善という言葉で片付けるのは簡単だ。でも、人の心の中には、利己心と善意が共存している。大切なのは、その両方に真摯に向き合うことなんだ」
揺るぎない隼人の表情が、『偽善の狐』の心を打ち砕いていく。
「そ、そんな…私の妖力が…衰えていく…! 信念の力でかァ…!?」
苦しげに呻く『偽善の狐』。隼人の思想の前に、狐の論理は崩れ去っていく。
「『狐の宴』のみんなは、自分の弱さと向き合いながら、それでもお客様のために尽くそうとしている。それこそが、本当の優しさなんだ」
最後の一撃とばかりに放たれる言葉。『偽善の狐』の姿が、光に包まれて消えていく。
「そ、そんなばかな…負けただと…偽善を、認めるのか…」
掠れた声を残して、『偽善の狐』は闇の中へと消えていった。
意識が現実に戻った隼人。彼の顔には、静かな決意が宿っている。
「みんなの弱さも、強さも、全部含めて『狐の宴』なんだ。俺は、そのありのままのみんなを信じる」
心の中で呟く隼人。彼はホールに戻ると、いつものように店内を見渡した。
その視線の先で目が合うのは、マネージャーの翼だ。
「隼人、ちょっと良いかな?」
何やら真剣な表情で、翼が隼人を店の奥へと呼ぶ。不思議に思いながらも、隼人はその後を追った。
店の裏手、人気のない場所で、翼は隼人の方へとゆっくり振り返る。その表情は、優しさに満ちていた。
「隼人、ひとりで店を守ってたんじゃないの? 大丈夫だった?」
心配そうに尋ねる翼。その瞳には、隼人への特別な想いが宿っている。
「ああ、何とかな。翼も、気づいていたのか?」
「当然だよ。僕はいつだって、君を見守っているからね」
翼の言葉に、ふとどきりとする隼人。しかし、彼はすぐに友情の言葉として受け止める。
「そうか、気にかけてくれてありがとう。でも、大丈夫だ。『偽善の狐』とは、ちゃんと向き合えたと思う」
隼人の言葉に、翼は安堵の表情を浮かべつつも、どこか物足りなさを感じていた。
(隼人、もう少し僕を頼ってくれないかな…)
胸の内で呟く翼。彼の隼人への気持ちは、誰にも明かせない秘めた想いだった。
「そうだ翼、今日の営業後に、ホステスたちを集めて話がしたい。『偽善の狐』の件で、みんなにも伝えておきたいことがあるんだ」
「分かった。僕から、みんなに声をかけておくよ」
翼は快く頷くが、その胸中は複雑だ。隼人とホステスたちの絆の深まりを、嬉しく思う半面、どこか羨んでしまう自分がいることに気づいてしまう。
(私は隼人の役に立ちたい。彼を支えたい。でも、僕とのことももっと考えて欲しい…)
整理しきれない感情を抱えながらも、翼は隼人の良き理解者であり続けることを選ぶ。
やがて、営業が終わり、ホステスたちが集まる中、隼人は切り出した。
「みんな、今日は大切な話がある。実は俺は今日、『偽善の狐』という妖狐と戦ってきたんだ」
その言葉に、ホステスたちが驚きの声を上げる。
「『偽善の狐』? もしかして、私たちのことを偽善者呼ばわりしたんですか?」
憤慨する紅葉。隼人は頷き、ゆっくりと語り始める。
「ああ。奴は、俺たちの善意は偽りだと言っていた。でも、みんなはどう思う?」
問いかける隼人。するとホステスたちは、次々と自分の想いを口にし始めた。
「隼人さん…私、お客様のために頑張るのは、自分のやりがいでもあるんです。それって、偽善なのかなって、悩んだこともありました…」
紅葉が打ち明ける。他のホステスたちも、それぞれの思いを語っていく。
「私だって、お客様に良く思われたいって気持ちはあります。でも、それはお客様を大切に思うからこそで…」
「うまく言葉にできないけど、自分のためでもあり、誰かのためでもある。そんな気持ちで、私はこの仕事を頑張ってきたんです」
一人一人の言葉に、隼人は深くうなずく。
「みんな、俺もそう思う。善意と利己心は、表裏一体なんだ」
隼人は、『偽善の狐』との戦いで得た答えを、シンプルな言葉で伝える。
「自分の満足のためにお客様に尽くすことだって、それが相手の幸せにつながるなら、偽善じゃないよな。みんなの言葉を聞いて、改めてそう感じたよ」
隼人の言葉は、ホステスたちの胸に静かに響く。
「隼人さん…私たち、間違ってなかったんですね」
紅葉が、安堵の表情を浮かべる。他のホステスたちも、晴れやかな笑顔を見せ始めた。
その様子を、翼は少し離れたところから見守っていた。
(隼人、君はホステスたちの力を引き出せて凄いよ。僕は、まだまだ及ばない…)
胸の内で呟きながらも、翼は隼人への憧れを心に秘める。
こうして『偽善の狐』の一件は、隼人と翼、そしてホステスたちに大切な気づきをもたらした。自分らしく生きることが、自分にとっても相手にとっても幸せに繋がるのだと──。
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