第1部:第8話 孤独の狐

 東京の歓楽街、新宿歌舞伎町。華やかなネオンに彩られたこの街の片隅に、ひときわ異彩を放つ店がある。それが、キャバクラ『狐の宴』だ。


 『狐の宴』といえば、何と言ってもナンバーワンホステス・紅葉の存在が欠かせない。妖艶な美貌と優雅な立ち振る舞いで、客を魅了する彼女。いつも紅唇に優しい笑みを浮かべ、店内を華やかに彩っている。


 しかし、その笑顔の陰には、誰にも言えない悩みがあった。


(昼職の営業も夜職のキャバクラも、私がナンバーワンでいられるのは、全部この作り笑顔のおかげ...本当の私なんて、誰も必要としていない...)


 『狐の宴』出勤前、昼の営業の仕事を終え、笑顔を取り繕うのにも疲れた紅葉は、ひっそりと人気のない公園へと向かう。そこは、彼女が密かに憂いを紛らわせる、特別な場所だった。


 ベンチに腰かけ、夜空を見上げる紅葉。はかなげな吐息が、冷たい空気に溶けていく。


 ふと、視界の隅に動きを感じた紅葉が顔を向ける。と、そこには一匹の美しい狐が佇んでいた。幻覚だろうと紅葉は思った。


「私、疲れてるのね…。それにしてもなんて綺麗な狐さんなの...」


 思わず声を漏らす紅葉に、狐は不敵に微笑んだ。


「ふふふ、私はただの狐ではないのだよ、紅葉」


 人の言葉を話す狐にぎょっと驚く紅葉。そんな彼女の前に、狐はするりと近寄ってくる。


「私は『孤独の狐』。人の心の奥底に潜む孤独を感じ取る妖狐なのだ」


「孤独の狐...? まさか、あなた私の孤独を感じ取ったの...?」


「そうだよ、紅葉。私にはお前の孤独が手に取るように分かる。偽りの笑顔に疲れ果て、本当の自分を見失っているお前の孤独がね」


 『孤独の狐』の言葉に、紅葉の瞳が揺らぐ。自分の内に秘めた想いを見透かされているような錯覚に、戸惑いを隠せない。


「お前は本当は、一人でいるのが好きなのではないのか? 無理に笑顔を作らなくても、自分らしくいられる孤独の中こそが、お前の安住の地なのだよ」


 甘美な声で囁く『孤独の狐』。その言葉は、まるで紅葉の心の奥底に巣食う闇に呼びかけるように響く。


「私が、孤独の中で...自分らしくいられる...?」


「そうだ、紅葉。他人と関わることは、いつかお前を傷つける。でも、孤独なら、傷つくことも、傷つけられることもない。お前の繊細な心を、孤独だけが守ってくれるのだよ」


 『孤独の狐』の説得に、紅葉の心がゆっくりと揺れ動く。確かに、人と笑顔で接することは、彼女にとって大きなストレスだった。みんなに合わせた完璧な紅葉でいるために、本当の自分を殺してきたのかもしれない。


「でも...私にはみんなとの絆も、大切なものなの...」


「お前はずっと、本当は一人でいることの心地よさを知っているはずだ。誰にも気を遣わずに過ごせる、孤独の中の安らぎをね」


 『孤独の狐』は、紅葉の揺らぐ心を見逃さない。


「思い出してごらん。みんなと笑顔を作ることに疲れた時、ふと一人になりたいと感じたことが、一度もなかったかい?」


 問いかけられ、紅葉の脳裏をかすかな記憶がよぎる。キラキラと笑顔を振りまいている自分。でもどこか、心がついていっていない。そんな時、ふと周りから離れて、一人静かに過ごしたいと思ったことが、確かにあったのだ。


「...あったわ。みんなと笑うことに疲れた時、一人で静かに過ごしたいと感じたことが...」


「そうだろう、紅葉。それがお前の本当の気持ちなのだ。無理に孤独を恐れる必要はない。孤独の中でこそ、お前は安らぎを得られる。それがお前の、隠された力なのだよ」


 『孤独の狐』の言葉は、次第に紅葉の心を蝕んでいく。孤独であることの心地よさ。誰にも気を遣わずに、自分だけの時間を過ごせる安らぎ。その感覚が、じわりと紅葉の内側に広がっていくのを感じる。


「孤独が、私の力...?」


「そうだよ、紅葉。他人と関わることは、お前の心を削っていく。孤独になれば、そんな苦しみから解放される。自由に、お前らしくいられるのだ」


 自由に、自分らしくいられる。その言葉に、紅葉の瞳が潤み始める。


(私は、自由に...なりたい...)


 迷いの淵で佇む紅葉の姿を、『孤独の狐』は満足げに見つめていた。


「さぁ、紅葉。孤独を受け入れるのだ。そうすれば、誰にも縛られない、お前だけの人生を歩めるようになる」


 『孤独の狐』の甘い誘いは、紅葉の心をゆっくりと孤独の闇へと誘っていく。


「私は、一人のほうが...いいのかもしれない...」


 紅葉の心が、静かに闇に溶けていくのを感じた時、ひとつの声が木霊する。


「紅葉、待て! 孤独なんかに、負けるな!」


 それは、『狐の宴』のオーナー・隼人の叫びだった。


 なぜ隼人がここにいるのか。しかし、それを問う前に、隼人は紅葉の肩を掴んで力強く語りかける。


「紅葉、お前は独りじゃない! 俺や翼、そして『狐の宴』のみんながいる! お前の笑顔は、偽物なんかじゃないんだ!」


 励ますように告げる隼人の言葉に、紅葉の瞳がわずかに揺らぐ。


「でも、私の笑顔は...」


「お前の笑顔は、みんなを幸せにしている。それは紛れもない、本物の笑顔だ!」


 真っ直ぐに紅葉を見つめる隼人の瞳は、力強く輝いている。その熱を感じ取った紅葉の心に、かすかな灯火がともる。


 それに気づいた『孤独の狐』は、急き立てるように言葉を投げかける。


「何を惑わされている、紅葉! 孤独こそがお前の居場所だと、今、伝えたばかりではないか!」


 しかし隼人は、『孤独の狐』の言葉を遮って叫ぶ。


「黙れ、『孤独の狐』! 紅葉の居場所は、孤独なんかじゃない! 『狐の宴』という帰る場所があるんだ!」


 隼人の力強い言葉が、紅葉の心に真っ直ぐに突き刺さる。


「私の、居場所...」


 一瞬の静寂の中、紅葉の胸に宿った小さな灯火が、一気に燃え上がっていく。


「そうだわ...私の居場所は、ここじゃない...!」


 紅葉の心に、『狐の宴』での日々が鮮やかによみがえる。隼人や翼、ホステスの仲間たちと過ごす、楽しくて温かな時間。あの笑顔は、けっして偽りなんかじゃなかった。


「私は、みんなと一緒にいる時が、一番幸せなの...!」


 想いを言葉にした瞬間、紅葉の全身から強い光が溢れ出す。


「な、何だこの光は...!?」


 その光に、『孤独の狐』が怯えた様子で目を細める。紅葉はその眩さに負けじと、『孤独の狐』に語りかける。


「私は気づいたの。孤独は、一時の逃げ道にすぎないって。本当の自分でいられるのは、大切な仲間に囲まれている時だって!」


「ば、バカな...! 孤独のもたらす安らぎを、お前は拒むというのか!?」


 動揺を隠せない『孤独の狐』に、紅葉は追い打ちをかける。


「孤独を選ぶのは、自分から逃げているだけ。本当の自由は、時に傷つくことも恐れずに、仲間と笑い、泣きながら掴み取るもの!」


 その力強い言葉に、『孤独の狐』は悲鳴を上げる。


「そ、そんな...私の誘惑が、退けられただと...!?」


 光に飲み込まれるように、『孤独の狐』の姿が消えていく。


 こうして、紅葉は『孤独の狐』との戦いに勝利したのだった。


「隼人さん、ありがとう...。私、もう迷わない。私の居場所は、『狐の宴』にあるって」


 そう微笑む紅葉に、隼人も安堵の表情を見せる。


「ああ、紅葉。お前の笑顔は、みんなの宝物だ。これからもずっと、そのありのままの笑顔を見せてくれ」


 二人は、固い絆を確かめ合うように見つめ合う。


 一方その頃、『狐の宴』では珍しく紅葉の欠勤に、ホステスたちが心配する様子だった。


「紅葉さん、今日は休みだなんて...。風邪でも引いたのかしら」


 梓のつぶやきに、翼が思案げに腕組みをする。


「いや、昨日は元気そうだったが...。まさか鞍馬の仕業じゃないよな...」


 翼の言葉に、紅葉の親友・朱璃が眉根を寄せる。


「翼さん、まさか紅葉が妖狐に...?」


 その時、ドアが開く音が響いた。


「みんな、ごめんなさい...。心配かけちゃったわね」


 そこに現れたのは、紅葉の姿だった。


「紅葉さん...! よかった、無事だったのね!」


 駆け寄る梓に、紅葉は申し訳なさそうに頭を下げる。


「私、ちょっと迷子になっていたの。でも、隼人さんが私を見つけてくれたおかげで、帰ってこられたわ」


 その言葉に、ホールにいた面々は驚きの声を上げる。


「隼人オーナー、紅葉のことを助けてくれたんだね!」


 そう言って、翼が隼人の肩をがしっと掴む。


「ああ、紅葉なら、俺が必ず守る。彼女は『狐の宴』の仲間なんだからな」


 その隼人の言葉を聞いて、紅葉の目元が潤む。


「みんな、私...本当は、ずっと孤独に怯えていたの。自分のありのままの姿を受け入れられなくて、嘘の笑顔を作り続けてた…」


 打ち明ける紅葉に、ホステスたちは驚きを隠せない。


「でも、隼人さんとみんなのおかげで、気づくことができたわ。私の笑顔は、偽物なんかじゃないって。みんなと一緒にいる時の私こそが、本当の私なんだって」


 瞳を輝かせる紅葉。それは、今までにない、生き生きとした表情だった。


「紅葉、お前の笑顔は最高だ。これからは、そのありのままの笑顔で、店に華を添えてくれ」


「ええ、隼人さん。私、みんなと一緒にいられることを、心から幸せに思うわ」


 紅葉の言葉に、ホステスたちも笑顔で頷く。


「そうだよ。紅葉の笑顔は、この店の宝物だからね」


 朱里や他のホステスたちに励まされ、紅葉の笑顔はさらに輝きを増す。


「みんな...ありがとう。私、この『狐の宴』が大好きなの。これからも、心からの笑顔で、みんなと一緒に頑張るわ」


 紅葉の無事を喜ぶ『狐の宴』の面々。その中で、翼はほっとしつつも、どこか複雑な表情を浮かべていた。


(隼人と紅葉が二人で会っていたのか...)


 胸の奥でかすかに疼く感情を、翼は飲み込むように押し殺す。隼人への想いは、友情という名の奥底に仕舞っておくべきだと、自分に言い聞かせるのだ。


 紅葉を救った後、隼人と言葉少なに語り合う翼。その眼差しには、いつもとは違う翳りも宿っていた。


「隼人、君の力があったから、今回も紅葉を守れた。だけど、これから先が心配だ」


「わかってる。だが、俺は『狐の宴』を、絶対に守り抜く。鞍馬の野望を、必ず打ち砕いてみせる」


 隼人の瞳に、揺るぎない決意の炎が宿る。その真摯な眼差しに、翼の心が熱くなる。


「隼人...ありがとう。僕も、君と『狐の宴』を守るために、全力を尽くすよ」


 翼は隼人の肩に手を置き、力強く告げる。隼人もまた、その手に自分の手を重ねて頷いた。


 二人の間に流れる、言葉にできない熱い想い。それもまた、『狐の宴』を守る力となるのだろう。


 そんな隼人と翼の姿を、少し離れたところから紅葉が見ている。


(翼さん、隼人さんのこと、好きなのよね...)


 女心で察する紅葉。彼女もまた、隼人への淡い恋心を抱いていた。けれど、今はその想いよりも、仲間としての絆を大切にしたいと思っている。


「隼人さん、翼さん。私も、お二人と一緒に『狐の宴』を守る力になりたいの」


 そう呟いて、紅葉は二人に歩み寄る。隼人と翼に挟まれるようにして立つと、彼女は満面の笑みを見せた。


「紅葉、俺たち三人の絆なら、鞍馬のたくらみも恐くはないさ」


「そうだよ。心を一つにして、この店の未来を守り抜こう」


 固い握手を交わす隼人と翼、そして紅葉。三人の絆が、『狐の宴』を照らす希望の灯火となるのだろう。


次回、「第9話 偽善の狐」

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