第1部:第7話 暴食の狐
歌舞伎町の夜。『狐の宴』の厨房からは、いつになく美味しそうな香りが漂っていた。
料理人の英嗣は、まるで憑かれたようにキッチンに立ち続け、次々と新メニューを生み出している。実は、英嗣は最近、料理への情熱があまりに強くなりすぎていた。新作を生み出すことに心を奪われ、自分を見失いつつあったのだ。
「英嗣、最近料理に熱心だね。新しいメニューも好評だよ」
そう声をかける隼人に、英嗣は嬉しそうに頷く。
「ええ、オーナー。料理は私の生きがいですから。この私の作る素晴らしい料理の数々をもっと多くの人に、味わってもらいたいんです」
その言葉に、隼人は少し違和感を覚える。いつもの穏やかな英嗣らしくない、妙な執着が感じられたのだ。
そんな中、『狐の宴』に通う常連客たちに異変が起きる。彼らは次々と大食いを始め、まるで底なしの胃袋を持っているかのように、際限なく食べ続けるのだ。
「俺、こんなに食べられるなんて思わなかったよ! 英嗣の料理、マジでハマる!」
そう言って大皿を平らげる客。他の客たちも、まるで飢えた獣のような勢いで料理を貪り食う。
この事態に、隼人と翼は疑念を抱く。
「隼人、みんな英嗣の料理に取り憑かれたみたいだね。一体何が起こっているんだい?」
「ああ、様子がおかしい。英嗣も、いつもと違うオーラを放っている。もしかしたら…」
隼人の脳裏に、一つの可能性が浮かぶ。
(まさか、英嗣が『暴食の狐』に取り憑かれているのか…!?)
その時、『狐の宴』の扉が静かに開き、一人の女性が入ってくる。その女性は、以前このキャバクラで働いていた舞だった。彼女は過去に食べ過ぎてしまう習慣があり、ストレスが溜まると大量の食べ物を口にすることがあった。そして、時には罪悪感から体調を崩してしまうこともあるのだ。
「あ! 舞ちゃん、久しぶり! 元気にしてた?」
隼人が英嗣への懸念を押し隠し、舞に明るく声をかける。
「ますます綺麗になったね」
翼も柔らかな笑顔を向けた。だが、舞の表情は晴れない。
「オーナー…マネージャー…。聞いてください。私、またあの症状が出てきたんです…」
舞は震える声で、自分の状況を打ち明ける。仕事のストレスが溜まると、どうしても食べ物に頼ってしまうのだと。
「舞ちゃん、大丈夫だよ。ゆっくり話を聞かせて」
隼人はそう言って、翼とともに舞をテーブル席へと案内する。そこで舞は、これまでの経緯を語り始めた。
一方、厨房では不穏な影が蠢いていた。料理人の英嗣は、やはり『暴食の狐』に取り憑かれていたのだ。
「ふふふ、もっとだ…もっと料理を作らせろ…!」
英嗣は目に狂気を宿し、大量の料理を作り続ける。そしてその料理は、常連客たちを異常な食欲に駆り立てていた。
「うまい! 英嗣の料理、もっと食わせろ!」「もっと、ちょうだい!」
客たちは我を忘れ、貪るように食べ続ける。店内は、不気味な雰囲気に包まれていく。
そんな中、舞も英嗣の料理を口にしてしまう。すると、彼女の中で衝動が渦巻く。
「私…私も、もっと食べなきゃ…!」
舞は理性を失い、大量の料理に手を伸ばす。そして、トイレへと駆け込むのだ。
その異変に気づいた隼人と翼が、慌てて舞にわけを尋ねる。しかし、舞は二人の制止を振り切り、食べては吐き、また食べる。まるで自らを罰するかのように。
「やめるんだ、舞ちゃん! そんな風に自分を傷つけたら…!」
それでも、舞はまるで『暴食の狐』に取り憑かれたように、止まらない。
「隼人さん…ごめんなさい…私、もうダメなのかも…」
「そんなことない! 舞ちゃんは強い人だ。俺が…『狐の宴』のみんなが、君の味方だから!」
この事態に、隼人は決意を固める。
「翼、英嗣を頼む。英嗣は『暴食の狐』に取り憑かれているんだ。俺は…舞の心の中から『暴食の狐』にコンタクトしてみる。彼女を助け出す!」
「わかった。英嗣のことは僕に任せて」
そう言って、翼は英嗣に向かって走り出す。一方の隼人は、必死に舞を抱きしめる。
「舞ちゃん、君の心の中に僕を入れてくれ。必ず、君を『暴食の狐』から助けてみせる」
「…お願い、オーナー。私を、この呪縛から解き放して」
舞の瞳に、かすかな希望の明かりが灯る。隼人は頷き、妖力を使って意識を彼女の心の中へと飛ばした。
舞の心の中は、歪んだ食欲に支配された異空間だった。所狭しと、大量の食べ物が散乱している。その中心には、巨大な『暴食の狐』が君臨していた。
「ははは! 舞よ、お前はただ食べ続けるだけでいい。そうすれば、全ての苦しみから解放されるぞ!」
『暴食の狐』は舞を誘惑し、その心を少しずつ蝕んでいく。舞は怯え、その場に竦み上がっている。
「いやだ、お願い…! もう、食べたくない…!」
だが、『暴食の狐』の力は圧倒的だ。舞の意思を容易に押し流してしまう。
「無駄だ、舞! お前は私から逃れられん! さあ、もっと食べるのだ!」
『暴食の狐』が叫ぶ。舞の体が、また食べ物に手を伸ばそうとする。
「させるか!」
その時、隼人の声が響き渡る。彼は舞の前に立ちはだかり、『暴食の狐』を鋭く睨みつける。
「『暴食の狐』! 舞ちゃんから離れろ! 彼女はもう、お前に支配されない!」
「 貴様、舞の心に何の用だ!」
『暴食の狐』が怒号を上げる。しかし、隼人は微動だにしない。
「舞ちゃんを救うためだ。彼女は、本当は食べ過ぎたくなんかない。でも、お前に心を蝕まれ、自分を見失っている」
「ばかな! 食欲こそ、生命の源だ! それを否定するとは、愚かな…!」
『暴食の狐』は高笑いを上げる。しかし、隼人は冷静に言葉を紡ぐ。
「違う。むやみに食べ続けることは、本能のままに生きることじゃない。それは、自分を見失うことだ」
隼人の言葉に、舞は驚きを隠せない。
「自分を…見失う…?」
「そうだよ、舞ちゃん。君は、食べたいから食べているんじゃない。『暴食の狐』に心を支配され、食べざるを得なくなっているんだ」
隼人は優しく、しかし力強く語りかける。その言葉に、舞の心が揺れる。
「でも…私は食べないと、不安で…。だから、つい…」
「その不安は、『暴食の狐』が生み出した偽物だ。本当の君は、もっと自分を信じられるはずだよ」
「自分を…信じる…?」
舞の瞳に、かすかな光が宿る。それを見た『暴食の狐』は、さらに激昂する。
「うるさい! 舞は私のものだ! 貴様など、何もわかってはいない!」
『暴食の狐』の迫力に、舞が怯む。しかし、隼人は動じない。
「わかってる。舞ちゃんの苦しみも、お前の誘惑の恐ろしさも。でも、俺は信じている。舞ちゃんが、自分の心に正直になれることを」
隼人は、『暴食の狐』に立ち向かう。舞への想いを胸に、説得を続ける。
「舞ちゃん、君には食事を楽しんで欲しいんだ。罪悪感に囚われる必要はない。大切なのは、食事を味わい、満足することなんだ」
隼人の言葉は、徐々に舞の心に届き始める。『暴食の狐』の影響力が、少しずつ弱まっていくのがわかる。
だが、『暴食の狐』も黙ってはいない。
「愚かな…! 満足など幻想だ! 食べることこそが全て! 他の何もいらぬ!」
しかし、隼人の説得は止まらない。彼は真摯に、舞の心に語り続ける。
「違う。むやみに食べ続けても、砂漠に水を撒くように、いつまで経っても心の砂漠は満たされない。でも、丁度よい量を心から味わえたなら、心には種を植えられるくらい、潤った地面があらわれるんだ…」
その言葉に、舞の表情が変わる。『暴食の狐』の呪縛から、解放されつつあるのだ。
舞自身も、隼人の言葉に勇気をもらう。
「丁度よい量を…心から味わう…。満足感の…種を植えるために…」
舞は呟くように言葉を紡ぐ。その言葉は、彼女の中で確かな意志となり染み渡っていった。
「ちゃんとした…満足…」
舞の中に少しだけ気づきがあった。
「私…私は、もう自分を責めたりしない。食事を味わうことで、満足を感じていくの」
舞の宣言に、『暴食の狐』が激しく揺らぐ。
「そ、そんな…! お前は私なしでは生きられないはずだ…!」
だが、舞の心はもう決まっていた。彼女は『暴食の狐』を見据え、言い放つ。
「違うわ。私はもう、あなたに支配されない。自分の心に素直に、生きていくの」
その瞬間、『暴食の狐』の姿が砕け散った。舞の心は、ついに自由を取り戻したのだ。
心の中から戻った隼人と舞を、仲間たちが待っていた。英嗣も、我に返っている。
「舞ちゃん、よく頑張ったね。君の強さを、俺たちは誇りに思うよ」
隼人が舞を抱きしめると、彼女は安堵の表情を浮かべる。
「ありがとう、オーナー。私、みんなのおかげで立ち直れた。これからは、自分を大切にしていくわ」
「うん、その意思を胸に、また一緒に頑張ろう。『狐の宴』は、君の居場所だからね」
隼人の言葉に、舞は涙ながらに頷く。彼女の心は、確かな満足感に満たされていた。
歓喜に満ちた空気の中、英嗣が隼人に歩み寄る。
「オーナー、舞ちゃん、すまない。僕は料理への情熱に取り憑かれ、『暴食の狐』に付け込まれていた。でも、もう大丈夫だ。みんなの笑顔のために、料理を作っていきたい」
英嗣の言葉に、隼人は力強く頷く。
「うん、その想いを大切にしてほしい。英嗣の料理は、みんなの心を満たしてくれるからね」
「ええ、私も英嗣さんの料理で、幸せな気持ちになれました。これからもよろしくお願いします」
舞も、英嗣に感謝の言葉を伝える。英嗣は、二人に深々と頭を下げた。
こうして、『暴食の狐』の脅威は去った。だが、隼人の心には、まだ影があった。父・鞍馬の野望が、『狐の宴』を脅かしているのを、彼は感じていたのだ。
しかし今は、祝福の時。隼人は、『狐の宴』の面々に語りかける。
「みんな、今夜は特別にお祝いしよう。舞ちゃんの心の解放と、英嗣の新たな決意を祝して、楽しもう!」
隼人の提案に、店内が大きな歓声に包まれる。
「そうだね、隼人。今夜は思いっきりね!」
「舞ちゃん、英嗣さん、良かったね。一緒に乾杯しましょう!」
紅葉や梓、そして朱璃や翼も、二人を祝福する。舞と英嗣は、幸せに満ちた表情で頷いていた。
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