第1部:第6話 虚飾の狐

 『狐の宴』に、いつもの華やかな夜が訪れる。シャンデリアの光が煌めき、紅葉と梓、そして朱璃の艶やかなドレス姿が宴を彩る。隼人は、カウンター越しに店内を見渡し、平和な日常に安堵の息をつく。


 そこへ、常連客の青山、木村、佐藤の三人組が陽気に話しながら入店してくる。


 青山が隼人に声をかけた。


「やあ、隼人君。今日も絶好調だね!」


 隼人は微笑みながら答える。


「いつも通りですよ、青山さん。今日はどんな話を聞かせてくれるんですか?」


 すると、木村が口を挟んだ。


「なあなあ、梓ちゃん、今日も可愛いねえ。一曲歌ってくれよ」


 梓は頬を膨らませながら返答する。


「もう、木村さったら。お酒の注文をしてからにしてください」


 何気ない会話が弾む中、佐藤が話題を切り出した。


「ところで隼人君、最近この店、めっちゃ評判良いね」


 隼人は謙遜しながら答える。


「いえ、皆様のおかげです。いつも感謝していますよ」


 そこへ、翼も冗談めかしてコメントを添えた。


「隼人の頑張りが、みんなに伝わっているんだよ」


 そんな平和な日常が、突如として切り裂かれる。凄まじい気配と共に勢いよく開かれた扉。そこに現れたのは、隼人の父でありこれまで数々の妖狐を送り込んできた宿敵、鞍馬の姿だった。


「久しぶりだな、愚かな息子よ。相変わらず、人間くさい店だな」


 そう鞍馬は嘲笑する。


 店内の空気を震わせる低く恐ろしい声に、青山たちは怯えた表情を浮かべ、翼と紅葉は身構える。そんな中、隼人だけが毅然とした表情で鞍馬を見据える。


「父上。俺に何の用ですか」


「愚問だな、隼人。お前の妖力を解放させ、我が配下に付かせるためだ」


 そう言うと、鞍馬は不敵に笑みを浮かべ、何かを呼び出すかのように手を掲げる。すると、虚ろな笑みを浮かべた女性達が次々と店内に入ってきたのだ。彼女らは、鞍馬の術に操られている。


「ねぇ、私の方がずっと魅力的でしょ? キャバ嬢なんて比べ物にならないわ!」


「そんなことないわ! 私の魅力の方が上よ! あなたなんかに負ける訳ないのよ!」


 彼女らは、醜く歪んだ自己顕示欲を剥き出しにし、我を忘れたように争い始める。虚栄心に取り憑かれ、他人を見下し、足を引っ張り合う。まるで、自分が特別な存在になったかのように振る舞うのだ。


 『虚飾の狐』の力に蝕まれた彼女らの姿は、本来の自分を見失い、虚飾の仮面に酔いしれる人間の愚かしさを象徴しているかのようだった。隼人は、その光景に複雑な感情を抱きながらも、言葉を失ってしまう。


「みなさん、落ち着いてください。どうしたんですか」


 そう言って、隼人は鞍馬に歩み寄る。その眼差しには、恐れも迷いもない。ただ毅然とした決意だけがあった。


「父上、あなたの狙いは俺でしょう。これは、『虚飾の狐』ですね。『虚飾の狐』を使って、何がしたいんですか」


「何がしたいだと? お前に妖怪の力の素晴らしさを思い知らせ、我が野望に加担させるためだ。『虚飾の狐』は、人間の虚栄心につけ込み、心を惑わせる妖怪だ。人は自らの弱さから目を背け、虚飾の世界に逃避する。そこに漬け込めば、人間なぞ容易く操れるというわけだ」


 鞍馬の言葉は、妖怪の力を利用して人間を支配しようとする、邪悪な野望を物語っていた。しかし、隼人は微動だにしない。


「俺は、人間として生きることを選んだんです。それは、母さんとの約束だ。人間と争うために妖怪の力を使うつもりはない!」


「小百合との約束だと? 愚かな。お前は半妖でありながら、人間のふりをしている。それこそが最大の虚飾ではないのか?」


 鞍馬の言葉に、隼人は一瞬言葉に詰まる。自分が半妖であることは、紛れもない事実だ。しかし、隼人は自分の信念を貫くことを選ぶ。


「虚飾? 笑わせるな。虚飾とは、自分の弱さから逃げ、他人を欺くことだ。俺は、自分の心に嘘をつかず、この道を選んだ。弱さも、妖怪の血も、全て引き受けて生きている! それを虚飾呼ばわりするのは、間違っている!」


 強い言葉に、揺るぎない意志が宿る。鞍馬は、隼人の成長を感じずにはいられなかった。だが、野望を捨てるわけにはいかない。


「ならば、『虚飾の狐』の力を思い知れ! お前の大事な仲間たちを操ってやろう!」


 鞍馬の合図とともに、『虚飾の狐』は再び人々に襲いかかる。取り憑かれた客たちは、醜い欲望を剥き出しにし、殺気立った様子で隼人に迫る。


「くっ…! 父上、卑怯な真似を!」


 怒りに震える隼人。だが、鞍馬は意に介さない。


「ハッ、戦いに卑怯も何もあるものか。人の心を操ることこそ、妖の力の真骨頂。隼人よ、お前も『虚飾の狐』の力を受け入れれば、無敵の存在となれるぞ」


「馬鹿な…! 他人を操ることが、力だと? それは本当の力ではない!」


 隼人の言葉に、鞍馬は怒りに顔を歪める。


「うるさい! 黙って俺の配下になれ! さもなくば、お前の大事な仲間たちの心は砕け散るぞ!」


「心を砕き、心を奪って操ることが、父上にどんな価値をもたらすんですか! 虚しさしか残らないはずだ。父上には、本当の絆が理解できていない」


 隼人の言葉に、鞍馬は一瞬、表情を曇らせる。過去に、鞍馬自身も仲間との絆を信じていた時期があった。だが、裏切りによってその絆は無残に引き裂かれ、鞍馬の心は完全に歪んでしまったのだ。


「絆だと? 笑わせるな! 妖怪に絆などいらぬ! 力こそがすべてだ!」


「いや! 力のための力に、何の意味がある? 俺は仲間を守るために戦う。その思いがあるから、俺は強くなれる!」


 吠えるような隼人の言葉に、鞍馬は激しく動揺する。


「お前が、そんなだから、小百合は…」


 隼人との対決の中で、鞍馬の心のどこかで封印していた想いが、再びうずき始めている。


「えーい! お前になど、俺の何がわかる! 俺が欲するのは、ただ力だけだ!」


 鞍馬の声は、かつてない苦悩に満ちていた。隼人は、その苦悩の正体が、深い孤独に根差したものだと察した。


「父上…あなたは、かつての絆を取り戻したかった。だから、虚飾の力にすがるしかなかったんでしょう?」


「な、何を…! 俺は、絆などいらぬと言っているだろう!」


 動揺を隠せない鞍馬。隼人の言葉が、鞍馬の心の核心を衝いていたのだ。


「父上、俺はあなたを、必ず助け出します。『虚飾の狐』に魂を売り渡したあなたを、孤独の呪縛から解き放つ。それが、俺の役目だ」


 息子の純真な思いに、鞍馬は一瞬言葉を失った。だが、すぐにプライドが、その心の隙間を塞ぐ。


「ば…馬鹿な! 俺は助けなどいらぬ! お前には失望したぞ、隼人! 次会う時は、覚悟を決めておけ!」


 そう叫び、鞍馬は怒りに震えながら姿を消した。鞍馬の居なくなった店内で、人々は我に返り始める。『虚飾の狐』の力が弱まったのだ。


 だが、『虚飾の狐』は新たな獲物を求めて蠢いている。その鋭い視線の先には、かつて口にした"理想の自分"への思いを断ち切れずにいる朱璃の姿があった。


「ククク…お前こそ、私に相応しい器だ。私の力を受け入れれば、理想の自分に近づけるぞ」


 甘美な囁きに、朱璃の瞳が揺らぐ。普段は凛とした朱璃だが、理想と現実のギャップに悩む弱い部分が、『虚飾の狐』に漬け込む隙を与えてしまったのだ。


「理想の…私に、なれる…?」


 朱璃の心が、ゆっくりと『虚飾の狐』に蝕まれ始める。その異変に気づいた隼人は、焦燥を募らせながら、朱璃の元へと駆け寄る。


「朱璃!しっかりしろ!『虚飾の狐』に負けるな!」


 隼人の必死の呼びかけも虚しく、朱璃の意識は徐々に『虚飾の狐』に侵食されていった。


 朱璃の中で、激しい葛藤が渦巻く。隼人は、半妖の力を解放し、朱璃の心の中に意識を飛ばす。


 そこは、虚栄と幻想が支配する歪な空間だった。鏡の間に閉じ込められたように、無数の朱璃が自己陶酔し、うわべだけの完璧さを競い合っている。


「朱璃! 『虚飾の狐』に魂を奪われるな! 本当の自分を、思い出すんだ!」


 隼人の呼びかけに、朱璃は弱々しく顔を上げる。


「隼人さん…? どうして、ここに…?」


「俺は、朱璃を助けるために来たんだ。朱璃、理想ばかり追いかけて、自分を見失っちゃいけない!」


「でも…私は、理想の自分になりたいの。このままの自分じゃ、ダメなんです…」


 涙ぐむ朱璃に、隼人は真摯に語りかける。


「朱璃、お前は十分に魅力的だ。今のお前が、本当のお前なんだ。ありのままの自分を受け入れることが、本当の強さだと、俺は思う」


「受け入れる…? でも、弱い自分なんて…」


「弱さも含めて、全てがお前自身だ。弱さから目を背けず、それに立ち向かう。そこにこそ、真の美しさがあるんだ」


 優しく見つめる隼人の瞳に、朱璃の心が揺さぶられる。


「私は、ありのままの自分を、もっと愛せるようにならなきゃいけないのね…」


 その時、『虚飾の狐』が不気味な笑みを浮かべて現れる。


「愚かな…! 理想の姿こそが、お前の幸せの鍵だというのに! 私の力を受け入れれば、一瞬にして理想の自分になれるというのに…!」


「理想の姿になったところで、心は満たされない!大切なのは、ありのままの自分を愛し、現実と向き合うことだ!」


 隼人の力強い言葉に、朱璃の瞳に光が宿る。


「そうだわ…私は、私のままでいい。そのために頑張ればいいんだわ…!」


「朱璃…!よく気づいてくれた…!」


 朱璃の中で、何かが大きく変化する。自己肯定の光が、『虚飾の狐』の呪縛を打ち砕いていく。


「そんな…! 私の世界が、崩れていく…!」


 『虚飾の狐』は、朱璃の心から弾き飛ばされ、力を失っていく。隼人と朱璃の意識は、現実世界へと引き戻される。


「朱璃、よく頑張ったな」


「隼人さん…ありがとう。私、やっと自分を取り戻せた気がする」


 晴れやかな朱璃の笑顔に、隼人も安堵の表情を浮かべる。『虚飾の狐』の脅威は、今のところ去ったようだ。


 だが、鞍馬の影は、まだ消えてはいない。『狐の宴』の平和を脅かす、新たな悪意の予兆が、静かに近づいているのかもしれない。


 そんな不安を胸に秘めつつも、隼人は『狐の宴』に集う人々の日常を守るため、そして鞍馬を孤独から救い出すため、変わらぬ決意で歩み続ける。


「俺は、自分の信じた道を、仲間と共に歩んでいく。父上、いつかあなたにも、本当の絆の意味を理解してくれる日が来ることを、信じています…」


 『虚飾の狐』との戦いを通して、隼人も朱璃も、自らの心と向き合い、新たな一歩を踏み出したのだった。これからも彼らの前途には、数多の試練が待ち受けているだろう。


 だが、自分自身を信じ、仲間と共に歩む強さがある限り、きっと乗り越えていけるはずだ。そう信じて、隼人は『狐の宴』の扉を開け放つ。


 華やかな宴の喧噪が、再び夜闇に溶け込んでいく。『狐の宴』の面々は、また新たな一日を迎えるのだった。

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