第1部:第5話 憂鬱の狐

 翼を苦しめた『怠惰の狐』の一件から数日後、『狐の宴』には再び平和な日常が戻っていた。


 華やかな衣装に身を包んだホステスたちが、優雅に客席を回る。


 バーカウンターでは、オーナーの隼人とマネージャーの翼が、笑顔で言葉を交わしている。


「翼、この前の件は本当に助かった。お前がいなかったら、俺は『怠惰の狐』に負けていたかもしれない」


「いやいや、君こそ、僕を助けてくれたんだ。お互い様だよ」


 翼の笑顔を見て、隼人の頬が赤く染まる。それを見ていた紅葉と梓も、微笑ましそうに頷く。


 一方、ホールの隅では、常連客の涼子が一人、物思いに耽っているようだった。いつもは優雅な微笑を浮かべている彼女だが、今日はどこか浮かない表情をしている。その様子を不審に思った紅葉が、そっと涼子に声をかける。


「涼子さん、どうかされましたか? いつもと様子が違うようですが…」


「ああ、紅葉ちゃん…ごめんなさい、大したことじゃないのよ。ただ、ちょっと考え事をしていただけ」


 涼子はそう言って、笑顔を作るが、どこか影がある。紅葉は心配そうな顔をしながらも、これ以上は聞かずにその場を離れる。平和な日常の中に、ほんの僅かな異変の影。それに気づいたのは、隼人だけだった。


(涼子さん…いったい、何を思い悩んでいるんだろう…)


 隼人の脳裏に、一つの可能性がよぎる。もしかしたら、あの『憂鬱の狐』が…。いや、まだ何とも言えない。隼人は思考を巡らせながら、涼子の様子を見守るのだった。


 次の日、隼人の予感は的中する。


 涼子の様子がおかしいのだ。ため息をつきながらぼんやりとしている。話しかけても、ろくに返事をしない。その異変に、ホステスたちも戸惑いを隠せない。


「涼子さん、お疲れですか?何かお困りのことがあれば、言ってくださいね」


 梓が心配そうに声をかけるが、涼子は虚ろな目で宙を見つめたまま。


「ねぇ、梓ちゃん…人生に意味なんてあるのかしら…私、自分が空っぽになった気がするの…」


 その言葉に、梓は息を呑む。いつもの涼子からは想像もつかない言葉だ。


 一方、ホールの反対側では、涼子の様子を見ていた隼人の顔に、焦りの色が浮かぶ。


(やはり、『憂鬱の狐』の仕業か…!? でも、どうして涼子さんが…)


 隼人が考え込んでいると、突然、涼子が立ち上がった。


「ごめんなさい、私、帰るわ。もう、ここにいる意味がないの…」


 そう言い残して、よろめきながらホールを出ていく涼子。隼人は慌てて彼女を追いかけようとするが、その時、背後から声をかけられる。


「隼人。『憂鬱の狐』だ。間違いない」


 振り返ると、そこには翼の真剣な表情があった。


「翼…お前も感づいていたのか」


「ああ。涼子さんの様子がおかしい。あれは、『憂鬱の狐』の仕業としか思えないよ」


 二人は頷き合う。


 『憂鬱の狐』。人の心に漂う憂鬱につけ込み、生きる意欲を奪ってしまう、恐ろしい妖狐だ。


 今、その魔の手が、涼子に伸びようとしていた。


「隼人、僕も協力する。涼子さんを、絶対に助けよう」


「翼…ああ、そうだな。俺たちの力を合わせれば、必ず涼子さんを救えるはずだ」


 隼人と翼は固い握手を交わす。


 一方、『狐の宴』を後にした涼子は、とぼとぼと夜道を歩いていた。まるで、生気を失ったかのような足取り。そんな涼子の前に、一匹の狐の姿が浮かんだ。幻覚だろうか。


「ふふふ…憂鬱に沈む哀れな人間よ。私について来れば、全ての苦しみから解放してあげよう」


 言葉を話す狐の甘美な声に誘われるまま、涼子はふらふらと狐の後を追いかけた。


 翌日、隼人と翼は真っ先に涼子の安否を確認する。しかし、彼女の姿はどこにも見当たらない。家にも連絡がつかず、まるで人知れず消えてしまったかのようだ。


「隼人、これは深刻だ。涼子さんが、『憂鬱の狐』に取り込まれてしまったんじゃないか?」


「ああ、その可能性が高い。だが、俺たちにはまだ望みがある。俺の力を使えば、涼子さんを見つけられるかもしれない」


 隼人は、妖狐の血を引く者としての力を呼び覚ます。すると、涼子の残留思念が見えてきた。それを頼りに、隼人と翼は彼女の行方を追うのだった。


 一方、涼子は、薄暗い部屋の隅で、うつろな目をしていた。


『憂鬱の狐』が、甘い言葉で彼女の耳元に囁く。


「哀れな人間よ。生きることは、なんと苦しいことか。死んでしまえば、全ては楽になる」


「死ぬ…そうね、もう生きていても意味がないわ…」


 涼子の瞳から、最後の希望の光が消えようとしていた。


 そんな涼子を見つめながら、『憂鬱の狐』が不敵に笑う。


「ふふふ…もうすぐ、この女の魂は完全に絶望に染まる。そうすれば、私の力が増すのだ」


 『憂鬱の狐』は、人の絶望を糧に、自らの力を蓄えているのだ。涼子の心が完全に砕け散れば、恐るべき妖狐の力が解き放たれることになる。


 隼人と翼は、妖狐の力を頼りに、涼子の居場所を突き止める。それは、人気のない廃屋だった。二人が扉を開けると、そこには絶望に沈む涼子の姿があった。


「涼子さん!しっかりしてください!」


 翼の呼びかけに、涼子はゆっくりと顔を上げる。


「翼さん…。隼人さん…。でも、もう遅いの。私、生きる意味を見失ってしまった…」


 その時、隼人は妖力を解放し、涼子の心の中へと飛び込む。


 そこは暗く重苦しい空間。涼子の心が、『憂鬱の狐』に蝕まれていることを物語っていた。


 そして、その闇の中から、『憂鬱の狐』が姿を現す。


「ふふふ、無駄だ。この女の心は、完全に絶望に支配されている。お前らでは、何もできまい」


 しかし、隼人は負けじと言い返す。


「いや、人の心はそう簡単には折れない。涼子さんの心には、まだ希望の光が残っているはずだ」


「何を根拠に、そんなことが言える?」


『憂鬱の狐』が問うと、隼人は自信を持って答える。


「ねぇ、涼子さん。人間ってさ、誰だって自分の存在の意味を考えるもんだよね」


 涼子は答えない。でも構わず隼人は続けた。


「それは、生まれた時から心に灯っている、小さくて強い光みたいなものなんだ。その光は、どんな時も消えることはないんだよ。涼子さんの心にだって、きっとその光は灯っているはずだよ」


「そ、そんな根拠のない甘い言葉を…!」


『憂鬱の狐』が動揺しながらも反論する。


「甘い言葉だなんて、とんでもない。それは、人が生きるために必要不可欠な、かけがえのないものなんだ。たとえ今は見失ってしまっていても、その光はずっと涼子さんの心で輝き続けているんだよ」


 隼人の言葉に、涼子の瞳が潤み始める。


「私の心の…光…」


 その変化を察知した『憂鬱の狐』は、必死に反論する。


「だ、だが、絶望の中にあっては、その光など見えるはずもなかろう! 新しい人生などあり得ない!」


「いいや、絶望は終わりじゃない。新しい始まりにだってなり得るんだ。その最初の一歩を、踏み出す勇気さえあれば」


「ぐっ…し、しかし…!」


『憂鬱の狐』の言葉を遮り、隼人は力強く言い放つ。


「涼子さん、生きることに意味がないなんて、絶対に思わないで。あなたにはかけがえのない居場所があるんだ。『狐の宴』という、あなたを心から大切に思う仲間たちがいる。その絆こそが、あなたの人生に意味を与えてくれるはずだよ」


「『狐の宴』…みんな…」


 涼子の心に、かつての日々の記憶がよみがえる。中でも『狐の宴』の記憶は、涼子の心を潤すには十分すぎるものだった。


 笑顔で迎えてくれるホステス達、優しく見守ってくれる隼人と翼…。かけがえのない居場所で過ごした、幸せな時間の数々…。


「あぁ…そうだったわ…私にはみんながいた…私は、一人じゃなかったんだわ…!」


 その瞬間、涼子の全身から、眩いばかりの光が溢れ出す。


「な、何だこの光は…! 私の力が、押し返されていく…!?」


『憂鬱の狐』が混乱に陥る中、涼子は立ち上がり、力強く宣言する。


「私、もう決めたわ。新しい人生、歩んでみせる…! みんなと一緒に、前を向いて生きていくんだわ…!」


「そ、そんなばかな…ぐわぁぁぁっ!」


 涼子の強い意志の光に打ち砕かれ、『憂鬱の狐』は闇の中へと消えていった。こうして、涼子の心は、絶望の呪縛から解き放たれたのだ。


 涼子の心から抜け出した隼人と翼は、ほっと胸をなで下ろす。涼子もまた、まるで長い悪夢から覚めたかのように、清々しい表情を浮かべていた。


「隼人さん、翼さん…本当に、ありがとう…」


「いいんですよ、涼子さん。あなたが自分の人生を取り戻せたことが、僕たちにとって何よりの喜びなんです…」


 翼の言葉に、涼子は感謝の涙を浮かべるのだった。


 『憂鬱の狐』を退けた後、隼人と翼は涼子を『狐の宴』へと連れ帰る。


 そこで待っていたのは、涼子の無事を心配するホステスたちの姿だった。


「涼子さん、よかった…!私たち、涼子さんのことが心配で…」


 紅葉や梓、そして朱璃に抱きしめられ、涼子の目から涙がこぼれる。


「みんな…ごめんなさい、心配かけちゃって…。でも、もう大丈夫よ。私、もう一度頑張ってみるわ」


 そう言って涼子は、久しぶりの笑顔を見せる。その笑顔に、ホールは温かな空気に包まれた。


「涼子さん、無理はしないでくださいね。私たちは、いつでも涼子さんの味方ですから」


「ありがとう、みんな。私、この場所に来られて本当に良かった…」


 こうして、『憂鬱の狐』の脅威は去り、『狐の宴』に笑顔が戻ってきた。涼子は、仲間たちの支えを胸に、新たな一歩を踏み出すのだった。


 事件の数日後、『狐の宴』は再び平和な日常を取り戻していた。涼子も、以前の明るい笑顔を取り戻し、ホステスたちと楽しげに談笑している。


 その姿を見て、隼人は安堵の息をつく。


「良かった…涼子さんが元気になって」


「ああ、これも隼人と、『狐の宴』のみんなの力だよ。一人じゃ、乗り越えられない壁もあるけど、仲間がいれば、どんな困難も乗り越えられる」


 隣で微笑む翼に、隼人も頷く。


「その通りだな。俺たちは、一人じゃない。この絆が、俺たちの力なんだ」


 そんな二人の会話を、遠くの闇の中から鞍馬が見ていた。


「ふん、隼人め…今回も私の配下を退けおって。だが、次こそは…」


 鞍馬の目には、邪悪な光が宿っている。


 『狐の宴』の平和は、再び脅威に晒されようとしていた。


次回、『第6話 虚飾の狐』

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