第1部:第4話 怠惰の狐

 『狐の宴』では、今日も賑やかな宴が繰り広げられていた。


 紅葉と梓、そして朱璃は、互いの魅力を認め合いながら、お客様をもてなしている。


 ホールの片隅では、待機しているホステスたちの楽しげな会話が弾んでいた。


 そんな中、ふと隼人が翼の様子に気づく。いつもは明るく振る舞う翼だが、どこか元気がない。


「翼、どうしたんだ? 疲れているのか?」


「ああ、隼人。少し眠いだけさ。最近、寝不足気味でね」


 そう言って翼は笑顔を見せるが、隼人には彼の笑顔が力なく感じられた。


 しかし、睡眠不足なのは自分も同じ。そう思い、隼人はあまり深く追及しないことにした。


 そんな時、店のドアが勢いよく開き、常連客の一人、青山が現れる。


「おう、みんな!元気にしてるか?」


 いつになく、ハイテンションな青山。それを不思議に思いつつも、隼人たちは笑顔で彼を迎える。少し違和感はありつつも、いつも通りの楽しい夜が更けていった。


 数日後、『狐の宴』に異変が起こり始める。


 まず最初に様子がおかしくなったのは、翼だった。


 いつもは陽気で明るい彼が、この日はただボーッとしている。隼人が話しかけても、ろくに返事をしない。


「翼、どうしたんだ? 具合でも悪いのか?」


 心配そうに声をかける隼人に、翼はトロンとした目を向ける。


「別に…何もする気が起きないだけ。客の対応も面倒くさいし…」


 その言葉に、隼人は驚きを隠せない。いつもの翼らしからぬ態度に、強い違和感を覚えた。


 そんな時、常連客の一人、青山が席を立とうとする。


「俺、もう帰る…。今日は盛り上がらないし、つまんねぇ」


 そう言って会計を済ませて店を出る青山。隼人は慌てて引き止める。


「青山、どうしたんだ? いつもはもっと遅くまでいるだろう」


「はぁ? オーナーのくせに理由もわからないのか? いい、帰る!」


 そう言い捨てて、青山はそそくさと店を出ていった。


 続けて、別の常連客、木村と佐藤も帰ろうとし始めた。


「今日の『狐の宴』は最悪だ。マネージャーは何やってんだ?」


「ホント、サービスが行き届いてない。こんなんじゃ、もう来ないよ」


 苦言を吐き捨て、二人は店を後にする。


 青山、木村、佐藤。いずれも『狐の宴』の常連中の常連だ。彼らがこんな態度を取るなんて、前代未聞のことだった。


 そんな中、隼人は翼の様子が気になって声をかける。


「翼、一体何があったんだ?お前らしくないぞ」


 しかし、翼からの返事はない。彼は、うつらうつらと眠り始めていたのだ。


(まさか、翼に何かあったのか…? いったい、何が起こっているんだ…?)


 この一連の出来事に、隼人は不吉なものを感じずにはいられなかった。そして、その感覚は的中する。


「ふふふ…『怠惰の狐』よ、うまくやってくれ。『狐の宴』を、内側から崩壊させるのだ…」


 店の裏で、一匹の妖狐が不気味に笑っていた。この妖狐こそ、隼人の父、鞍馬その人だった。鞍馬の陰謀が、また動き出したのだ。


「翼、はっきり言ってくれ。何があったんだ?」


「別に…ないよ。僕はただ、面倒くさいだけ。隼人、君も変なこと聞くなよ」


 そう言って、翼はそっぽを向いてしまう。隼人は困惑する。


(どういうことだ…?まるで、怠惰そのものみたいだ…)


 そう思った時、ふと隼人の脳裏に、一つの可能性が浮かぶ。


(まさか、これは…『怠惰の狐』の仕業なのか…!?)


 『怠惰の狐』。それは人間の怠惰な心につけ込み、あらゆる意欲を奪ってしまう妖狐だ。


 翼の異変は、この『怠惰の狐』によるものなのだろうか。そんな時、店内が騒然となる。


「大変です、翼さんが倒れました!」


 朱璃の悲鳴が、店内に響き渡った。


 隼人が駆けつけると、そこにはソファに倒れ込む翼の姿があった。


「翼!しっかりしろ!」


 しかし、翼は反応しない。まるで深い眠りに落ちてしまったかのように。そして、その瞬間。翼の周りを、青白い炎が取り巻き始める。


「これは…『怠惰の狐』の狐火! あいつが翼に取り憑いているのか…!」


 隼人は、翼を助けるため、妖狐の力の解放を決意する。


(待ってろ、翼…!必ず、お前を『怠惰の狐』から解放してみせる…!)


 金色の瞳を燃やす隼人。そして、この事態の裏では、黒幕・鞍馬が不敵な笑みを浮かべていた。


「さぁ、隼人よ。お前は、我が配下の妖狐に勝てるのか? 見ものだぞ…ふふふ…」


 鞍馬の挑発するような笑い声が、闇の中に響く。隼人は、半妖の力を解放し、翼の心の中へと入り込んだ。


 そこは暗く重苦しい空間。翼の心が、『怠惰の狐』に蝕まれていることを物語っていた。そんな中、隼人は翼の姿を見つける。しかし、その翼はいつもの翼ではない。


「翼、しっかりしろ!『怠惰の狐』に負けるな!」


 隼人の呼びかけに、翼はゆっくりと顔を上げる。その瞳は、生気を失っていた。


「隼人…もういいよ。何もする気が起きないんだ。このままでいいじゃないか…」


 そんな翼の姿に、隼人は心を痛める。しかし、諦めるつもりはない。


「翼、今のお前は、まるで火の消えたろうそくだ。でも、本当のお前は、もっと力強く燃えているはずだ」


 隼人の言葉に、翼が顔を上げる。


「火の消えたろうそく…? 僕が?」


「そうだ。お前はいつも、みんなを照らす光だった。でも、今はその光が消えかけている。お前の心に、もう一度火をともす時が来たんだ」


 その時、『怠惰の狐』が姿を現す。


「ふふふ、怠惰こそが幸せへの近道だ。頑張ることは、無意味なのだよ」


 しかし、隼人は負けない。


「怠惰が幸せだと? そんなことあるか。怠惰は、一時の安らぎを与えるかもしれない。だが、それは本当の充実感ではない。翼、お前はみんなと一緒に頑張る時、心からわくわくしていただろう?」


「わくわく…確かに、僕、みんなの笑顔を見るのが好きだった…」


「そのわくわくする気持ちこそが、お前の本当の力なんだ。怠惰は、そのわくわくを奪おうとしている。そんなのを許していいのか?」


 隼人の問いかけに、翼の心が揺れる。


「僕は…本当は、みんなと一緒に頑張りたい…でも、もし失敗したら…」


 そこで『怠惰の狐』が口を挟む。


「失敗を恐れるのは当然だ。怠惰になれば、失敗する心配はない。それこそが、真の平安というものだ」


 しかし、隼人は鋭く言い返す。


「平安? 笑わせるな。怠惰から得られるのは、一時の逃避だけだ。翼、お前は本当は分かっているはずだ。失敗を恐れず、立ち向かう勇気こそが、お前の真の強さだと」


「ぐぬぬ…な、何を根拠に…」


『怠惰の狐』は、隼人の言葉に動揺し始める。


「根拠はこれだ。翼は今まで、何度も失敗を乗り越えてきた。そのたびに、もっと高みを目指して頑張ってきたんだ。そうやって積み重ねてきた努力こそが、翼の誇りなんだ!」


「ぐわぁぁぁ!」


 隼人の更なる口撃に耐えきれず、『怠惰の狐』は脂汗を流し、苦しみ始める。


「隼人…そうだ、僕は、もっと強くなりたい…! みんなと一緒に、笑顔になりたいんだ!」


 翼の心に、再び火が灯る。それは、『怠惰の狐』を焼き尽くすほどの、熱い炎だった。


「『怠惰の狐』よ、聞け。人は、仲間と共に努力する時、最高の輝きを放つものなのだ。その輝きこそが、真の生き甲斐なのだ!」


「ぐ…、そんな馬鹿な…!」


 隼人の言葉に、『怠惰の狐』は形相を崩し、消えていった。


 こうして、翼の心は『怠惰の狐』から解放されたのだった。


「隼人…ありがとう。僕、もう大丈夫だ。自分の弱さから、逃げないと誓うよ」


「ああ、その意気だ、翼。お前は、最高のマネージャーだ。今日も、みんなを笑顔にしような」


 二人は固い握手を交わし、現実世界へと意識を戻すのだった。


 目を覚ました翼は、自分を心配そうに見つめる隼人と紅葉、梓、朱璃の姿を見て、ほっと息をつく。


「みんな…ごめん。俺、みんなを心配させちゃったね」


「翼、もう大丈夫だ。お前は、自分の力で『怠惰の狐』を追い払ったんだ」


 隼人の言葉に、翼は小さく微笑む。


「隼人、俺を助けてくれて、ありがとう。でも、本当に怠惰だったのは、俺自身だ。お客さんを楽しませるって、俺の使命なのに…」


 そう言って、翼は申し訳なさそうに目を伏せる。


 その時、紅葉が優しく翼の肩に手を置いた。


「翼さん、皆さんが帰ってしまったのは、私たちホステスが頑張れてなかったせいでもあるんです。一緒に、お客様を笑顔にできるよう、頑張りましょう」


 紅葉に続いて、梓も力強く頷く。


「そうですよ、翼さん。私たちみんなで、最高のおもてなしを提供するんです!」


 二人の言葉に、翼の表情が明るくなる。


「紅葉、梓…そうだな。僕たちで、『狐の宴』を盛り上げていこう!」


 こうして、『怠惰の狐』の脅威は去り、『狐の宴』に再び笑顔が戻ってきた。


 お客様を喜ばせることこそ、彼らの喜びだということを、改めて胸に刻んだのだった。


 事件の数日後、『狐の宴』はいつもの賑わいを取り戻していた。


 紅葉と梓、そして朱璃は生き生きと客席を回り、翼は的確な指示でホールを仕切っている。


 隼人は、そんな仲間たちの姿を誇らしげに眺めていた。


「みんな、いい笑顔だ。これこそ、『狐の宴』の宝だよな」


 ふと、隼人の視線が、バーカウンターで談笑する青山、木村、佐藤の3人に留まる。


 彼らも、翼と同じように『怠惰の狐』に取り憑かれていたのだ。隼人は彼らの元に歩み寄る。


「お三方とも、この度は色々とご迷惑をおかけしました。改めて、お詫び申し上げます」


 そう頭を下げる隼人に、3人は苦笑いを浮かべる。


「いやいや、隼人君。悪いのは、俺たちの方さ。怠け心に負けて、ちゃんと不満を説明しなかったんだ…」


「そうだね。でも、この騒動で改めて気づいたよ。『狐の宴』には、俺たちを奮い立たせる何かがあるってね」


「ああ、この特別な空間があるからこそ、俺たちも頑張れるんだ。これからも、よろしくな」


 3人の言葉に、隼人は力強く頷くのだった。


次回、「第5話 憂鬱の狐」

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