第1部:第3話 嫉妬の狐

 歌舞伎町の夜。ネオンが眩しく輝くその裏で、キャバクラ『狐の宴』は今宵も華やかに賑わっていた。


 ナンバーワンホステスの紅葉は、艶やかなドレスに身を包み、上品な立ち振る舞いでお客様を魅了していた。その傍らで、まだまだ新人の梓が慣れない手つきでお酌を進める。そんな彼女を、紅葉はさりげなく気にかけている。


 バーカウンターからは、オーナーの隼人とマネージャーの翼が穏やかな表情で店内を見守っていた。


 人間と妖狐が織りなすこの空間が、隼人にとって何よりの誇りだった。妖狐の血を引く身でありながら、隼人は人間として生きる道を選んだ。そして、人間と妖狐の架け橋となるべく、この『狐の宴』を立ち上げたのだ。


 今夜も特別な夜だ。 いつも紅葉を温かく見守ってくれるVIPのお客様がいらっしゃるのだ。


 隼人は嬉しそうに紅葉を見つめる。ナンバーワンとして、彼女がこの店を引っ張ってきたからこそ、今の平和があるのだと、隼人は心の底から感謝していた。


 優しい灯りに照らされた『狐の宴』。その一角で、人間と妖狐の物語が静かに動き始めていた。


 穏やかな時間が流れる中、ふとした異変が起きる。いつも紅葉を指名していたVIPのお客様が、この日は梓を指名したのだ。


 紅葉は一瞬、目を見開いて固まった。今まで自分を支えてくれたお客様が、梓を選ぶなんて。


「どうして…どうして私じゃないの…?」


 紅葉の脳裏に、そんな思いがよぎる。胸の奥で、ざわめくような感覚。それは紅葉自身も、まだ自覚していない感情だった。


 一方、指名された梓は戸惑いを隠せない。


「え、私がお相手していいんですか…? でも、紅葉さんの方が…」


 そう言いながらも、梓はお客様のもとへと歩み寄る。初めてのVIP接客。梓は精一杯の笑顔を見せた。


 紅葉はその様子を、遠くから見つめている。胸の奥のざわめきが、少しずつ大きくなっていくのを感じた。


 その時、ふと視界の隅に、不思議な影が見えた気がした。紫の炎のようなものが、一瞬揺らめいたのだ。しかし紅葉は、それを気のせいだと思い、目をそらす。


 だが、彼女の心には知らず知らずのうちに、一つの感情の種が蒔かれていた。やがてそれは、『嫉妬の狐』という妖しい花を咲かせることになる。


 翌日、紅葉は不思議な夢を見た。紫の炎に包まれ、自分が梓に怒鳴りつける夢だ。


「私こそがナンバーワンなの! あんたなんか、消えてしまえばいいのに!」


 目覚めた時、紅葉は体中に冷や汗をかいていた。あんな恐ろしい夢を見るなんて、自分らしくない。そう思いながらも、胸の奥のざわめきは、少しずつ大きくなっている気がした。


 不安を抱えながら出勤した紅葉を待っていたのは、意外な知らせだった。いつものVIPのお客様が、またも梓を指名したというのだ。その知らせは、紅葉の心に小さな亀裂を生んだ。


「どうして…。私は、お客様に愛されるナンバーワンのはずなのに…」


 その瞬間、紅葉の心に棲みついていた『嫉妬の狐』が、ゆっくりと瞳を開いた。


「そうだ、私こそがナンバーワンなのに…。邪魔者は消えてしまえばいい…」


 囁くような声が、紅葉の脳裏に響く。いつの間にか、彼女の瞳は紫の炎のように妖しく輝いていた。


 その異変に気付いたのは、隼人だった。普段とは違う、不気味なオーラを放つ紅葉。隼人は直感する。


(この気配は…まさか、紅葉が『嫉妬の狐』に取り憑かれている…?)


 人間の心の弱みに付け込み、負の感情に呼び寄せられる『嫉妬の狐』。隼人は一刻も早く、紅葉を助けなければならないと焦る。


 だが、嫉妬に取り憑かれた紅葉の心は、もはや簡単には開かれない。


「紅葉、しっかりしろ。お前は皆に愛されるナンバーワンホステスだ」


「うるさい! 私はもう、誰も信じない…!」


 なすすべもなく、紅葉を見つめる隼人。


 この窮地を打開するには、もはや隼人自身の妖狐の力を使うしかないのか。そんな隼人の脳裏に、ふとある人物の影がよぎる。


(父上…。この嫉妬の狐も、父上の仕業なのか…?)


 『狐の宴』の平和を脅かす、鞍馬の企みを気にかけながら、隼人は半妖の力を使って、紅葉の心の中へと入り込んでいった。


 そこは紫の炎に包まれた、妖しい空間だった。炎の中央で、幼い姿の紅葉がひざまずいている。


「隼人…私は、もうダメなのかもしれない…」


 隼人は、その姿に『嫉妬の狐』に怯える現実の紅葉の姿を重ねる。


「紅葉、大丈夫だ。君は、もっと強い子なんだ」


 優しく微笑みながら、隼人は幼い紅葉に語りかける。


「君は、お客様の笑顔のために頑張ってきた。その優しさは、君の宝物なんだ」


 隼人の言葉に、幼い紅葉の瞳に希望の光が宿る。


「そうだった…私、みんなを笑顔にしたいんだ…!」


 その時、炎の中から『嫉妬の狐』が現れる。


「愚かな…! 嫉妬こそが、お前の本当の姿だというのに…!」


 『嫉妬の狐』は、隼人に向かって挑発的な笑みを浮かべる。


「人間よ、お前には何もわかっちゃいない。嫉妬は、彼女の心の本音なのだ」


 しかし隼人は、冷静に『嫉妬の狐』を見据える。


「嫉妬が本音だと? それは違うな。嫉妬は、自分の価値を他人と比べることから生まれる。本当の自信は、内側から湧き上がるものだ」


「な、何だと…!?」


「紅葉は、自分の魅力を信じられずにいる。だから、他人と比べて劣っていると感じてしまう。でも、彼女の本当の価値は、他人との比較の中にはない」


 隼人の言葉に、『嫉妬の狐』は動揺を隠せない。


「だ、だがな…! 嫉妬は、強さの証でもあるのだ!」


「強さ? いや、それは弱さの裏返しだ。本当の強さは、自分を信じ、自分の道を進むことから生まれる。他人と比べて優劣を競うことではない」


 『嫉妬の狐』は、隼人の言葉に反論しようとするが、次第に言葉に詰まり始める。


「ぐ、ぐぬぬ…」


「お前は、紅葉の心の隙間につけ込み、彼女を嫉妬の炎で焼こうとしている。だが、彼女の心の奥には、揺るぎない優しさと強さがある。お前の誘惑など、跳ね除けてみせる!」


 隼人の力強い言葉が、紅葉の心に響く。


「そうよ…私は、負けない…! 私には、私にしかない輝きがあるんだから!」


 幼い紅葉が立ち上がり、『嫉妬の狐』に向かって言い放つ。


「私は、私らしく生きる。他人と比べることなく、自分の道を進むの!」


「な、なに…!」


 紅葉の強い意志に、『嫉妬の狐』は後ずさる。


「私の心は、もう揺るがない。だから、消えなさい…!」


「ぐ、ぐわああああっ!」


 苦しげな叫び声を上げながら、『嫉妬の狐』は炎に包まれ、姿を消していく。

 そして、幼い紅葉の姿が、現在の紅葉の姿へと変わっていく。


「隼人…ありがとう。私、気づいたの。私の価値は、私が決めるものだって」


 紅葉の瞳は、新たな輝きを放っていた。


「ああ、その通りだ。君の人生は、君自身のものだ。だから、これからも自分を信じて、前を向いて歩いていけるはずだ」


 隼人は、紅葉の頬に優しく手を添える。


「私は、私の道を進む。みんなの笑顔のために、自分らしく輝き続けるんだ」


 力強く頷く紅葉。こうして、彼女は『嫉妬の狐』との戦いに勝利したのだった。


 現実世界に意識が戻った紅葉は、穏やかな表情で目を開ける。


「隼人…私、取り憑かれていたのね…」


「ああ、でももう大丈夫だ。君は、自分の心の強さを思い出した」


 そう言って、隼人は紅葉の手を握る。その手のぬくもりに、紅葉は安堵の息をつく。


「ごめんなさい、梓ちゃん。私、あなたを妬んでいたみたい…」


「いいんです、紅葉さん。私、紅葉さんの優しさに、いつも助けられてるんです」


 梓は、まっすぐな瞳で紅葉を見つめる。二人の間に、新たな絆が生まれた瞬間だった。


 その時、店のドアが静かに開いた。現れたのは、先日梓を指名したあのVIPのお客様だった。


 早速、お客様を出迎えるために紅葉が駆け寄る。


「あ、紅葉ちゃん。今日は梓ちゃんに会おうと思って来たんだけど…」


 お客様は、少し気まずそうな表情を浮かべる。その言葉に、紅葉ははっとする。


(そうだ…お客様は、私ではなく梓ちゃんを指名していたんだわ…)


 その時、翼が優しく紅葉の背中を押した。


「紅葉、お客様の気持ちを受け止めてあげて。でも、君の気持ちも正直に伝えるんだ」


 翼の言葉に、紅葉は勇気づけられる。


「お客様…私もお客様との時間を大切にしたいと思っています。でも、もちろん、梓ちゃんを差し置いてのことではありません」


 紅葉は、お客様に向かって真摯な眼差しを向ける。


「お客様とお話しできるのが本当に嬉しいんです。でも、梓ちゃんも素晴らしいホステスです。だから、梓ちゃんとの時間大切にしてください…」


 そう言って、紅葉は梓の肩に手を置く。お客様は、二人の様子を見て、にっこりと微笑んだ。


「紅葉ちゃん、君の気持ちはよくわかったよ。確かに、梓ちゃんも魅力的だが紅葉ちゃんも魅力的だよ。これからも、二人とも仲良くしてもらえたらな」


「お客様…! ありがとうございます!」


 紅葉と梓は、嬉しそうに顔を見合わせる。


 こうして、お客様の指名替えの問題にも、幸せな解決が訪れた。紅葉は、自分の魅力を信じつつ、仲間も大切にする道を選んだのだ。


 隼人は、そんな紅葉の成長を、優しい眼差しで見守っていた。そして、翼の言葉がけを誇らしげに思った。


「翼、お前の言葉がけが、紅葉の背中を押したんだ。お前は、みんなの心に寄り添うことができる。俺には、到底真似できないよ」


 隼人が照れくさそうに言うと、翼は優しく微笑んだ。


「隼人…。君こそ、妖狐の力で紅葉の心に入り、彼女を救ったんだよ。僕には、そんなことできない。隼人と僕、互いの長所を活かし合えるから、最強のコンビなんじゃないかな」


 翼のその言葉に、隼人の頬はかすかに顔を赤らめる。


「翼…そうだな。俺たちは、最強のコンビだ。これからも、力を合わせて『狐の宴』を守っていこう」


「ああ、もちろんさ。隼人とならどんな困難も乗り越えられる。…なんて、こんなこと言うと、また照れちゃうんでしょ?」


「ば、馬鹿っ…! 照れてなんかいない!」


 隼人が更に顔を赤らめて言い返すと、翼は優しく笑い返した。そんな二人の様子を、紅葉と梓は微笑ましく見守るのだった。


次回、「第4話 怠惰の狐」

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