第1部 狐の化身編

第1部:第1話 優越の狐

 歌舞伎町の夜、ネオンが眩しく輝くその裏で、キャバクラ『きつねうたげ』は今宵も妖艶な時を刻んでいた。店内に響き渡るジャズの調べ、煌めくシャンデリアの光に照らされた紅葉くれはあずさの艶やかなドレス姿。オーナーの隼人はやとは、バーカウンターから店内を見渡し、いつもの平和な風景に安堵の息をつく。


「今日も変わらない夜だな」


 そう呟いた隼人の隣で、マネージャーのつばさが静かに微笑む。


「平和だね。でも、この平穏は、君が守ってくれているからこそだね」


 翼の言葉に、隼人は小さくうなずく。自分が妖狐の血を引く存在であること、そしてその力を封印して人間として生きる決意をしたこと。それは、隼人にとって誇りであり、同時に大きな責任でもあった。


 そんな中、入口のドアを勢いよく開ける音が店内に響いた。そこに現れたのは、いつもと様子の違う常連客、銀次ぎんじの姿だった。


「銀次、いらっしゃい。いつもと雰囲気が違うね。何かあったのかい?」


 隼人の問いかけに、銀次は高慢な笑みを浮かべて答える。


「ふん、隼人よ。お前には分からんだろうが、俺は今日、自分が選ばれた存在だとわかったのだ」


 その言葉に、隼人と翼は、一瞬視線を交わす。いつもの猫を被った態度ではない、銀次には尋常なまでの高揚感があった。そこに潜む違和感を、二人は敏感に感じ取っていた。


 銀次は、まるで王様が臣下を見下ろすかのように、店内を闊歩し始める。


「おい、お前ら。もっと俺を持てなせ。俺は偉大なんだぞ!」


 そう言って、ホステスの紅葉に絡みつこうとする銀次。それを咎める紅葉に、銀次は激昂する。


「うるさい! 俺に逆らうとは、この店は最低だな!」


 銀次の剣幕に、怯えるホステスたち。周りの客からも不満の声が上がり始め、店内は騒然とした雰囲気に包まれる。


 この事態に、隼人と翼は即座に対処を始めた。


「翼、お前は店を頼む。俺は銀次を個室に連れていく」


「わかった。銀次のことは任せたよ、隼人」


 隼人は興奮した銀次を個室に誘導し、翼は店内の混乱の収拾に動く。ホステスの梓が、翼に不安げに話しかける。


「翼さん、銀次さんはどうしちゃったんでしょう…。いつもと全然違う様子でしたね」


「大丈夫。隼人が必ず銀次を救ってくれる。信じているんだ」


 そう言って、翼は梓の頭をそっと撫でる。その言葉に、梓も少し落ち着きを取り戻すのだった。


 一方、個室で銀次と対峙する隼人。ドアを閉めた瞬間、隼人は銀次の周りに漂う妖気に気づいた。まるで紫の炎が銀次を包み込んでいるようだ。


(この気配は…まさか、銀次が妖狐に取り憑かれているのか!?)


 隼人の脳裏を過ぎる、不吉な予感。普段の銀次を知る隼人だからこそ、彼の異変を見逃さなかったのだ。


「銀次、いったいどうしたんだ? いつものお前らしくないじゃないか」


 隼人が問いかけると、銀次の瞳が赤く輝く。


「ふふふ…お前ごときには分からんだろう。俺は今、この世界の頂点に立ったのだ!」


 妖しく歪む銀次の顔。それは、もはや隼人の知る友人の表情ではなかった。


「銀次、しっかりしろ! お前は今、妖狐に操られているんだ!」


 その言葉に、銀次は高笑いを上げる。


「操られているだと? ふざけるな! 俺は選ばれし存在なのだ!」


 周りの紫の炎が、さらに激しさを増す。それは、隼人に危機感を抱かせるには十分だった。


(このままじゃ、銀次の心が妖狐に飲まれてしまう…!)


 隼人は、銀次を助けるため、自らの妖力を使う決断をする。


「俺は行くぞ、銀次。お前の心の中に!」


 そう宣言し、隼人は妖力を解き放つ。刹那、隼人の意識が銀次の心の中へと飛んでいく。


 そこは暗く歪んだ空間。銀次の心を映し出すかのような、不気味な異空間だった。


「銀次、俺だ。隼人だ」


「隼人…? お前は、俺の偉大さを妬んでいるんだな!」


 妖狐に取り憑かれた銀次は、隼人の呼びかけにも心を開こうとしない。


 隼人は、銀次の内なる子供に優しく語りかける。その子の親であるかのように銀次の心に寄り添おうとする。


「銀次、お前は本当は、自分に自信がないだけなんだ。だから、他人を見下すことで、自分が上になったと錯覚している」


「何だと!? ふざけるな! 俺は…俺は本当に偉大なんだ!」


 銀次の周りの紫の炎が、さらに燃え広がる。その炎の中から、妖艶な女狐の姿が現れる。


「我が名は『優越の狐』。愚かな人間どもよ、我の力を見るがいい!」


 『優越の狐』は、銀次の心に入り込み、彼の感情を操っていた。


「銀次、お前は優れた存在なのだ! 他者を支配することこそ、お前の生きる道!」


 『優越の狐』の言葉に、銀次の瞳が赤く染まっていく。


「ハッハッハ! 愚かな半妖め、私の力の前では無力だ!」


 『優越の狐』の挑発に、隼人は怒りを燃やす。


「黙れ! お前のような卑劣な妖狐に、銀次の心を蝕ませはしない!」


「卑劣だと? いいや、これこそが真の力だ! 優越感こそが、この世を支配する鍵なのだ!」


 優越の狐の言葉に、隼人は一瞬言葉を失う。


「他者を見下すことが、力だと…?」


「そうだ! 弱者を踏みつけることで、自分が選ばれた存在だと実感でき、人を導けるのだ!」


 狐の言葉は、隼人の心に迷いを呼び起こした。力で人を守ることと、力で人を支配することの違いとは何なのか。


「俺は…人を守るために力を使いたいと思ってきた。だが、その導きは支配につながるのか…?」


 隼人の迷いを見透かしたように、『優越の狐』が高笑いする。


「ハッハッハ! 隼人よ、お前も本質では同じなのだ! 力を欲する者は、みな支配者の道を歩むのだ!」


「いや…俺は…」


 言葉に詰まる隼人。だが、その時、仲間の笑顔が脳裏をよぎる。


(違う…俺が目指してきたのは、仲間と共に歩む道だ!)


 隼人は揺るぎない意志を瞳に宿し、『優越の狐』に言葉を投げつける。


「俺が求めるのは、支配ではない! 仲間と支え合い、共に生きることだ!」


「仲間だと? 弱者の集まりに過ぎん! 強者が支配するのが世の理だ!」


「お前は、自らの優越感を満たすために、人の弱みに付け込んでいる。それは本当の強さではない!」


 隼人の言葉に、今度は『優越の狐』が言葉を失った。


「何だと…?」


「本当の強さとは、自分の弱さを認め、それでも前に進むことだ。他人を踏みつけることで得られる優越感は、一時の満足に過ぎない」


 隼人の言葉は、『優越の狐』の心の奥底に突き刺さる。その言葉は、銀次の心にも届いていた。


「隼人…俺は…本当は何を求めていたんだ…?」


 銀次の瞳に、迷いの色が浮かぶ。その心の揺らぎを見逃さず、隼人は銀次に語りかける。


「銀次、お前は優しい心の持ち主だ。仲間と共に歩むことが、お前の本当の望みなはずだ!」


「隼人…そうだ、俺は…」


 銀次の表情に、気づきを得たような変化が生まれる。優越の狐は焦りを隠せない。


「く、くだらん! 銀次よ、隼人の言葉に耳を貸すでない!」


 だが、すでに銀次は気づいていた。


「俺が求めていたのは…仲間との絆だ! 狐め、俺の心から消えろ!」


「ば、ばかな…! 私の支配が…崩れる…!」


 銀次の強い意志と、隼人の揺るぎない信念が、『優越の狐』を打ち砕いていく。


「お前には、真の強さの意味がわかっていない。だから、人の心を惑わすことでしか、自分の存在意義を見出せないのだ」


「そ、そんな…あり得ない…! 私の優越が…敗れただと…!?」


 『優越の狐』は苦悶の叫びを上げ、闇の中に消えていった。


 銀次の体から妖気が消え、彼はゆっくりと目を開ける。


「隼人…俺は、間違っていたんだな…」


「銀次…お前は、自分の心に気づいたんだ。それでこそ、俺の親友だ」


 隼人の言葉に、銀次の瞳に光が灯る。


「俺は…俺は、もっと自分を信じないと。隼人、ありがとう」


「ああ、銀次。帰ろう、みんなが待っている」


 こうして、銀次の心は『優越の狐』の呪縛から解き放たれた。


 二人の意識が現実に戻ると、そこには心配そうに見守る翼の姿があった。


「隼人! 銀次! 大丈夫か!?」


 我に返った隼人と銀次を見て、翼は安堵の表情を浮かべる。


「翼、心配かけてごめん。でも、もう大丈夫だ。俺は、俺らしく生きていくって決めたんだ」


 そう言って笑顔を見せる銀次。隼人も、満足そうに頷く。


「隼人、本当にありがとう。お前がいなかったら、俺は助からなかった」


「いいや、銀次。お前が自分の心に正直になれたからこそ、『優越の狐』を追い払えたんだ。お前の強さが、勝利を呼び込んだんだよ」


 隼人の言葉に、銀次は目頭を熱くする。


「隼人…俺、これからは自分の弱さから逃げないで、仲間と共に前を向いて生きていくよ」


「ああ、その意気だ。俺も、お前や翼、そして『狐の宴』のみんなと一緒に、笑顔あふれる店を作っていきたい」


 固い握手を交わす隼人と銀次。その光景を、翼は嬉しそうに見守っていた。


 騒動が収まり、店内は再び華やかな雰囲気に包まれる。ホステスの紅葉と梓も、銀次の無事を喜び、祝福の言葉を贈る。


「銀次さん、本当に良かったです。またいつもの調子で、私たちを楽しませてくださいね」


「ありがとう、梓ちゃん。俺、もっと魅力的な男になって、君たちを喜ばせるよ」


 そんな銀次の言葉に、紅葉も柔らかな笑みを浮かべる。


「ふふ、期待しているわ。でも、無理はしないでね。あなたらしさが、私たちの元気の源なのだから」


 優しい眼差しを向ける紅葉。その表情に、隼人は改めて『狐の宴』の絆の強さを実感するのだった。


 店内に活気が戻ってくる中、ふと隼人は父・鞍馬くらまのことを思い出す。


(父上、なぜこんなことを? 俺たちを、この街を脅かすなんて…)


 真意は計り知れないが、隼人は迷いを振り払うように立ち上がる。


「みんな、俺はこの『狐の宴』を、守りたい。この店は、人間と妖狐が心を通わせる、かけがえのない場所なんだ」


 隼人の言葉に、翼も紅葉も力強く頷く。


「僕も、この店を守る。隼人と共に、みんなの笑顔を守るんだ」


「ええ、私たちも協力するわ。『狐の宴』の未来のために、私たちにできることを精一杯やらせてもらうわね」


 涼やかな響きのシャンパンが注がれる。隼人は改めて、この店を、この街を守る決意を新たにする。


(俺の力のすべては、この『狐の宴』のために。父上の企みから、みんなを守るために…!)


 こうして、『優越の狐』による騒動は幕を閉じた。だが、鞍馬の影はまだ色濃く、新たな脅威が『狐の宴』を狙っている。


 隼人の戦いは、まだ始まったばかり。彼は妖狐の血を引く宿命を背負い、人間と妖狐の架け橋となる使命を果たさなければならない。


次回、「第2話 誘惑の狐」

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