どういたしまして ④

 この小説の朗読が終わったのは、午後七時過ぎだった。朗読だけでも三時間以上。普通に読んでいた時間も含めると、六時間以上にも及んだ。

 図書館の窓を見れば、すっかり辺りが暗くなっていることが分かる。

 この小説に手をつけた時は明るいオレンジ色だったことを考えると、相当長いこと、小説を読むことに耽ったのだなあと思った。

 既にこの図書館にも来客は僕以外におらず、途中からはより遠慮なく声を出して朗読することができた。

 僕が館長にお願いされたことは、一応やり遂げた。

 今更ながら、よくこんなお願いを引き受けたなあと思う。

 あれだけスピリチュアルな話を、僕は信じて、やらせてくださいと言ったのである。

 我ながら、その決心には感心する。

 しかし、これで本当に、女の子の心残りがなくなったのかは分からない。

 なにせ、それを証明するものがない。

 女の子が自分の目の前に出てきて、直接お礼を言ってくれるようなことは、ないのである。

「お疲れ様」

 話しかけてきたのは館長だった。

 僕を心の底から労うような、深みのある表情をしていた。

 まるで、プロが豆から巻いたコーヒーのようである。

「こんなに長い間、小説を読んでくれて、頭を下げても感謝をしきれないよ。君は女の子にとっても、わたしにとっても、優しい恩人だよ。本当に、ありがとう」

 館長は僕にお礼を言って、お辞儀をした。

 中学生の僕が老齢である館長にお辞儀をされるなんてと思ったが、よく考えれば、それくらいされてもいいことを、僕はやり遂げたのである。

 ここは遠慮するべきではない。

「どういたしまして」

 館長が立ってお辞儀をするものだから、僕も立ってお辞儀をしてしまった。

 結局これでは遠慮をしているのと同じじゃないかと思う。

 

 すると、どういう訳か、館長が大層に驚いた表情をする。

 何故そんなにもびっくりした顔をするのか、僕にはよく分からなかった。

 館長が僕にお辞儀をしたからだろうか。

 それにしたって、驚きすぎである。

「のりこちゃん……」

 館長はそう呟く。

 館長の呟いたことを、僕は理解しかねた。

 人の名前をいきなり呟く館長が、よく分からなかった。

 しかしそれは一瞬で、僕が館長の呟いたその名前を女の子の名前だと認識した途端、僕は館長の目線の先へ、顔を向けた。

 だが、そこには誰もいなかった。

 その一方で、館長はその"のりこちゃん"とやらを目に映しては、驚きに耽っている模様である。

 もしや、僕にその"のりこちゃん"が見えないだけで、実はそこに、"のりこちゃん"がいるのかもしれない。

 更に言えば、その"のりこちゃん"が、しおりのはみ出るあの現象を引き起こしていた本人だとするならば、のりこちゃんは僕の家に、何度も来ていたはずだ。

 あの時、自分の部屋で聴いた大層な物音も、のりこちゃんの仕業なのかもしれない。

 そして今日、一日中ここに座って小説を読んでいたが、僕がそうして小説を読んでいる最中も、のりこちゃんはずっと、僕の傍にいたのかもしれない。

 僕が見えないだけで、のりこちゃんはずっと、僕のすぐ傍にいたのかもしれない。

「久しぶりだねえ。もう、五十年ぶりには、なるかねえ……?」

 館長はそう言いながら、膝を曲げて、のりこちゃんと目線を合わせるように、姿勢を低くする。

「ああ……懐かしいなぁ……。あの時のままだなぁ……」

 館長は感慨深く思って、一滴、二滴と緩やかに涙を流している。

 僕からしてみれば、何もない空間に館長が話しかけているように見える。

 しかしそれは、あくまでも視覚的に見ればである。

 館長は確実に、のりこちゃんと話している。

 顔を合わせている。

 何もない空間に見えるのに、僕にはそんなことがはっきりと分かった。

 館長の顔は確実に、懐かしい人と会っている時の顔であった。

「実はわたしはね、この図書館の館長になったんだよ。君と会わなくなってからもね、わたしはこの図書館に通い続けたよ。そしてやっとの思いで、館長になったんだ」

 館長はずっと笑っていた。

 そして泣いてもいた。

 嬉しくて嬉しくて、堪らないのだろう。

 五十年も会えなかったのに、今日になって突然会うことができたのである。

 当たり前のことだと、僕は思う。

「そうだね。うん」

 すると館長は立ち上がって、僕の方を見る。

「どうやら、もうここから消えてしまうみたいだ」

 涙を拭いながら、館長は言った。

 やはり、あの小説を読み切れなかったことが、心残りになっていたようである。

「そうですか」

 僕はそれくらいしか言えなかった。

 のりこちゃんの存在を今日知ったのにもかかわらず、僕も館長みたいに寂しさを抱えている。

 同じ本好きとして、一度くらい顔を会わせたかった。

 別にこの世の人でなくても構わないから、のりこちゃんと、一回だけでいいから、あの小説について、語り合いたかった。

 少年は戦争の中でも夢を持って、それを叶えたところに感動したと、僕なりの感想を言いたかった。

 きっと、のりこちゃんも、自分が思った感想を、僕に言ってくれることだろう。

「のりこちゃんは、君にものすごく感謝をしているようだ。あの小説を読んでくれてありがとう、と」

 小説を読んで、朗読まですることはかなり大変だったが、それを聞いて、やってよかったと心の底から思えた。

「あの時はありがとう、のりこちゃん。のりこちゃんがいたから、あの時図書館へ行くのが、もっと楽しくなったよ。歳をとっても、本について語り合いたかった」

 館長の顔は、驚きや嬉しさや寂しさなど、色んな表情を駆け抜けた結果、普段通りの穏やかな顔に戻っていた。

 既に涙も、止まっていた。

「じゃあ」

 館長が片手を上げて、のりこちゃんが成仏してしまうことを、僕は悟った。


□□□□□


 館長の指の曲がった手のひらが、スっと下げられる。

 恐らくのりこちゃんはもう、そこにはいない。

 沈黙の間が少々続いた。

 館長は寂しさに襲われているのだと思う。

 それは館長の後ろ姿から、よく分かった。

 館長の背には、哀愁が漂っていた。

 すると、館長は僕の方を向いた。

「何もかも、君のおかげだよ。もう一度、礼を言わせてくれ。本当に、ありがとう」

 館長はまたしても、お辞儀をした。

「館長とのりこちゃんが、会えてよかったです」

「わたしもまさか、会えるなんて思っていなかった。目の前に現れてくれた時は、ほんとにびっくりしたなあ。わたしのこの七十数年の人生でも、一番びっくりしたかもしれない」

 とりあえず、館長の願いを果たせてよかったと僕は思った。

「じゃあ、僕はそろそろ帰ります」

 既に夜になっている。

 普段は夜まで、図書館には残らない。

 もしかしたら、親に心配をかけているかもしれない。

「ああ、またおいで。いつでも歓迎するよ」

「はい。また来させてもらいます」

 僕は館長にさよならを言い、図書館を去るべく足を動かした。

 僕は今まで幽霊という存在を、信じるべきなのか否か、判断しかねていた。

 そもそも霊感がある訳ではないから、幽霊なんてものを見たことすらなかった。

 見たことがなければ、当然いるという判断はできない。

 しかし、僕が見えない部類の人間だけである可能性もあるから、一概にいないとも言えないのだ。

 しかし、今回の、ページに挟んでいたしおりがはみ出てしまう出来事に遭遇し、僕は幽霊がいるのではないかと思った。

 しおりがあんなにも連続で、勝手にはみ出ることなんて、誰かのイタズラでもなければ、ないはずである。

 館長がのりこちゃんに会った際のあの表情は、演技なんかでは絶対にない。

 あの顔は本当に、旧来の大切な人と会うことができた時の、様々な感情が込み上げてきている顔だった。

 僕には残念ながら見えなかったけど、確かにあの時、館長と僕の目の前には、のりこちゃんがいた。

 目の前にいるのりこちゃんに、館長は感激していた。

 あれは、冗談なんかでできる反応ではない。

 これらの経験を経て、僕は幽霊の存在を認めようと思った。

 僕が直接幽霊を見た訳ではないが、そもそも僕が、そんなにも頑なな、幽霊の信じたくなさを持っている訳でもない。

 別に自分が幽霊を見ていなくとも、幽霊を信じることができる出来事は、起こるのである。

 幽霊を信じることができただけでも、僕はあの小説を六時間かけて読む価値があったと思う。

 何より、のりこちゃんがしっかり、成仏できてよかった。


 すると、自分の背中から腹回りにかけて、何かが触れる感覚がする。

 それは決して重くはないが、何かしらが僕の体に乗っかってきたようであった。

 言うなれば、抱きしめられている感じであった。

「ありがとねっ」

 その抱きしめられているような感覚は、数秒間続いた。

 その内、その感覚は、あっという間に消え去っていた。

 何が起こったのか、一瞬理解できなかった。

 しかし、ちょっとしてからすぐに理解した。

 それは、言うまでもないことだった。

「どういたしまして」

 僕は振り向くことをせず、そう言った。

 そして、図書館の大きな扉を開けて、家に向かった。

 気持ちは大いに、晴れ晴れとしていて、嬉しかった。 






 

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