どういたしまして ③
「その子の途中まで読んでいた本を、読んであげるとか、ですかね?」
僕がそう言うと、館長は何かが閃いたかのような顔をする。
「そうだそういえば」と言って、館長は何処かへ向かって歩き出す。
しかし歩き出してからすぐに止まって、「君も来たまえ」と僕に向けて言う。僕は館長の指示に従い、館長に着いていった。
連れられた先は、そこら中にある本棚の内の一つであった。
詳しく言うのならば、小説のコーナーであった。
館長は小説コーナーの前に立つと、「どこにあったかいな」と呟きながら、何かの本を探し始める。
僕は館長がどういったことを思い出したのか、なんの心当たりを感じたのか、判然とはしなかった。
数分程の探す時間を経て、館長はようやく「あった」と言って、ある本を手に取る。
館長が手に取ったものは、とても古い小説だった。
どこもかしこも黄ばんでいて、シミができていて、ページにも変に張りがある感じで、読もうとしても読みにくそうであった。
僕は館長に「これは?」と尋ねる。
「女の子が交通事故に巻き込まれた当時、どうやら女の子はね、この図書館から帰っていた時だったらしいんだ。わたしはその日も、女の子と会話をしていた。その事実は女の子が交通事故に遭ってから、少し経った後に知ったことでね。その時に女の子とした会話の内容も、なんせ五十年以上前だから、もうほとんど覚えていない。でもね、女の子がその時に「家でこの本の続きを読む」というようなことを言っていた記憶が、なんとなあく、あるんだよ。この図書館で途中まで読んで、あとは家で読むことを考えながら帰っている時、女の子は事故に遭ってしまった。多分そうなんじゃないかと、わたしは思ってるよ」
すると、館長は僕の方を向いた。館長のその顔は、なかなかに誠実なものだった。
「君にお願いだ。この小説を、朗読してくれないだろうか」
館長はその小説を僕へ差し向け、そう願った。
「きっと、しおりが勝手にはみ出てしまうことには、意味があるんだよ。普通に考えれば、そんなことが起こる訳がない。女の子は君に、小説を心から愛する君に、自分が生前読み切ることのできなかった小説を、読んで欲しがってるんじゃないかなと、わたしは思うんだ。この人なら、自分と同じ本好きなら、私の願いをきっと叶えてくれると、女の子は思っているのかもしれない。だから、君の借りた本からは、しおりがはみ出てしまう。それがその子なりの、願いを叶えて欲しいという意思表示なのかもしれない」
館長はおっとりとした雰囲気で話すことを止めないものの、その内側には情熱があった。
女の子にどうか、その心残りを済まして欲しいのだろう。
館長と女の子がどれくらいに仲が良かったのか、僕には計り知れないが、少なくとも僕がその女の子くらいの読書好きに出会ったら、心底嬉しく思うだろう。
恐らく、竹馬の友と言えるくらいに仲は良くなるはずだ。
館長ももしかしたら、竹馬の友と言えるくらいに、女の子と仲が良かったのかもしれない。
「実はね、交通事故に遭った女の子が借りて以来、この本を借りた人は現れていないんだ。だからね、女の子が当時ページに挟んだしおりが、当時のまま残ってるんだよ」
館長はそう言いながら、本のしおりが挟んであるページを開けて、僕に見せてくれる。
「君には苦労をかけてしまうけど、この本をしおりの途中から、声に出して読んでくれないだろうか」
館長の言う通り、それをするにはかなりの苦労が付きまとうことだろう。
館長の持つその小説は、ちょうど半分くらいのページにしおりが挟まれている。
およそ二百ページといったところだろう。
二百ページを普通に読む分には、普段から読書を嗜んでいる僕にしてみれば、なんてことはない。
しかし、それを声に出して読むとなれば、話は別である。
朗読というのは、音読とは違う。
単に綴られている文字を右から左へ読むだけではなく、二百もあるページを、心を込めて読まなければならない。
単純に二百ページを音読をするだけでも、それなりに大変だ。
しかし朗読となれば、もっと大変なのである。
国語の授業でも何行かしか音読したことのない僕が、古い小説二百ページを朗読するには、どうすればいいのか、僕は頭を潤滑に回転させて、考えることをする。
そして、僕は思いついた。
「一番始めのページから、しおりの挟んであるページまで、普通に読んでもいいですか? 一度僕がこの小説の内容を理解しないと、朗読は難しいと思うので」
途中のページから声を出して読み始めたところで、理解できるのは五十パーセントである。
朗読というのは、多分、なんとなく心を込めて読むだけではない。
それまでの物語を理解した上で、状況に合った声音で読み上げることでもあるのだ。
館長は僕がそう言ったことに、驚いているようだった。
「まさか、そこまでちゃんとやってくれるとは、思わなかったよ。ただでさえわたしがお願いしているのは、大変なことなのに」
「でも、途中から読むなんてことをすれば、この小説に申し訳がないなあと思うんです。やっぱり小説は、最初から読んでこそだろうし」
館長はうんうんと数回頷いた。僕のその試みに賛同してくれているようだった。
「君は本当に、心から本を愛しているんだね」
館長は穏やかで優しい笑った顔を、僕に見せた。なんだか嬉しそうでもあった。
僕はそうなれば、館長からその小説を受け取って、館長へある席に案内される。
案内された席は、どうやら少女がいつも座っていた席であるようだ。
偶然にもその少女が座っていた席は、僕の席と同じテーブルの席だった。
早速僕は、ページを開けて読むことを始める。
第二次世界大戦の渦中でも懸命に夢を持って生きる青年の物語のようである。
読み応えは抜群だった。
僕が一番心を動かされるようなストーリーである。
しかしこれを、小学生低学年の女の子が読むには、少し難しいのではないかと思う。
少なくとも僕が小学生の頃には、この小説を読むことは難しかっただろうと思う。
そう考えれば、その女の子はかなり読書においてのセンスがあったのだろう。
そんなことを思いながら読み進めていった。
気がつけば三時間が経っていた。
時刻はもうそろそろ夕方に入ろうというところで、来客も自分とあと二人くらいになっていた。
そして遂に、女の子が読むことのできなかった、しおりの挟まれているページまで到達した。
声を出して読む際にも人が減っていなかったらどうしようと思ったが、このくらい人が少なければ、多少声を出して朗読しても、問題はなさそうだった。
僕は少しだけ覚悟を決める。
そして、挟まれているしおりを取って、声を出して読み上げる。
「哲太は一歩後退した。殺伐とした雰囲気が、猛烈なまでのスピードを抱えては、辺りに染み込むように充満していったからである。通常ならばこんなことは起きるはずがない。通常ならば、である。すなわち、この状況はもう、手遅れという程に、異常であったのだ。B29の飛行音は零戦のプロペラが回る音よりも一層の暴力性を携えては――――」
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