青い鳥を、いつか
下校しようと廊下を歩いていたら、角を曲がってきたクラスの男子たちが、私の腹にパンチを当ててきた。
あっ、と思ったがどうすることもできなかった。
鋭い痛みに一瞬息が止まり、咳き込む私の頭上で、「うっわー、トイレ触っちまったからまたトイレ行かねぇと」という下品な声と、忍び笑いが通り過ぎていく。
痛みと悔しさで、涙が出て来た。
何もできない自分が嫌いだ。
トイレだ、便所だと昔から馬鹿にされる、
それは、些細な違和感から始まった。
中学2年に進級し、新学期が始まった数日後、クラス中が急に私を無視し始めた。
原因が分からず、だが聞くのが怖くて誰とも話せないまま、時間だけが過ぎていった。
痛むお腹をさすりながら学校を出ると、まだ少し冷たい風が頬を刺した。
札幌の桜が咲くのは、まだ先になりそうだ。
憂鬱な気分で通学路を歩いていると、私はある事を思いついた。
私が暮らす児童養護施設と、中学校の間には、小さな公園がいくつかある。
その一つに、いつも佇んでいる男の子の幽霊がいた。
私の霊感で、幽霊と話す事はできるのか。
それができれば、死ぬってどんな感じなのか、聞けると思ったからだ。
何故そうしようと思ったかというと、『死』に興味があったからに他ならない。
その子は、冬先に着るようなダッフルコートを着ていた。
靴どころか靴下すら履いておらず、薄汚れたジーンズは膝に大きな穴が開いている。
そこから擦りむいた傷口が見えて、痛々しい。
普段は、私が見える人間であると、幽霊に気づかれないようにしていた。
視線を合わせたり、驚いてしまったら、向こうから寄ってきてしまう。
それはたいてい、とても怖い。
でもこの子なら、たとえ追いかけられたとしても、怖くなさそうだという、打算もあった。
私は、意識を男の子に集中した。
たとえて言うなら、ラジオのチャンネルを合わせるようなイメージだ。
ここだ、と分かるポイントがある。
男の子は、私の存在に気づいたようで、青白い顔をこちらに向けて来た。
「…お姉さん、だれ?」
か細く、たどたどしい声だった。
「私は弥生。中学2年生だよ。お名前なんていうの?」
男の子は、たくやと名乗った。
小学3年生だと教えてくれた。
「膝、痛くない?」
「うん。平気」
「そっか。すごく痛そうに見えてさ」
やっぱり怖くない。
私が笑って見せると、たくや君も困った顔から、少し笑顔になってくれた。
ベンチに座り、私はまず気になっていた事を聞く事にした。
「たくや君ってさ、もしかしていじめられてる?」
「……」
たくや君は答えなかったが、それが答えになっていた。
この子が気になっていた理由は、そこだった。
いつも俯き加減で暗い顔。何かに耐えるように引き結ばれた唇。
まるで、自分を見ているようだったからだ。
「私もそうなんだ」
「そうなの?」
たくや君は、驚いた顔で私を見てきた。
同病相憐れむ。そんな言葉が浮かんでくる。
同じ境遇だからこそ、何も語らずとも、感じ取れることがあるのだ。
「たくや君はさ、その…なんで死んじゃったの?」
「わかんない…覚えてないんだ」
怒るでも悲しむでもなく、たくや君はそう答えた。
こんな小さな子が自ら命を絶ったとは考えにくいけど、いじめにおいては、まさかというのもあり得る。
「お父さんやお母さんは?」
「お父さんは、どこかに行っちゃった。お母さんは、毎日神宮に通って、ぼくが帰ってくるようにお参りしているんだ」
神宮、とはこの地区の中にある北海道神宮の事だろう。
「帰ってくるように?じゃあ、お母さんはたくや君が死んだって知らないってこと?」
「そうなのかな…。ここにいるよって教えてあげたくて、お母さんにいっぱい話しかけたんだけど、気づいてくれなかったんだ」
お母さんに自分の死を伝えられない事。それが、この子の心残りのようだ。
「…私がお母さんに伝えようか?」
そうした方がいいような気がしたのだが、たくや君はかぶりを振った。
「やめた方がいいかな。お母さん、お腹に赤ちゃんがいるから」
それはそうだろう。強いショックを受けて、流産になってしまったら大変だ。
でもありがとう、とたくや君は初めてにっこりと笑ってくれた。
胸の奥がぽっと温まるような、可愛らしい笑顔だった。
「また来てもいい?」
「え?また来てくれるの?」
たくや君の顔がパッと輝く。
その日から、たくや君のところに通う日々が始まった。
登校時、たくや君が公園にいるのが見えたら、小さく手を振って、後でいくよと合図をする。
たくや君もそれに応えたら、約束成立だ。
学校では細かい嫌がらせや、クラス中からの無視は相変わらず続いていた。
でも放課後が楽しみで、どうにか耐える事ができていた。
私たちは、ベンチに座って色々な話をした。
印象的だったのは、たくや君が好きだった、漫画やアニメの話だ。
男の子らしく、冒険ものやバトルものが好きだったようで、いくつかは、クラスの男子たちが話題にしているタイトルもあった。
たくや君は、あらすじや登場人物の事を細かく覚えていた。来週、施設のテレビが見られたらチャンネルを合わせてみようかな、と思えるほど、話上手だった。
その時は、たくや君が幽霊だと忘れてしまう程、楽しかった。
私にはきょうだいがいないので、弟ができたようで嬉しかったのもある。
何より、学校で居場所がない事を、感じなくて済んだ。
だが施設には門限があるので、帰る時刻は必ずやってくる。
バイバイと手を振って別れた直後の、強い寂しさに、毎回押しつぶされそうになった。
それに、分からない事も残っていた。
たくや君は、どうして死んでしまったのか。
そこが分からないまま、日々は過ぎていった。
ゴールデンウィークが間近に迫ったある日。
私はいつものように、休み時間をトイレの個室で過ごしていた。
教室にいたって誰とも話せないし、嫌がらせを受ける可能性もあるのでそうしていた。
教室のすぐそばのトイレではなく、特別教室なんかが並んでいる場所の、あまり利用者が少ないところなので、静かだからだ。
すると外から、誰かが入ってきた。
数人の足音。
嫌な予感がした。
「おい御手洗!」
「出てこい!」
個室の戸が壊れそうなくらい、激しく揺れる。
その女子の声には聞き覚えがあった。同じクラスの、ギャル系女子の2人組だ。
出たくなかったが、出ないと後で何をされるか分からない。
恐る恐る鍵を開けると、外から戸を開けられ、腕を掴まれた私は、トイレの床にすごい力で引き倒された。
「私らが口紅つけてるって、担任にチクっただろ」
思いがけない言葉に、咄嗟に声が出なかった。
「……そっ、そんな事してません!」
「嘘つけ!こないだ私の方見ながら担任と話してただろうが!」
思い出した。
教室で先生に授業の事で質問をしていた時に、中年の男の人の幽霊が、彼女たちの後ろをついていくのが見えたのだ。
初めて見る幽霊で、その目つきがどこかいやらしかったので、大丈夫かなと思って、まじまじと見てしまったのだ。
「担任に呼び出されてマジうざかったわ」
「あとこれさ、色付きリップなんだよね。チクった上に嘘までついたわけ?」
沈黙を肯定だと思われてしまい、どうしようか必死に考えた。
だが、私の思考はもはや停止してしまっていた。
口紅のくだりは完全に濡れ衣だが、じろじろ見てしまったのは事実だからだ。
「ほら、謝罪は?」
「……」
「謝れっつてんだろオイ!」
個室の戸が思いきり蹴られる。
けたたましい音に、私の理性は飛んでしまった。
息を吸っても吸っても苦しい。
「…せ、先生に、言いつけてしまって…ごめんなさい」
次は私の番だ、という恐怖で、反射的に言葉が出てしまう。
「嘘ついた事はぁ?」
「う…嘘もつきました。ごめんなさい」
ここから逃れるには、そう言うしかなかった。
これで満足してください、と祈っていたら、遠くからチャイムの音が響いてきた。
「トイレの床に座っちゃって、ばっちぃ」
「名前がトイレだからいいんじゃね?」
キャハハハ、と甲高い声が去っていく。
二人がいなくなっても、私は息苦しさでしばらく動けずにいた。
ようやく落ち着いたら、代わりに涙が止まらなくなる。
なんでこんな事になったの?これからも続くの?
3年生になっても、高校生になっても……大人になってからも?
私…大人になんか、なれるの?
死にたい。死んで楽になりたい。
虚無感の中、初めてその言葉が、目の前に浮かんできた。
その後放課後までどうしていたのか、記憶にない。
私は気づいたら、あの公園の前に立っていた。
たくや君は、心配そうに出迎えてくれた。
「弥生ちゃん、どうしたの?」
「うん……」
「学校で何かあったの?」
「…ねぇ。たくや君が死んだ時の事、思い出せた?」
「…ごめん。まだわかんない」
「私ね、死にたいの。だから、死んだ時ってどうなるのか知りたいんだ。痛いのとか苦しいのとか、一瞬で終わるの?」
「……」
たくや君は、困った様子で俯いていた。
「毎日朝が来るのが嫌。今日は何されるんだろうって思ったら、しんどくて…」
言い始めたら、止まらくなった。
誰にも…仲のいい優子にさえ言ってない話を、たくや君にぶつけた。
「…たくや君が羨ましいよ。もう怖いものからも、痛くしてくるものからも、自由なんだよ?」
「そんな事言わないでよ!」
鋭く高い声に、私は我に返った。
たくや君は、私を睨みつけ、本気で怒っているようだった。
「ぼくはこんな風になりたくなかった!NARUTOの続き、どうなったのか見たかったし、大人になったら犬だって飼ってみたかった!弥生ちゃんは、何でもできるんだからいいじゃんか!」
今にも泣きそうな目に、この前試してみた事が思い出された。
たくや君の知らないアニメの続きがどうなったのか、私が放送を見て伝えてみたのだが、たくや君は、その記憶を留めておくことができなかったのだ。
そこから、幽霊は新しい記憶を作れない、というのが判明した。
たくや君は本当に残念そうに、うなだれていた。
「でも…それでも…辛いの!もう全部嫌!痛い目にも怖い目にも遭いたくない!死んでここからいなくなりたいの!」
私は、声を上げて泣いていた。
お父さんとお母さんに、無性に会いたかった。
頭頂部に冷気を感じて、私は顔を上げた。
たくや君が、私の頭を撫でてくれていた。
その顔は、とても悲しそうだ。
手の感触はないが、とても優しい感じがした。
「弥生ちゃんのお父さんとお母さんは、何で死んじゃったの?」
「…交通事故。私だけ助かっちゃった」
そうなんだ、とたくや君は言ったきり、黙ってしまった。
私たちはしばらくそうしていた。
そうしていると、少しずつ高ぶっていた気持ちが落ち着いてきて、涙はいつしか止まっていた。
「弥生ちゃん、ついてきてよ」
たくや君はにっこりして、ベンチから降りる。
公園を出て、私はたくや君の後ろをついて歩いた。
景色は街中から、徐々に緑が増えていき、やがて少し見晴らしのいい、小高い丘にたどり着く。
辺りを森に囲まれたその場所は、まだ風が冷たいが、雪はほどんど溶けていた。
遠くで鳥がさえずっている。
「こんな場所、学校の近くにあったんだね…知らなかった」
「いいでしょ。ぼくの秘密の場所なんだ」
湿った草のにおいを胸いっぱいに吸い込むと、気分が落ち着いた。
「…たくや君。ごめんね。私の方がお姉さんなのに、恥ずかしい」
「もういいよ」
それより、また会いに来てね、とたくや君は繰り返した。
次の日は日曜日で学校が休みだったので、私は公園に行かなかった。
その晩の事だった。
施設のデイルームでテレビを見ていたら、番組の合間のニュース番組が流れだした。
男児の遺体、という物騒な見出しに、何故か胸がざわついた。
私は思わず、テレビのボリュームを上げた。
映し出されたヘリコプターからの映像に、見覚えがあった。
小高い丘。緑が生い茂り、辺りが森で囲まれていて…。
血の気が引いていくのを感じた。
そこは、昨日たくや君に連れて行ってもらった、あの場所だ。
内容は、そこで男の子の遺体が発見された、というニュースだった。
遺体は死後数か月が経っており、身元はまだ分かっていないという。
たくや君の顔が浮かんできた。
あの公園に行きたかったが、夜間の外出はできない決まりだ。
もやもやした気持ちを抱えて、その晩はあまり眠れなかった。
翌日。
私はいつもより早めに施設を出た。
学校には向かわず、いつものあの公園に行く。
たくや君は、そこに佇んでいた。
だがその様子はいつもと違った。
いつもは、顔を合わせるとぱっと笑ってくれたのに、無表情のまま。
小さな違和感を抱えたまま、私はたくや君に話しかけた。
「その…一昨日連れて行ってくれた場所でね…」
「うん。分かってる…全部思い出したから」
顔を上げたたくや君と、かちりと視線が合う。
輝きが一切ない、底なしの穴のような目。
血が通っていないと分かる、真っ白な顔。
たくや君の目を通して、強烈な何かが私にぶつかってきた感じがした。
私は、どこかのアパートの部屋の映像を見ていた。
柄の悪そうな服を着た男の人が、たくや君を殴ったり蹴ったりしている。
お母さんらしい女の人は、止める事なくただ眺めているだけだ。
場面が変わると、お母さんはたくや君にたばこの火を押し付けていた。
それも、お尻や腿の付け根など、服で隠れる場所を狙って。
この世の、ありとあらゆる暴言が、たくや君に向けられていた。
その日、男の人からの暴力はいつになく激しく、執拗だった。
蹴られた拍子に転んで、あの膝の傷がついた。
すぐに立ち上がれない程の痛みで、たくや君は
異変は、就寝して数時間後に起きた。
冷汗が止まらず、お腹が強烈に痛い。
息が苦しい。
声が出せない。
そのまま布団の中で、たくや君は意識を失って。
「…ぼくは、そうやって死んだんだ」
私は立っていられず、地面に蹲った。
お腹が強烈に痛い。それに熱い。
息ができない。
このままたくや君のように、動けないまま死ぬんだと直感した。
「弥生ちゃん。まだ死にたいって思う?」
地面に倒れた私を見下ろすたくや君の顔は能面のようで、恐ろしかった。
その顔が、ふっと寂しげな笑みに変わる。
「…お母さんのところに行くね」
その言葉を合図にするかのように、たくや君の体は半透明になった。
「たく…や…くん…!」
そのか細い腕に手を伸ばすが、指は宙を搔くだけだった。
「バイバイ、弥生ちゃん」
たくや君は、空気に溶けるようにして、消えてしまった。
激しい痛みと苦しさの中、声にならない声をあげて、私は泣いた。
そのあと、しばらくの間の事は覚えていない。
公園に散歩に来た近所の人が、私を発見してくれたらしい。
私は呼吸困難に陥って、身体を痙攣させていたそうだ。
すぐ救急車が呼ばれ、気づいたら病院のベッドの上だった。
ぶら下がる点滴から、液体が落ちていくのを眺めているうちに、私は眠った。
やがて、暖かい闇の中を、ぷかぷか浮いている夢を見ていた。
ぬるま湯のような、おくるみのような、暖かいものの感触が心地よくて、久しぶりに安心して眠る事ができた。
目が覚めた時、それがなくなってしまったのがひどく悲しくて、涙が溢れて来た。
あんな夢を見たのは、後にも先にも、その時だけだった。
▲△▲
次のニュースです。
札幌市●●の山林で発見された男の子の遺体について、札幌市警察本部は、母親と交際相手の男を、殺人と死体遺棄の容疑で、本日未明に逮捕しました。
逮捕されたのは、札幌市〇〇のパート従業員、
2人は昨年11月に、同居していた石神井容疑者の息子、卓也君9歳に暴行を加えて死亡させ、遺体を遺棄した疑いがもたれています。
司法解剖の結果、卓也君の遺体には複数の暴行の痕跡がみられ、直接の死因は、腹部を強く圧迫された事による、内臓破裂と判明しました。
札幌市警は、日常的に虐待が行われていたとみて、捜査を進めています。
警察の調べに対し、××容疑者は、「覚えていません」と容疑を否認しています。
一方石神井容疑者は、「息子は無事に帰ってきた、私は死なせていない」と、同じく容疑を否認しています。
なお石神井容疑者は現在妊娠7か月で、札幌市警は、責任能力の有無も含めて、慎重に捜査を進めるとしています。
▲△▲
龍宮神社。
小樽三大例大祭の一つが開催される、割と有名な神社だ。
お賽銭を投げ、二礼二拍手一礼をし、手を合わせる。
小樽市オタモイ〇丁目の、御手洗弥生と申します。
今日まで無事に生きてこられた事に、感謝いたします。
どうか、私の友達のたくや君が、安らかでありますように。
神様へのお祈りの後は、たくや君への報告タイムだ。
たくや君、元気?
たくや君が好きだったNARUTOの原作、とうとう完結したよ。
一緒に追っかけてみたかったな。感想言い合ったりしてさ。
そうそう、アニメと原作で終わり方が違うんだよ。
ちょっとびっくりしちゃった。
踵を返すと、いつも間にか後ろにいた老夫婦が、不思議そうに私を見ていた。
ドキッとして、足早に社殿を後にする。
この女どれだけ願い事するんだ、と思われたようで、少し恥ずかしい。
たくや君と出会った季節が来るたび、神社を参拝するのが、私の習慣になっていた。
神社の神様に、故人の冥福を祈願してもいいものなのかは分からないが、あの子の眠るお寺を、私は知らない。
カラカラと乾いた音がする方を見ると、たくさんの絵馬が、温かい風に揺れている。
私はまた、当時を思い出していた。
体調が回復してから、私はたくや君のお母さんが訪れていたという、北海道神宮に行ってみた。
私には何もできない。でも、あの子が安らかでいてくれるように、何かに祈りたかったのだ。
参拝を終えると、すれ違った参拝客の会話が耳に入ってきた。
「行方不明の息子が帰ってくるように、って毎日参拝してたんだって」
「それで自分の子供死なせていたなんて、怖いよねぇ」
センセーショナルだったあのニュースは、その時期少しだけ話題になっていた。
たくや君はいじめられていたんじゃない。虐待されていた。
そんな子に、私はなんてことを言ってしまったんだ。
死にたいと言った私の言葉を、たくや君はどんな思いで聞いていたんだろう。
たくや君に会えるとは思っていなかった。
ただもし会えたら、無神経で甘ったれた事を言ってしまった事を、謝りたかった。
漂うようにして境内を歩いていると、大量の絵馬が括られた一角が見えた。
形の様々な絵馬に、黒いペンで多くの願い事が書かれている。
近づいてみると、真新しい絵馬に混じって、薄汚れた一枚の絵馬が風に揺れている。
表地は、その年の干支があしらわれた、ありふれたデザインだ。
何となく気になって、私は裏をめくった。
『卓也が帰ってきて、また無事に生まれてきますように 石神井莉奈』
絵馬に触れた指先から、一気に鳥肌が広がって、私は後ずさった。
春の麗らかな日差しを浴びているのに、何故か肌寒い。
今見たものを反芻する。
ニュースのテロップで見た、珍しい苗字。
間違いない。たくや君のお母さんだ。
それに、絵馬に書かれた、あの願い事。
たくや君の魂が帰ってきて、それがお腹の子に宿ったら、またたくやとして生まれてきますように、って事だ…。
たくや君は、お母さんのところに行く、と言っていた。
あの日、病院で見た夢を思い出す。
まるで、生まれる前にいた場所…お母さんのお腹の中へ帰れたような、奇妙な安心感。
あれは、たくや君が見ていた光景なのではなかったのか。
それは、お母さんが望んだから?
それとも…たくや君が望んだから?
辺りの木々が、私を追い立てるように、ざわざわと揺れる。
私は恐ろしくなって、その場から逃げ出したのだった。
数年間は、この出来事を思い出さないようにしていた。
だけど。
やはり私は、たくや君の事を忘れられなかった。
単なる怖い記憶だと、片づけられなかった。
何故なら、私は自死を思いとどまる事ができたからだ。
教室に行くのが怖くて、保健室登校が多くなってしまったが、何とか中学校は卒業できた。
親友の優子に打ち明けて、相談に乗ってもらえた事も大きい。
『弥生ちゃんは、何でもできるんだからいいじゃんか!』
あの時のたくや君の表情が、声が、ふとした時に蘇る。
そのたびに、申し訳ない気持ちが湧いてきて、でも生きなきゃと思えて、今日を迎えられた。
帰りのバスの車内でイヤフォンをつけると、音楽を再生する。
曲が始まった瞬間カットインする、丸みのある伸びやかな、女性ボーカルの声。
歌いだしの歌詞がタイトルになっている、アニメ版NARUTOの3代目オープニング曲だ。
たくや君の代わりにアニメを見て、たまに続きを教えてあげようと思ったのがきっかけだった。毎週欠かさず見れたわけではなかったが、魅力を知るには十分で、私はすっかり作品の虜になってしまった。
この曲は、私の人生の応援歌でもある。
迷いを抱えたままでもいい。
堂々と、自分らしく歩いていこう、と呼びかける歌詞も、メロディも、全部好きだ。
大人になればなるほど、歌詞の持つ意味の深さが、身に沁みてくる。
私は、22歳になっていた。
いつかきっと、と足掻きながら、
もしかしたらこれから先、また死の誘惑に負けそうになるかもしれない。
だが全部、生きているから感じられるのだ。
春の風が気持ちいい事。
こうして好きな音楽を聴いていられる事。
ご飯が美味しい事。
これを幸せだと思える事。
気づくきっかけをくれたのは、間違いなくたくや君だ。
あの子こそが、私の肩に止まってくれた、青い鳥なのかもしれない。
今は、そう思う事ができるようになった。
桜が咲く直前の、三寒四温のこの季節。
大事な友達と過ごした、忘れられない思い出だ。
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