ティータイム
望月ひなた
春の夜のエンタングルメント(改題:優しい生き霊)
北の大地の春は、とても短い。
桜が散ったと思ったら、もう夏の扉が開き始める。
ようやく花粉と黄砂が落ち着くので、鼻炎持ちのオレには、過ごしやすいシーズンの到来である。
地下鉄駅から地上に出るエレベーターを降りると、すれ違いざまに女性二人の会話が聞こえて来た。
「ねぇ、さっきの人見た?」
「見た!」
「めっちゃイケメンじゃない?」
「ねー!眼鏡ヤバかったね」
聞こえたのはそこまでだったが、その話に、待ち合わせをしているあいつの顔が浮かぶ。
ひょっとして、もう着いているのか?
目的の店は、地下鉄駅を出てすぐとの事だったが…あった。
そして案の定、目当ての人物…イケメン眼鏡が、そこにいた。
そいつは、オレの気配を察知したかのようなタイミングで、スマートフォンから視線をずらしてこちらを見てきた。相変わらず、鋭い勘だ。
よっ、と声をかけると、そいつは小さく笑って応える。
「何年ぶり?二年ぐらいか?」
一年半だ、と言うなり、そいつはオレの腰まわりをまじまじと見てくる。
「
「うるせぇな。食べるのだって仕事のうちだろうがよ」
辛辣な物言いも、相変わらずだ。
挨拶もそこそこに、オレ達は店に入った。
こいつの名は、土門博臣。オレの友人だ。
オレ同様にパティシエとして働きながら、一方で陰陽師を名乗ったり占い師を名乗ったり…一言で言うなら、霊能力者稼業をやっているという、意味不明な奴である。
個室にオレ達を案内してくれた女性スタッフが、オーダーの合間にちらちらと博臣を見ている。
気になるのだろう。そりゃそうだろな。
一度でいいから、こういう目で見られたいものだ。
オレが見られる場合はいつも、こいつの腹すげぇなという奇異の視線になる。
神様は不公平だ。
「飲み放題プラン90分で…とりあえずビール」
「…この日本酒を、冷やで」
ご尊顔と魅惑ボイスを堪能できたからか、女性スタッフは夢見心地な顔で、個室の扉を閉めていた。
「お前まだビール飲めないのか?」
「馬鹿にするな。とっくに飲める。好きじゃないから選ばないだけだ」
思いきり睨まれるが、博臣は常にこんな感じだ。
博臣と知り合ったのは、製菓専門学校の学生だった時だ。
なので、かれこれ7年になる。
卒業後、オレは道内の製菓会社に就職したが、博臣は何故か、遠く離れた高知県のシティホテルのレストラン部門を選んだ。
しかも新卒のくせに、現地のハローワークに自ら出向いて見つけたというのだから、何がしたいのか、謎は深まるばかりだった。
ともかく、そうやってオレ達の道は分かたれたが、年1くらいは会い続けていた。
こうして札幌市内で会うのは、学生時代以来なので、何だか懐かしい。
同棲している恋人には、今日は職場の飲み会だと伝えてある。
相手が男友達とはいえ、さし飲みしたとばれたら、絶対に修羅場になるからだ。
酒と料理を楽しみながら、しばらくは近況報告になった。
オレは、電話でも軽く聞いていた話題を振ってみた。
「それにしても、本気で店を出すなんてな。驚いたよ」
「まぁ、あと2年はかかるだろうけどな。雇われて働くのは、今の場所で最後にしようと思ってる」
数か月前に札幌に戻った博臣は、郊外の南区にあるフレンチレストランで、デザートを作っているそうだ。
店のオーナーも、博臣が独立を目指している事情を汲んでくれているらしく、目途が立つまでの間だけでもいいから、と言ってくれているらしい。
「お前こそ、最近はどうなんだ?さっきから俺しか話していないぞ」
「オレは何も変わってないよ。相変わらず、雇われパティシエだ」
オレの勤め先は、北海道では有名な製菓会社だ。
主に小袋に入った焼き菓子や、北海道産小豆を使ったあんこのどら焼きなんかが売れ筋だが、ケーキも密かに人気だ。
そこの路面店でケーキを作り続け、五年が経った。
それなりに楽しいし、やりがいも感じている。
「なぁ。お前が今まで見てきた中で、一番怖かった幽霊って何なんだ?」
何故かそんな問いが、口を継いで出て来た。
冷奴をつついていた、博臣の箸が止まる。
「…珍しいな。そんな事聞いてくるなんて」
怪訝そうな顔の博臣は、そちらの仕事の事をあまり話さない。
話さないから、オレも聞かない。
だが、生易しい世界でない事は、年々鋭くなってきている眼光で分かる。
人間の生き死にに接してきたパティシエなど、きっと日本でこいつだけに違いない。
何となく出て来た疑問に、博臣は真面目な顔をして考えこんでいた。
「幽霊は別に怖くない。一番怖いのは、神といわれる連中だな」
意外な回答に、オレの好奇心がくすぐられる。
「神社とかにいる神様か?」
「神社に祀られているのは、アバターに過ぎない。神はそこら中にいるぞ」
自然崇拝、アニミズム。
そんな単語が浮かんできた。
怪談、都市伝説、民俗学や伝承。
それらの話を理解するにあたり、学生時代に博臣から聞いた、陰陽道の基礎知識が多いに役立ったのは、言うまでもない。
「古くは遠野物語、最近だと怪談や都市伝説になるのか?説明のつかないものと遭遇してしまった人間の末路は、何となく想像つくだろ?」
「なるほどな」
友人がそんな稼業をしているせいか、元々無関心ではなかったオカルトの世界を、オレも少しずつ知るようになった。
「お前は会った事あるのか?」
博臣は笑って何も言わなかったが、それ以上の答えもないだろう。
あまり、触れてほしくはないようだ。
「幽霊に限って言うなら、結局生きている人間の念や思いが、一番強くて厄介で、面倒くさい。そういう意味では、怖いかもな」
普通すぎてガッカリしたか?と笑われる。
よほど拍子抜けした顔をしていたようだ。
「誰かと誰かが影響し合う。その時行き交う思いこそが『生き霊』だと、俺は考えている」
それでいくと、今こうしているオレ達の頭上だけではなく、人間が暮らす全ての場所で、生き霊が飛び交っている事になる。
想像すると、確かに少し怖い。
「でもさ、生き霊を飛ばす、って言うだろ?オレはそんな自覚ないぞ?」
そう言った途端、博臣は少し目を細めた。
遠くを見る時にやるようなしぐさだ。
みぞおちの辺りが、何だかムズムズしてくる。
「良人、今日はどうして俺から誘ったと思う?」
「え?」
そういえば、いつも会うのを誘うのはオレだ。
なのに今日は、博臣の方から誘って来たのだ。
「あのまま会う約束をせずに電話を切ったら、もうお前と会えなくなるような気がしたからなんだ」
予想外の投球を、キャッチしきれなかった。
どうしてこいつは、そんな事を言うんだ?と、一瞬分からなくなる。
「いや、的外れだったらいいんだ。忘れてくれ」
「……」
もう会えないかもしれない。
取り繕う博臣をよそに、軽く背筋が凍る。
心当たりが、あったからだ。
電話で博臣から、もう少しで店を持てそうだ、と聞いた瞬間、すごいな、頑張れよという言葉が素直に出て来た。
そう思っていた。
だが、内心は少し違った。
水の中に垂らした墨汁が広がっていくような、薄ら暗い感情が湧いていた。
あぁ、オレは博臣に嫉妬したんだ。
電話を切った後それに気づいて、オレは一人で落ち込んだ。
決められたものをただ作るのではなく、自由な発想でケーキを作る。
それを食べた人を笑顔に。
製菓だけではなく、食品に携わる全ての人間が、大なり小なり考えているだろう。
そして、それを自分で好きに出来たら、どれだけ楽しいだろうか、とも。
実際に博臣と、学生時代に何度もそんな話をした。
博臣はその頃から、三十歳を迎えるまでには店を持ちたい、と公言していた。
それを否定した事はない。
だが一方で、そんな途方もない夢…と、冷めた事も考えていた。
あいつが本当に夢を叶えたら、オレは以前のように顔を合わせられるだろうか。
自己嫌悪と気恥ずかしさに、耐えられるだろうか。
博臣は、なんとも言えない表情をしている。
オレは腹を括った。
自分ですら気づくのに時間がかかった心情を、こいつはオレより先に察知したのだ。
腹の探り合いをしたって、意味がない。
「…オレは、夢を追って旅人みたいな生き方をしているお前が、羨ましかったんだ。実現できるかどうか分からなかった夢に、本当に手が届きそうだと聞いて、正直嫉妬しちまった」
博臣はポーカーフェイスを崩さない。
その目つきがわずかに鋭くなり、思わずたじろぎそうになってしまう。
「日々に追われて何もしてこなかったのに、努力してきたお前に嫉妬するなんて、お門違いだけどよ。勘のいいお前に気づかれるんじゃないかって、少し怖かった。まぁ、実際気づいてたようだけどな」
ここにきて初めて、博臣は表情を微かに変えた。
はっとしたような、傷ついたような顔に見えて、オレは慌ててしまった。
「いや、違うんだ!お前が怖いんじゃなくて…自分のドロドロした心を、見たくなかっただけなんだと思う」
悪かったよ、と言ったきり、沈黙が降りて来た。
別の個室で、サプライズか何かをやっているのか、陽気なハッピーバースデーの歌が響いている。
「なぁ博臣。オレはどうしたらいい?このまでいいと思うか?」
仕事があり、帰る家があり、恋人もいて。
不満はない。
だが、何故心は、不自由さを感じているのだろう。
「たまにさ、本当にこれでいいのか。もっと他に進むべき道があるんじゃないかって、考えちまうんだ」
博臣は何も言わず、空の猪口を指先でいじっていた。
待つ事しかできずに、オレもそれを見守っていた。
「…嫌味だと、捉えないでほしいんだがな」
とん、と猪口がテーブルに置かれた。
「良人。お前が負い目を感じる事はない」
淀みなく、力の籠った声。まさに、竹を割ったようだ。
「五年社会人をやってみて、集団生活にも多少慣れて来たと思っている。だがやっぱり、根本は苦手なままだ」
「……」
「お前は俺と違って、組織の中でしっかりやっている。俺からしたら、すごい事だよ」
ふと、出会った頃の博臣を思い出す。
朝の挨拶はするものの、誰とも雑談はせず、話していると思えば相手は講師ばかり。
会話の中身はもちろん、授業や実習に関する質問だ。
『俺は製菓の知識と技術を学びに来たのであって、友達作りに来たんじゃない』
試しに話しかけてみたら、ばっさりとそう言い切った。
まぁその一言が、こいつどんな奴なんだろうと、より興味を持ったきっかけでもあるのだが。
「お前、和菓子と洋菓子を上手く掛け合わせていくの、得意だったじゃないか」
思いがけない言葉に、現実に引き戻された。
「あ?あぁ…クリチーわらび餅とか、コーヒーきんつばとか、ネタで作ったよな」
「ネタなもんか。学生カフェでも、お前の考えた和洋折衷のメニューが、一番早く完売していたんだぞ」
そういえばそんな事もあったと、その時の誇らしい気持ちとともに、記憶の蓋が開く。
「それに、お前の交友関係を見ていても、色んなタイプの人間が混在している。全然タイプの違う人間同士を、お前はよく引き合わせていたよな」
「まぁ…そうしたらお互い面白いかもと思ったからな」
その発想だ、と博臣は頷く。
「異分子同士を繋ぐ、という発想ができるのが、お前の強みだと思うぞ」
「…そうかもしれないけどよ、何だかピンと来ないぞ」
「お前にしたら、呼吸するみたいに造作もない事なんだろうな」
ここまで言われてようやく、博臣がオレを励まそうとしてくれていると気づく。
「もしかして、今の占ってくれたのか?」
さぁな、と博臣は酒…ではなくて、お冷やの入ったグラスをあおった。
「どうするかは、お前次第だ。だけどその特性は、間違いなくお前の武器だよ」
オレと同じ世界に身を置きながら、オレとは全く違う世界を見つめている。
それが博臣だ。
嫌味だなんて、思うものか。
くさくさした気分が消えると、何故だか笑いが込み上げてきた。
「…何だよ、今の笑いは」
「別に。お得意の察知能力で当ててみやがれってんだ」
オレはそう言いながら、呼び出しのベルを押した。
博臣見たさにすっ飛んできた女性スタッフに、博臣と同じ冷や酒を二本と、追加の猪口を頼む。
「良人、日本酒飲めるのか?苦手だって言ってただろ」
「日本人なんだから、米の酒は体に合うはず、って思って飲んでたら、いつの間にかな」
何だよそれ、と博臣はようやく笑った。
「…変わったけど、変わらないな、良人は」
運ばれてきた徳利から、博臣の猪口に酒を注ぐ。
お前だってそうだろ、と思いを込めて。
そういう生き霊だったら飛んでいってほしいし、こちらにも来てほしい。
博臣もそう思ったのかどうかは分からないが、同じようにオレの猪口に注いでくれた。
「おめでとう!頑張れよ!」
今度は心から、何の引っ掛かりもなく言えた。
「話聞いてなかったのか?あと2年はかかるって言っただろうが」
「いいじゃねぇか。
ほれ、と猪口を顔の辺りに掲げて見せる。
博臣も苦笑いしながら、自分の猪口を掲げた。
「お、そうだ。もっと陰陽師の仕事の話してくれよ」
「はぁ?この流れでか?」
「
陰陽師と言えば式神。
着物姿のはんなり美人が、博臣のパートナーだ。
彼女にも会いたかったが、今日は留守番のようで、少し残念だ。
「音羽はポケモンじゃないんだぞ?そんな派手な話なんかない」
「とか言っちゃって、あるんだろ?1つぐらいは」
「…まぁ、無いこともないが」
乗せられて悔しそうに、だが少し嬉しそうに、博臣は語り始めた。
こいつとは何度も飲んだが、こんなに緩んでいるのを見るのは、初めてだ。
先ほどの張り詰めた感じは、もうどこにもない。
知り合った頃と比べたら、少し丸くなったかもな。
博臣の話を聞いているうちに、飲み放題の残り時間は、あっという間に過ぎていった。
会計を済ませて店を出ると、冷気を帯びていない夜風が、優しく吹き抜ける。
「このまま北二十四条あたりで飲みなおすか?」
「明日も仕事だ。やめておくよ」
「ま、それもそうだな」
オレ達は、全方向の地下鉄路線にアクセスできる、大通駅に向かって歩いた。
「それに、そんな調子に乗ったら、お前が彼女に疑われて、後々面倒だろ?」
「え?」
本日2度目の、どうしてこいつは、そんな事を言うんだ?である。
もちろん博臣に、彼女の事は話していない。
「さっきから言おうかどうか悩んだが、お前だから言わせてもらうな」
博臣の視線が、さっきからオレの背後に注がれているのが、不安を誘う。
「…その女は手ごわいぞ?お前に変な虫がつかないかと、常にお前の首の後ろで、睨みを利かせている。よほど好かれているんだな」
博臣はどこか、サディスティックな笑みを浮かべている。
「それって、彼女の生き霊がオレに憑いているって事か!?」
思わず背後を振り返るが、そこには何の因果か、弁護士事務所の広告があるだけだった。
博臣は、そういう冗談は絶対に言わない。
長い付き合いの中で、それは身に沁みて分かっている。
もうどうにでもなれだ。
オレは彼女の事を包み隠さず、ありのまま博臣に話した。
話しながら改札口の前まで来てしまったが、博臣はそのまま聞いてくれた。
「…てな訳で、かなり束縛の激しい子でよ。正直息が詰まる」
「そんな事だろうと思ったよ。まぁ、落とし前は自分でつける事だな」
「お祓いとか、してくれねぇの?」
落とし前を自分でつけるなど当たり前だ。欲しいのはプロの対応である。
だが、馬鹿かお前は、と冷たく一蹴された。
「順番が逆だ。別れた後もなお、体調悪いとか運が悪いとか、お前が実害を感じて、初めて俺の出番が来る」
彼女との修羅場を想像して、頭を抱えたくなる。
これは絶対、後に実害が出るコースだ。
「まぁ必要なら対応してやる。友人価格でな」
せいぜい頑張れよー、と軽く言って、博臣は改札の向こう側に消えていった。
生き霊は強くて厄介で面倒、という先ほどの話が活きている。
なんという見事な伏線回収。
博臣からもらった、フレンチレストランのショップカードを、ポケットから出す。
博臣のやつ、オレが会いに来ると見越しているに違いない。
そんな顔をしていた。
畜生。最後の最後にしてやられた気分だ。
だがそう遠くないうちに、藁にもすがる思いでここへ向かう自分の姿が、はっきりとイメージできたのもまた、事実だった。
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