泣いた夜の話

 薄い青色のパーカーがまるで背もたれに寄りかかって背筋を伸ばしているみたいにかかってたんだ。フードのなかにはヘッドフォンが入ってた。椅子には茶色のカーゴパンツが垂れ下がっていて、足元にボクが履いてたのと揃いのスリッパ。靴下がねじ込まれてた。


 床に、ちょうど垂れ下がるパーカーの袖の真下に、真鍮色の指輪が転がってた。

 いま思い出しても、ダメだ。


 ボクは呼吸が浅くなっていく。息がうまく吸えなくなるんだよ。もう、あのときの衝撃がまったくおなじようにぶりかえしてきて、思い出すだけでも苦しくなってくるんだ。


 ボクは。

 ボクはそのとき、こう思ったんだ。

 死んだら消えちゃうんだ。

 跡形もなく、髪の毛一本残さず、血の一滴すら許さず、存在そのものが消えちゃうんだ。


 それまでボクはその可能性から目を背けてきた。外の瓦礫はとんでもない災害を示しているのに、都合よく生き物だけが消えてしまうんだと思ってきた。そうでなければ、生き物を除いた構造物だけが現れてるんだと、そう思ってきた。


 でも、もっと簡単に、もっと完璧に説明できたんだ。

 この世界で死んでしまえば、その場で消える。服だけパサッとその場に落ちて、あとはなんもなかったように。


 心臓が痛かった。ボクは胸ポケットの袋を服のうえから握りしめて、ゆっくり、転ばないように机まで歩いていった。垂れ下がるパーカーのフードのなかからヘッドフォンをだして、耳をちかづけたんだ。声がしたよ。お姉さんの声だ。


『――ところでキミは、海にかかる橋を見たことはある? 長い長ーい橋なんだけど……』


 そう。ほんのすこし前に聞いたフレーズだった。

 ボクは泣いた。大声で泣いた。


 ボクは罠にかかったんだ。ボクがこの世界に放り出されたその瞬間から、息がかかるくらいの距離を保ってずっとうしろについてきていた、死と孤独がしかけた狡猾な罠にかかった。


 もしひとりだったら、苦しくても耐えられたと思う。

 もし知らなければ、つらくても声をあげずにいられたと思う。


 でも、もうダメだった。


 無線機を叩き壊してやろうと思った。でも足に力が入らなくなっていて、ボクは机に捕まり立つことすらできなかった。涙が溢れてきて止まらなかった。声は一瞬で潰れてしまって、喉や胸が張り裂けそうなくらい傷んで、ボクは肌が裂けるくらい強く手を握りしめて、思い切り床を叩いた。痛みなんか感じなかった。鼻水を垂らして、躰を支える力もなくなって、床に寝っ転がって首だけをなんとか動かしてさ。椅子に残ってたパーカーに聞いたよ。


「なんでさ? どうして?」


 返事なんてない。あるわけない。そこには誰もいないんだから。

 でも、聞かずにいられなかったんだ。


「なんで? 返事をしてくれたのに、声を聞けたからここまできたのに。やっと会えると思ったのに。もう寂しくないって思ったのに」


 なんで先に死んじゃうのさ。

 最後の最後はもう、声をだす気力も残ってなかった。


「もう、嫌だ」


 それがボクの最後の言葉さ。

 そうなるはずだった。


 ボクは腰を探った。拳銃を取るためにね。でも何度も床を叩いたから感覚がおかしくなっていたんだ。ボクの手は、上着のポケットのうえから銀座カリーパンに触れたんだ。


 どうでもいい。もう終わったんだ。

 そう思っていたのに。


 ――ふふ。笑うよ。


 ボクのお腹が鳴ったんだ。

 ボクは笑った。声は出なかったけどね。


 キミも覚えておくといいよ。

 人間は絶望の底でもお腹を鳴らす。

 普通は死ぬ前にはお腹のなかを空っぽにするっていうけどね。どうせ跡形もなく消えるんだから気にすることはない。ボクを置いて先に逝ってしまったお姉さんが悪い。


 ボクは銀座カリーパンの袋をあけてかぶりついた。そんなときでも美味しかったよ。


 それからボクは、銃口を咥えて引き金を引いた。

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