お姉さんの部屋の話

 聞こえてないのか、寝てるのか、はたまた外出中なのか。


 次にボクはドアを叩いた。軽く叩いたつもりが、ガーン! って響いて、ボクは思わず首をすぼめた。あんまり上品な話じゃないけど、おしっこ漏らすかと思った。


 ボクはあらためて優しく叩いて、声を大きくした。


「こんばんはー! あのー……!」


 なんていおうかなにも考えてなかった。あんなに練習してきたのに、いざ話そうとするとボクの暮らしてた世界の言葉しか頭に浮かばないんだ。


 でも、お姉さんが無線機の向こうで話していたのは日本語だからね。ボクは足りない頭をフル回転して言葉を選んだよ。


「こんばんはー!? あの、ぎ、銀座カリーパン持ってきたました!」


 まるで宅配便だよ。いま思い出しても笑える。

 返事はなかった。不安になった。寝ちゃってるにしても、ノックを二回も三回もしたわけだから起きてなくちゃおかしい。


 ああ、まぁ、ボクならって話だけどね。でも外はすごく静かだからさ。


 ボクは本気で朝まで待とうか悩んで、けっきょくドアのレバーに手をかけてみたんだ。ドアを引いてみると、ガン! ってなにかに引っかかって、驚いたボクは手を離しちゃってね。


 ドア枠にぶつかった反動で、ドアがゆっくり奥に向かって開いた。部屋の光が漏れてきて廊下が急に明るくなったよ。


 白色光で、ずっと薄暗かったからすごく明るく感じた。目に痛みを覚えるくらいにね。


 ボクは首を入れて、部屋の奥に呼びかけてみたんだ。


「すいませーん。こんばんはー?」


 すごくシンプルな玄関だった。ボクの家とはちがって、扉の奥のところに泥落とし用のマットがあって、その横に靴棚が置いてあった。ボクのと似た赤い安全ブーツが一足に、白いスニーカーが一足。部屋のほうに向かって猫の手の形をしたふわふわのスリッパ。茶色のね。


「おじゃましまーすよー……?」


 ボクは呼びかけながら部屋に入った。靴は泥落としのマットのところで脱いで、まるでボクのために用意されてたみたいなスリッパに足を入れた。手が込んでて、裏側に黒っぽい肉球の絵が描いてあった。これを手に入れて並べておいたお姉さんは、きっとボクが思ってるよりずっと面白い性格をしてるのかもしれない。


 そんなふうに思って、あまり大きな物音を立てないように、それこそ猫になったみたいに廊下を進んで、扉を開けて、ボクは息を飲み込んだ。


 まるでボクの家みたいなリビングだった。正確には、この世界に来てから一ヶ月が経ったあとのボクの家みたいなね。リビングとダイニングが一緒になってて、キッチンの奥に見えるテーブルに本や雑誌なんかがたくさん積んであった。ぜんぶ日本語と英語と、アルファベットによく似た別の国の文字で書かれてたよ。


 壁には大きな手書きの地図が貼ってあった。地図といってもボクが作っていたのとおなじような、座標を書きこんでマーカーを貼っただけの、なにも知らない人が見てもなにがなんだかわからないやつ。地図の右上には何日か前の日付があった。


 部屋の奥はバルコニーになってるみたいで、大きなカーテンが閉じられてた。ボクは部屋の主に挨拶するのも忘れてカーテンを薄く開いてみたよ。外は海になってた。そのときは出てみなかったけど、バルコニーに出て端っこまで寄ると海にかかる橋が見えるんだ。天気がいい日の夜なら月明かりで少しくらいは見えると思う。


 それから、エアコン用の通気口をつかって黄色の太いケーブルを引き込んでた。実は屋上にソーラーパネルをずらっと並べて発電してたんだ。まぁ知るのはもう少しあとだけど。


 とにかく。

 リビングダイニングにいないなら、木の扉の向こうにお姉さんはいる。ほぼまちがいなく。


 もしいなかったら、この部屋で待たせてもらう。寝てたら……起きるのを待つ?

 あの光景を思い出そうとすると、いまでもあのときとおなじように緊張してくる。


 ボクは自分の躰を見下ろして、服装を整えた、泥で汚れてはいたけど乱れてはいない。深呼吸して、帽子を被り直して、部屋のなかでは脱ぐんだったって慌てて手に取って。


 緊張したよ。

 ノックして呼びかけた。


「こんばんはー……? お邪魔してまーす……?」


 返事はなかった。ボクは思い切ってドアノブをさげた。


「失礼しまーす」


 ……発音はあってるかな? ちょっと不安だよ。けっこううまく喋れてると思うんだけど。


 ボクは扉を押し開けた。部屋は明るかった。ベッドがあったよ。薄青のシングルベッド。誰も寝ていなかった。足元にはテレビ。古いデッキ付きのね。それから、机。


 小さな机のうえに、大きな無線機が置いてあった。コードは窓の外に伸びていてバルコニーの手すりにつけたアンテナにつながってるんだ。


 ボクは持ってた帽子を落としちゃったよ。

 部屋には誰もいなかったんだ。


 人の匂いが残ってた。本当につい最近までそこに人がいたみたいに。記憶の片隅のどこかに引っかかってる懐かしい残り香。ママの匂いにちかいかもしれない。家の匂いさ。


 それから、人がそこにいたっていう気配が、ボクの胸を締めつけてきた。


 無線機の前にはスタンドマイクがあって、その隣に銀座カリーパンが置いてあった。中身が入ったまんまの銀座カリーパンだ。それから、マイクの右手側には拳銃があった。鈍色に光るリボルバーだ。


 それから――それから、椅子に、服がかけてあった。

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