お姉さんのアパートの話

 なんていうか、すごくかたい印象を受けるアパートだった。灰色の鉄筋コンクリートで作られてて、打ちっぱなしっていうのかな? 塗装もなにもされてないんだ。


 明かりがついていたのは四階で、ボクは呼びかけるかどうか迷った。でも外から呼びかけたら警戒されるかなって思いもしたし、どうせならびっくりさせたいなって。


 サプライズだよ。


 バカみたいに思えるかもしれないけどさ。少しでも楽しい出会いにしたかったんだ。ラジオみたいなお姉さんの話からすると、きっとお姉さんもこの世界にきてからいままで誰にも会ったことがないみたいだし、外から呼びかけてもじゅうぶんサプライズになるはずだったんだけどね。


 ボクはエントランスに入ったところで首を捻った。この世界だとたいていアパートの入り口ちかくに郵便受けが並んでいるんだけど、それがずいぶんちっぽけだったんだ。もちろん、背が高いだけで大きなアパートではなかったから、部屋数が少ないだけなんだけどね。


 でも不思議だった。

 どこにも名前がなくて、部屋の番号だけだったからね。ボクがそれまでに見た限りではどこも名前が書いてあったから。


 それにもうひとつ困ったことがあった。

 郵便受けの先にガラスのドアがあるんだけど、どうみても鍵を回して開けるか、インターフォンを鳴らして開けてもらうタイプだったんだよね。


 そう。サプライズは失敗。鳴らして開けてもらうしかない。でもどの部屋かはわからない。


 ボクは少しがっかりしながらボタンを押した。部屋番号をひとつずつ入力していこうと思ってね。困ったよ。なんの反応もないんだ。電気がきてない。


 何回も押したけどダメだし、もうそうするよりほかにないから、ボクはしかたなく外に出て窓に向かって呼びかけた。


「こんにちはー!」


 声がひっくり返って顔が熱くなった。咳払いして、もう一回。


「こんにちはー! 聞こえますかー!? 開けてくださーい!」


 返事はなかった。出かけてるのかなって思った。それか、ボクもそうしてたみたいに窓を閉め切って音楽をかけてるとかね。ラジオみたいに喋り続けてるとかかもしれない。


 ボクはエントランスに戻って考えた。


 ドアのガラスを割って入るのは論外だ。完全に侵入者になっちゃうからね。じゃあ帰ってくるのを待つとか? 外に出てないかもしれない。じゃあ逆に出てくるのを待つ? ここで座って? もうじきに夜になる。ってことは、お姉さんは出てこないはずだ。


「大丈夫。毛布ならあるし。ね?」


 ボクはポケットに手を入れて銀座カリーパンの感触を確かめた。金鶏に尋ねたつもりだったんだけど、ドアにはめこられたガラスに薄ぼんやりと映るボクが口を開いたんだ。


「引いてみなよ」


 なにを? 思ったよ。っていうか、ボクはキミに聞いてないんだけどって。

 でもガラスに映るボクはドアの取手に手を伸ばしてた。つまり、ボクが掴んだんだ。引っかかったら諦めればいい。大丈夫。時間はあるよ。


 力を込めるとドアは手前に開いて、ガラスに写っていたボクの姿は暗闇に消えた。よく見てみると、ドアの鍵のところにおなじ色のメタルテープが貼ってあって、ガラスの扉は閉まらないようになってたんだ。盲点だね。鍵がついてたら絶対に閉まってると思うもん。


 ボクはリュックサックのサイドポケットから懐中電灯を抜いて、逆手で顔の高さに構えて電気をつけた。いつでも振りおろして武器にできるようにね。


 ――ああ、もちろんお姉さんのことを疑ってたわけじゃないんだよ。単にこれまで見てきた映画の真似をしてただけ。考えかたは理にかなってるし、ヘッドライトもあったんだけど帽子を被ってるしね。


 ボクはアパートに入って階段を探した。すぐに見つかったよ。エレベーターは入り口のところの一基しかなかったし、ドアは閉じたままでボタンを押しても反応しなかった。階段はもう少し奥に行ってアパートの裏側に出たところにあった。隣の建物との隙間にあって、一階は胸の高さまである塀と敷地を覆う壁で四角になってた。


 階段は無事だった。


 細い罅は入っていたけど前に入った高層アパートみたいにコンクリートが剥がれてたりはしなかった。ボクの家は変震のたびに潰れるんじゃないかって心配なくらい揺れたからね。お姉さんの家の頑丈そうなつくりは羨ましいような気がした。


 二階、三階と登ると、階段から右手に公園、左手側に工場みたいな建物が見えた。さらに遠くは真っ暗だった。海だよ。四階まであがると、ちょうど工場みたいな青い屋根の建物を越えて海が見えるようになるんだ。


 ゆるく風が吹いていた。ほかに物音がないから波の音が聞こえるような気もした。いくらなんでも遠すぎるから、きっと幻聴なんだけどね。


 夜の海はあまりにも暗くて、なんでも飲み込んでしまいそうだった。ただの暗闇よりずっと怖いんだよ。懐中電灯の光もまったく届かないからね。


 ボクは心を落ち着けるために胸ポケットのうえから空袋を撫でて、廊下に入った。懐中電灯の光が暗い廊下にまっすぐ伸びて、突き当りの部屋の扉を照らしてた。


 ネームプレートはなかった。四〇三号室。扉の隙間から明かりが漏れてたりしたらもう少し安心できたかもね。


 でも、ほかの部屋に人がいるかはわからないけど、その部屋に人がいそうだとは思った。


 部屋の扉のすぐ横に細長い鉄の扉が――たぶん物置みたいなスペースだと思うんだけど、扉があって、その前にキャスターのついた工具箱がふたつ並んでたんだ。


 ボクは駆け出したくなるのをこらえて、扉の前に立った。さっき外から見た限りでは電気がついていたから大丈夫かもと思って呼び出しブザーを押したんだ。音が鳴ったのかはわからなかった。


 二回は押したよ。返事はなかった。

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