寝坊した日の話
ボクは久しぶりに寝坊した。ここしばらくは毎日おなじ時間に起きて、おなじ作業をしてきてたから、昔の怠惰なボクに戻ったような気分だった。
ずっと長い夢を見てて、待っていれば部屋のドアが開いて、パパやママが入ってくるんじゃないかって思ったりもした。
「おはよう、僕らの眠れる獅子よ」
そんなふうにパパがいって、ママが笑いながらいい直すんだ。
「さぁ起きて子猫ちゃん。もうすぐランチの時間なの」
いつの記憶なんだろうね。わからない。ボクのお腹のうえには銀座カリーパンが乗ったままになってて、外は薄暗く曇ってた。携帯電話を引っ張り寄せると十一時って出てたよ。
「おはよう。銀座カリーパン」
食べようか、どうしようか。迷ったボクはボクのためにいった。
「そうだ、昨日のお菓子屋さんに行ってから決めよう」
高梨商店のことさ。銀座カリーパンをたくさん取り置いてたお店。第一級変震があったばかりだし、道もきっとちがってる。建物があるかないかもわからない。
そうなると、中身のある銀座カリーパンは黄金よりも貴重な品だ。特に銀座だとね。
ボクは汗拭きシートで躰を拭いて、歯を磨いて、それから服を着替えた。上着はいつもの隊員服さ。銀座カリーパン捜索隊のね。
自転車はロビーにあったよ。牽引してたタイヤ付きのカゴと重いゴムボートのおかげで倒れてもいなかった。もしも倒れていたら剥がれた天井の下敷きになっていたから、捨てないで持ってきたおかげだ。まぁ、こういう風に役立つとは一ミリも思ってなかったけどね。
ホテルの外に出たボクに驚きはなかった。
たしかにビルの姿形は変わっていたし、昨日まであった道もなくなってた。
でも、ぜんぶがボクの想像どおりのできごとだ。やりかただってもうわかってる。ボクはちかくのコンビニエンスストアに入って、カウンターの裏で地図を見つけた。予想どおりだ。地図の形はまた変わってた。
ボクの目は地図を座標で見るようになっていたから、それほど大きな問題じゃない。昨日まで持っていた地図と比較して、高梨商店の座標を新しい地図にマークすればいい。
どうしてかわからないけど確信があった。
高梨商店はきっとそこにあるっていう、心のなかの手触りがね。
そういう奇妙な予感があったら信じたほうがいいよ。よく当たるんだ。
ボクのもやっぱり正解だった。
高梨商店は昨日とまったくおなじ場所にあった。看板も変えずにね。
あとは中身なんだけど、入ってみてボクは驚いた。
銀座カリーパンだけを並べた棚が、昨日とまったくおなじだったんだ。ボクがはじめて訪れたときとね。
昨日のボクはひとつその場で食べて、ひとつをいま手に持っていて、もうひとつはメモと一緒にカウンターに置いた。だから棚の銀座カリーパンは三つ減ってるはずなんだけど、昨日とおなじようにちゃんと並んでいたんだ。
それから、もうひとつ。
つかいこんだ様子のレジスターが乗った古い木のカウンターに変化があった。昨日おいたはずのカレーパンが消えていて、おなじ場所に無線機があったんだ。
黄色と灰色のトランシーバーだよ。ガソリンスタンドだったり、東京に来てから最初に泊まったホテルのカウンターにあったりした、あれだ。
一度や二度なら偶然だし、三度目があったとしても、はじめて来たときに置かれていたらボクは当然のように無視したと思う。
でも、無線機は昨日まではそこになく、時嵐と変震のあとに現れたにちがいなかった。
喉が鳴ったよ。近寄ってよく見たいのに、近寄りたくなかった。足に変な力が入ってまっすぐ歩けなくなった。手が震えてた。ボクの意思とは関係なく。咄嗟に左手で押さえた。
ボクは上着のポケットに入れた銀座カリーパンの感触をたしかめて、それから胸ポケットに入ってる空袋を撫でて、深呼吸した。
暑い夏の日の買い物帰りみたいにフラフラしながら、ボクはカウンターに寄りかかった。
メモがあったよ。ボクが書いたメモだ。
『美味しいから食べてみて! ありがとう! 感想はここで!』
お腹がひっくり返ったみたいだった。ボクよりちょっと大人びた字体で、でも変に力が入ってカクカクしたような雰囲気で、返事が書いてあったんだ。
それに『感想はここで!』には続きがあった。数字の羅列だ。ひとつはすぐにわかった。緯度と経度だ。ボクとおなじことをしてる人がいるんだって思ったよ。それから、それから――周波数が書いてあったんだ。
そうだよ。
「人だ! 人がいるんだ!」
って、ボクは吐き気も忘れて叫んだ。ボク以外の人間がこの世界にいて、たぶんその人はボクとおなじようにこことは別の世界から来て、ボクとおなじように街を探索していた。
きっとおなじように寂しさに耐えて、少しでも気を紛らわそうと、希望を探そうとして、無線機と一緒にあちこちにメモを残してきたんだ!
ボクは潤んでくる目を拭って、慎重に無線機の電源を入れたよ。画面が緑色に光ってデジタル表示で数字が浮かんだ。周波数は合ってた。音量をあげると、すぐにノイズが聞こえた。
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