銀座の話

 ボクはペダルに足をかけて、ホテルを探した。

 もう空は真っ赤に染まっていたし、じき夜が来るのが自然の摂理だ。


 どれがホテルでどれがお店なのか区別するのは難しかったけど、どこもとてつもなく高そうに思えたよね。なんでかわからないけど、ボクはできるだけ安そうなところを探した。どこまでも小心者っていうか、なんだろうね。


 でも、そうすることでひとつ、変わったものを見つけた。

 実は銀座にもボクの感覚にあうお店があったんだ。すごく高い建物に囲まれて、それに視線を奪われるから目につかないような、ボクの家の周りにもあった商店街のお店みたいなやつ。


 ボクが見つけたのは高梨商店って名前だった。

 家の周りにもあった、安いお菓子専門のお店だよ。

 そこでボクは見つけたんだよ。

 大量の銀座カリーパンをね。


 ボクは両手で口を覆った。びっくりしすぎてオエってなったくらいだ。いままでスーパーの棚とかでひとつふたつ見つけたことはあるけど、幅三十センチくらいの棚に銀座カリーパンが並んでいるのははじめて見たよ。普通は一列なのに、そこでは三列もとってあるんだ。


 やっぱり名産なのかなって思って、ボクはさっそくひとつもらった。

 食べるのは久しぶりだったけど、変わらない味に安心した。一気にいきたくなるのを我慢して少しずつ食べたよ。空袋はお守りにするから綺麗に畳んでポケットに入れて、それから悩んだあげくにもう一個もらった。残りはもしかしたらいるかもしれないほかの誰かの分だ。


 いつもやってるメモ書きに少し手を加えた。


『美味しいから食べてみて!』


 重し代わりに銀座カリーパン。きっとどこかの誰かを救ってくれるだろうと思ってね。


 それからまた街に出て、外はもう暗かったから、一番ちかくのホテルに入った。

 二日もつづけてお風呂に入れなかったのははじめてのことだ。ちゃんと拭いてはいるんだけど、どうしても肌がベタつくような感じがした。着替えにも限りがあるから、服が汗臭いような気がしてくる。外にはおしゃれな服屋さんがあるんだし、先にそっちを集めてくればよかったかもね。


 ボクはひどくくたびれてた。

 銀座に変な期待をしていたのもあるし、苦労の割に得られたものは少ない。銀座カリーパンが手に入ったのは喜ぶべきことだけど、ボクの家の周りにもないことはないしね。


 なんだかすべてが虚しかった。

 たどり着いた頂はあまりにも低くて、振り向いても誰もいないんだ。ボクはここにいるよと叫んでも聞いてくれる人がいない。


 別にパパやママじゃなくてもいいんだよ。友だちじゃなくたっていい。鏡に映るボクに話しかけたりするんじゃなくて、トボけた目をした黄金の鶏に話しかけたりするんじゃなくて、そこにいてさえくれれば本当に誰でもよかったんだ。


 ボクはここにいる。こんなことをした。あんなことがあった。

 聞いてるほうからするとつまらないかもしれないけど、ボクは話したくてたまらなかった。


 誰にも話せないのがわかっていると、ボクの家のよりもずっと柔らかで大きなベッドに寝っ転がっても、ぜんぜん楽しい気分になれない。


 暗闇のなかでまぶたを閉じると、睫毛のつけ根が熱くなった。両手を伸ばしてシーツを握りしめると信じられないくらいに力が入った。ボクは歯を食いしばって呻いた。


 耐えてたんだ。

 もう嫌だって叫ぶ寸前だったから、絶対にそう口にしないように歯を噛み締めたんだ。


 声は何度も何度もお腹の底からよじ登ろうとしてきた。油断したら大波に呑まれて孤独の底に沈んでしまう。そうなったら、もう二度と浮きあがってこれない。


 ボクは息を止めた。落ち着くために。

 耐え難い感情の嵐が過ぎ去るのをじっと待ってた。


 ――どれくらいのあいだ、そうしてたかな。ふいに手の力が緩んだ。瞼の隙間はあいかわらず熱いままだったけど、息をするために口を開いたんだ。


 自然と目がひらいたよ。

 窓から入ってくる月明かりのおかげで部屋は青黒く染まっていた。目が暗闇に慣れてきて天井の電灯に気づけた。シャンデリアタイプの、二度とつかないはずの電灯さ。


 その電灯が、一瞬、星みたいに煌めいたんだ。不思議と驚きはなかった。代わりに、


 ――くる。


 って、ボクは直感した。ほとんど同時に、ボクはベッドから投げ出されそうになった。いままで体験したなかでも最も大きな変震だった。窓が割れそうなくらいに鳴って、ホテルの天井がうねった。よじれたっていうべきかな? どっちでもいいさ。部屋っていうか、空間がねじれるように歪んでいくんだ。


 ボクは落ち着いてたよ。シーツを握るのも止めてしまって、ただ単に揺さぶられてた。


 外で雷が鳴った。とんでもない爆音だった。時嵐を告げる翠色の光が飛び込んできたよ。途切れることなく繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し……ボクはぼーっとその音を聞いていた。


 ボクはなにも考えていなかった。ここで消えてもどうせ誰も気づかないしね。

 諦めたわけじゃないんだ。

 満足してたっていうほうがちかいと思う。


 外で建物が崩れる音がした。第一級変震だろうね。道も建物もすべて作り変わっていく。


 そのときボクは、ボクの家はどうなるんだろうって考えてた。

 こんなことになるなら、もっとちゃんと地面を掘ってみればよかったなってね。


 ずっと気になってたんだよ。電気と水はどこからきてるのか。管やケーブルを辿って床に穴を開けたり庭に穴を掘ったりして、終わりが見つかるまでやればよかった。


 電気代も水道代も払ってないのに、一月以上ずーっとつかえてたんだよ? もしかしたらボクの家こそ世界の異常の中心なのかもしれない。そんなふうに思ったくらいだ。


 ――もし。

 ――もしもボクが、明日の朝、無事に目覚めることができなたら。

 確かめに行ってもいいかもしれない。


 ボクは揺れて歪む世界のなかでサイドテーブルに手を伸ばした。まだそこにあって安心したよ。本当すごい振動だったから床に落ちてどこかに消えていてもおかしくなかった。ガサガサしたビニール袋の奥の、しっかりもちもちした感触に安心した。中身の入った銀座カリーパンを顔の前に掲げてボクはいったよ。


「おやすみ。銀座カリーパン」


 金鶏って呼びかけなかったのは、そうするとボクのなかのボクが答えそうだったから。


 ボクは銀座カリーパンをお腹のうえに置いて両目を瞑った。

 すごく落ち着いてた。

 揺れがだんだん収まっていって、大きく、ゆっくり左右に振られた。


 パパやママと一緒に海に行った日のことを思い出した。夜になってベッドに入ると、穏やかな波のうえに浮かんでいるような感覚があったんだ。よく似てたよ。

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