東京に入ったときの話

 見渡す限りが水、水、水だった。


 信じられないくらい透き通った清流だよ。川縁にちかづいて底を見ると、朧気だけど木が植わってるのが見えた。普段は陸になってるんだね。調整池とか、たぶんそういうのだ。


 不思議な感じだったよ。

 調整池までつかってるくらいならもう荒れ狂う濁流になってて、泥水みたいな灰色の川になってそうなのに、鏡みたいにキラキラ輝いてて、空の青色を写し取ったみたいだった。


 ボクは自転車に差していた旗を掲げて叫んだよ。


「ボクはここまで来たぞー!」


 ってね。すぐに胸の金鶏にいわれた。


「子どもみたいだ」


 いいじゃないか、別に。嬉しかったんだから。

 まぁでも、続けて金鶏にいわされたセリフに、ボクはため息をつくんだけど。


「満足したし、橋を探すとしようか」


 そうなんだよ。ボクの目の前で橋はボッキリ崩れ落ちてた。一番ちかくにみえる橋も途中で落ちてるようだったし、酷いのは川底に沈んでるっていう。


 また地図と睨めっこする時間だよ。

 川幅がけっこうあるからだろうけど、橋の数は少なかった。それにちかくには支流がいくつもあって、見込みがありそうな橋まで行くのにまた別の川を渡らなくちゃいけない。


 そうなると、むやみやたらに橋を探しに行くのは現実的じゃないよね。ボクはなんとしてもその日のうちに東京に入っておきたかったし、もう六時間も自転車に乗りっぱなしでお尻が痛くなってたし。暗くなる前に寝るところを見つけて、ゆっくり休んで、朝から銀座を目指して再出発する予定だった。


 そうなると、わかるかな? ボクの用意していた最悪の手段が頭をよぎるんだ。

 ボクはずっと牽引してきた小さな荷台に振り向いた。籠の隙間から黄色いビニールが見えたよ。そう。ゴムボートだ。


「どうする? 耐荷重はどうだったっけ?」

「子どもひとりに自転車が一台だから楽勝だよ」

「でも川の流れが早すぎる気がしない?」

「ふーむ。おっしゃるとおりだ。向こうに着くころにはかなり下ってそうだね」


 そんな会話……会話? ひとりでやってるからバカみたいではあるんだけど、会話するようにして考えていたら、面白いことを金鶏役のボクがいった。


「でもどうせ川をくだっていくなら、東京までくだりつづけるって手もあるよね」


 そんなことできるの? って驚いて地図を見た。

 縮尺のせいもあるんだけど、もう本当に東京は目と鼻の先で、川をくだれば一時間くらいで海まで行けそうだった。


 ――でも、ねぇ。

 もしかしたらつかうかもって用意したボートではあるけど、実際につかうとなるとためらうよ。川はどう見たって増水してるし、突き出た橋脚の残骸にぶつかって転覆とか、海まで出たのはいいけど陸にあがるところがないとか、いろんなリスクがあった。


「……ボートはあくまでも最終手段。重いけどね」


 ビビった? そうかもしれない。

 ボクは双眼鏡を覗いて、赤い鉄橋が向こう岸までつづいているのを見つけた。


「行くだけ行って、ダメならボートにしようか」


 焦りもあるのに気楽なものだよ。

 実際にちかづいてみると、その赤い橋は電車用の橋みたいだった。これならと思ったね。だって電車用ってことは車用よりずっと重たいものを運べるようにできるだろうから。


 あとは線路に乗り入れる場所を探すことだったけど、そんなに苦労はなかった。線路に入れないよう金属のフェンスが張り巡らせてあったから、ボクは自転車の修理用に持ってきた工具で穴を開けたんだ。


 ああ、でも安心して。自転車を乗り入れたあとでフェンスの穴は塞いだよ。危ない――まぁ万が一ってこともあるしね。切った金網をペンチでよりあわせてメモも貼っておいた。『キケン! 立入禁止』ってね。日本語で書いたよ。慣れたものさ。


 大変だったのはレールのあいだに自転車を置くところまでかな。したは砂利だし、ゴムボートが重くてさ。捨てていこうかと思ったくらい。でも最後の手段は最後までもっておくのが鉄則だ。


 マウンテンバイクのタイヤに換装しておいてよかったよ。砂利は尖ってるし、レールのあいだに敷かれた枕木でデコボコしてる。ボクはタイヤの空気を少し抜いて、ペダルを漕いだ。


 ――で、思い出したんだ。

 旅にでる直前の、お腹が痛くなる前の雨の日に見た映画をね。

 少年たちがレールに沿って歩いていくんだ。暑そうな夏の日の冒険。古い映画だったし、ボクは英語と日本語を勉強しようとするのが癖になってて、筋はよくおぼえてない。


 ただなんとなく、ペダルを漕ぎながら口ずさんだ。


「ロリパップ、ロリパップ、ウー、ロリロリロリロリ……」


 もう一回見れば思い出せると思うんだけど、たぶんそんな感じ。ご機嫌だったといってもいいと思う。橋に差し掛かったところで思わず振り向いちゃったけどさ。


 もちろん電車なんか来るわけないよ。架線が切れてるんだから。

 ボクは鏡のような川を渡りきり、とうとう東京に足を踏み入れたんだ。


 ただ、入ってからは少し大変だったかな。実は線路は高架になっていて、降りるタイミングをまちがえたボクは、けっきょく駅まで行くしかなかったんだ。双眼鏡で見る限りでは、底から先もずーっと高架がつづいてる。


 だったらそのまま自転車で行ってもいいんじゃないかって思うでしょ? でも高架ってことはどこかで落ちてる可能性もあるってことさ。そうなったら最悪だ。たしかにボクの荷物にはロープも入れてあったけど、自転車と荷物を無事に降ろせるかというと自信がなかった。ずいぶん先まで行ってから戻るとなると、もう当たりは真っ暗だし。


 もちろん、ただの可能性の話で、実際ちょっと心配性すぎたんだけどね。そういうのはたいてい、あとからわかることだ。

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