初めて外泊した夜の話

 ボクは自転車をホームに引きあげた。荷物を降ろして、順番にうえにあげていって、最後に自転車。ホームにあげたら荷を乗せ直して、階段だよ。


「どうして駅の階段って急なんだろうね?」


 ボクがため息まじりに胸ポケットを撫でると、わかりきったように金鶏がいった。


「建築基準法にそう作れって書いてあるんだ」

「……どこでそんな言葉を覚えたのさ」


 知らないよ。ボク自身もね。イラストや写真の入ってる本を見つけたらかたっぱしから目を通してたからね。対訳の対訳の対訳の……そんなことを繰り返してるうちに、ボクの頭のなかには普通のやりかたじゃ引き出せない記憶の棚ができてるんだろうね。


 今度はタイヤの空気を多めに入れて、ゆっくりゆっくり階段を降りていった。

 階段が崩れてなくてよかったよね、本当に。それにすごく広く感じる駅だった。瓦礫まみれは相変わらずだけど、駅のなかに洋服屋さんがあったり、喫茶店が入ってたりしたよ。


 それから改札を抜けて外に出て、またびっくりした。

 ボクの家の周りとはまったくちがったんだ。

 高い建物がいくつもあって、それなのにちかくに商店街のアーチがあったりして。あれこれ見て回りたかったんだけど、あいにくともう日が暮れそうだった。


 寝るところを探さないと思って、ボクはポケっと口を開いたまんま建物の看板を見回した。スーパービバホームの経験が生きたね。すぐに見つかったよ。


 十階建てくらいの綺麗な長方形をした建物に、ホテルなんとかって書いてあったんだ。なんだったかな? ちょっと曖昧だ。でもホテルが寝泊まりするところだっていうのは知ってたからね。ひとまずそこに入った。


 タイヤがパンクしたりしないように靴でガラスの破片をどけながら自転車をロビーに入れて、それから鍵を探した。できるだけしたの階を選んだくらいで変わったことは――ああ、そうだ、二階のレストランで食事をしたよ。本当に旅行気分だ。


 ボクは窓ガラスの割れていない部屋を選んだ。したのほうのね。たぶんうえの階に行けばもっといい部屋もあったと思う。でも変震がきたらと思うと、すぐに逃げられそうなほうさ。


 部屋に荒らされた様子はなかった。ちょっと埃っぽい感じはしたけどベッドメイキングもそのままなんだ。この世界に来てからずっと感じてたことだけど、すごく秩序だってるっていうか、本当にふらっと人が消えたって雰囲気なんだ。


 つい昨日まで人がそこで暮らしてた――昨日はいいすぎかな? でもいなくなってから一ヶ月も経ってないような。建物が壊れるときに人も一緒に吹き飛んだ? それなら死体がないのは不自然だ。自家製の酵母でレーズンパンが焼けるんだから、この世界で生きているのは菌と植物くらいってことになる。


 じゃあ、なにか危ない菌が広まって、死体も綺麗に食べつくしちゃうとか?


「骨まで? すごい菌だ」


 ボクは胸ポケットから銀座カリーパンの空袋を出して丁寧に伸ばした。

 自分のベッド以外で寝るのは本当に久しぶりだったよ。マットレスのかたさに慣れなくて、大きな枕もボクの部屋のとはちがって。これは寝るのに苦労しそうだって思った。


 ボクはしたの階に降りて、荷物から懐中電灯と飲み物と缶詰をいくつか、それから毛布をひっぱり出してきた。旅行用に用意するんじゃなくて、ボクの部屋の毛布を持ってくるべきだったよ。たぶんボクは、おとなになっても子どものころの毛布をつかうタイプだ。


 ベッドに横たわると静けさがすごく気になった。音楽を流したくても電気は貴重だし。次があるなら耳栓も持ったほうがいいね。――ああ、でも、変震が起きたときに気づけないか。


 寝るのに苦労するかも? ボクは疲れていたのかすぐに寝てたよ。笑って笑って。

 次の日ボクは、いつものとおり日の出の少し前に目覚めた。それから銀座カリーパンの空袋――というか、空袋に描かれた黄金の鶏にいった。


「鶏なんだからたまには鳴きなよ」


 しばらく返事を待ったけど、ボクの口から声はでてこなかった。

 じゃあ昨日のはなんだったんだろう。幻聴? 幻覚? いやいや、ボクはボクの意思で声を当てて会話の真似事をしてたんだ。本当に? 自信ない。おかしくなってたっていわれても、正気を示す証拠がない。ボクはため息をついて躰を起こした。


 朝の運動、ストレッチ、それから缶詰を開けて朝食だ。舌打ちしちゃったよ。昨日のうちにボクがしたから持ってきたのは甘い飲み物だったから。歯を磨くのには水がいるし、お風呂に入れてないからあの――躰を清潔に保つためのシートを取ってこなくちゃいけなかった。


 もし電気がつかえたのなら、部屋のアメニティグッズだっけ? インスタントのコーヒーが置いてあったから、お湯を沸かして優雅に朝の香りを楽しんでただろうね。


 やるべきことをやるためにしたに降りて、ボクはロビーのカウンターのうえにあるものに気づいた。途中のガソリンスタンドで見つけたのとおなじ無線機だ。あのときもっとよく調べておけば、もう少し早く気づけたのかも。


 でもボクの意識はそう、夢の銀座に向いていたし、ボクのこの世界は災害かなにかに遭って緊急無線として配布されたんだろうとか、そんなふうに納得してた。


「おはようございまーす!」


 ……急に叫んだりしてごめんね。ボクのあの日の興奮を伝えたくてさ。ボクはホテルを出てすぐ、そう叫んだんだよ。人がいなくたって朝の挨拶はできるんだ。


 ボクは地図を出して、銀座までの経路を確認した。

 できるだけ線路沿いを通るようにして、本郷通りとかいうのに入って、あとはまっすぐ。


 まぁ、もういまさらいわなくてもわかるだろうけど、その一本の道をまっすぐ進むっていうのが一苦労なんだ。それが旅行の一番おいしいところでもあるから困るよね。


 東京っていうのは面白いところだよ。

 たった四十キロ――中間地点の川を越えたばかりだから二十キロか。たったそれだけの距離なのに、高層アパートの屋上から見た風景とはまるでちがった。ボクの想像ともちがう。


 もちろん、なにもかもが半分くらい壊れてるからっていうのはあるけどさ。

 いろんところに緑があって、なんていうか、静謐な? 感じのする古めかしい建物があったりしてさ。それから涎掛けをした石の人形とかが道端に置いてあったりするんだ。たぶん旅人のための守り神とか、そういうんだと思う。ボクの暮らしてた世界にもたまにあったよ。

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