心配事の話

 ボクが開いたのは日本の地図帳――つまり、この世界の日本の地図だ。変ないいかたに聞こえるかもしれないけど、こういうほかにないんだよね。


 だってボクの家は、この世界でいうところの日本にあったんだから。

 なんてことだ!

 ボクが住んでいたのは日本だったのか!

 ……なんてね。こっちにきてから、そんな映画を見たよ。古い映画だったけど。

 全身からスッと力が抜けるというか、頭を抱えるしかなかった。


 どうりで時差ボケがないはずだよ。ボクの家は一ミリも動いていないんだから。

 とつぜんこの世界に放り出されたのはまちがいない。あってる。

 でも、放り出された先は、まったくおなじ位置にある、まったく知らない世界だった。


 再起動するのにすいぶん時間がかかったね。

 希望のひとつがパッと散った瞬間だ。

 この世界でパパやママと再会するのはほとんど絶望的だってことさ。すでに二、三ヶ月は経っているわけだから、仮に外に出ていたのだとしても帰ってきてなきゃおかしいし、もし外にいて戻ってきていないなら帰れない理由がある。


 理由はなんだっていい。パパやママが自殺するとは思えないけど、外は瓦礫の山だから事故に巻き込まれたって可能性もある。


 でも、大丈夫。

 パパやママはこの世界にいないはずさ。外に探しに出るにしても、まず寝ているボクを起こしてから行くだろうし。窓の外を見れば誰だってそうする。


 だから、この世界に放り出されたのはボクとボクの住んでる家だけってことだ。

 ボクは机に突っ伏したまま、しばらくじっと考えてた。

 何度心が折れそうになったかわからない。銀座カリーパンの袋を空袋をひっぱりだして眺めた。トボけた目をした金鶏に聞いたよ。


「なにかよかったと思えることはあった?」


 返事はないから、代わりにいった。


「パパとママはきっと無事だ」


 そうだよ。

 それがボクの救いだった。ボクが見てきた限りの条件でいえば、パパとママはボクと一緒に放り出されたわけじゃないんだ。だから二人は必ずどこかで生きている。もしかしたら、ボクが放り出される前の、ボクが住んでいた世界でいまも暮らしているかもしれない。


「心配してるかな?」


 ボクは金鶏に聞いた。


「……お前のことなんか誰も心配しやしないよ」


 金鶏は返事をしないから、ボクは声真似をした。まぁ元の声を知らないから真似ですらないんだけどね。できるだけ変な声をだしてふざけたかったんだ。


 でも、おかげでボクは救われた。

 変なことをいってるように聞こえるかもしれないけど、それがボクの救いだったんだ。


 ボクは生まれる前からパパとママに心配をかけてた。ちょっと小さかったから「丈夫に生まれてくれるかな?」とか「ちゃんと育てられるかな?」とかね。


 残念ながら、ボクはちゃんと育ったとはいえない。中学を終えるだけでヘトヘトさ。


 いじめがあったから? そうかもしれない。でも噂に聞いてるいじめにくらべればずっとずっとたいしたことないはずだ。


 ボクは心配してもらえるのが苦しかったんだ。パパやママはそれにも気づいてて、心配してないフリまでしてくれてた。本当に優しい、大事な大事なパパとママだ。


 だから、ボクはふたりに心配しないでほしかった。

 これ以上は迷惑をかけられないって、ずっと思ってたんだ。


 もしかしたら。


 そう、もしかしたら、神様がボクのお願いを聞いてくれて、ボクをこの世界に放り出してくれたのかもしれない。そう思ったら楽になった気がした。


 あさはかな考えなのかどうか、それはボクにはわからない。

 だから、ボクはボクなりに、物事を楽に見ようと決められた。

 ボクが元いた世界では、ボクの存在だけが消えていて、パパやママは何事もなかったように暮らしているんだ。そうだったらいいと思った。


 あるいは、夜のうちに家出をしたと思われているかもしれない。

 それはそれでいいよね。


 最初は心配するかもしれない。優しいパパやママのことだから泣いちゃうかも。捜索願を出したりしてね。いろんな人に迷惑をかけちゃうのは申し訳ないけど、ボクの死体が出てくるわけじゃない。しばらくは悲しくても、パパとママは仲がいいから大丈夫さ。


「よかったじゃないか。自分から家をでることができたんだ」


 そんなふうに話しあって、ママが答えるんだ。


「そうね。あの子のことだから、いつか大きくなって、ひょっこり帰ってきてくれるかも」


 で、そのうちにボクのことを忘れてしまう。心配でしかたなかった頭痛の種が、懐かしい記憶に置き変わるんだ。


 この世界で起きてる時嵐や変震みたいに、記憶の中のボクがそっくり入れ替わるんだ。パパやママにとって理想的なボクにね。面倒くさかった記憶なんかどこかにいってさ。それはとても幸せなことだと思う。ボクは、ボクのやりたいことだけに集中すればいい。


「銀座に行こう。夢の銀座に」


 ボクは声にだして金鶏に誓った。

 パパやママが心配しているかもしれない――そんなふうに思っていたら、決意することはできなかったと思う。ボクがケガしたりしたら、パパやママがどれだけ騒ぐか。


 でも、大丈夫。ふたりはきっと心配していないから、自由にやっていいんだよ。

 ただ生きることだけに集中してダラダラやるのはやめようと思った。


 ――ああ、誓っていうよ。けっしてダラダラやってたわけじゃない。ボクはボクにできることはなんでもやってた。努力してたよ。日本語はだいぶ読めるようになってきていたし、なにか生活につかえる知恵はないかと思って科学の勉強もしてた。日本の歴史についてもね。これは時嵐や変震についての情報を探すためだけど、まぁどれも日本語だから苦労するよ。


 とにかく。


 それまでのボクは、生きる目標を生きることに設定していた。勘違いしないでほしいんだけど、世界が普通ならそれでいいと思う。でもボクのいる世界は普通じゃないからね。

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