高いところを探したときの話
ボクは絶望的に孤独だった。
日本語の勉強をしようと声に出したりしない限り、一日が終わるまで一言も発さないことだってあった。そんな状況で生きる目標を生存に定めたままでいるのは、とてもむずかしいことなんだ。
朝日だったり、夜空だったり、ふいに吹く風や水音、腐った食べ物の臭気や枯れた草木や土塊の匂いに、いつでもどこからでもこちらを見ている暗闇が、怖い声で聞いてくるのさ。
「なんのために?」
そう。
なんのために?
悪魔の声だよ。
あるとき、あまりの怖さに叫ぼうと息を吸って、喉が詰まっているのに気づかされた。声が思うように出なくてさ。悲鳴もあげられないなんて、なんて情けないなんだろう。だから声に出して勉強しながら探索するようになったんだ。
――おっと、話が逸れちゃった。
なんだったっけ。そうだ、生きる目標の話。
そうなんだ。外敵どころから人も動物も虫すらもいない世界で正気を保ちながら生きていくには、なんでもいいから目標が必要なんだ。
それも、頑張れば叶えられそうな目標がいい。
ボクは銀座カリーパンのおかげで、銀座に行くっていう目標ができた。
幸い、地図はあるんだ。
ボクは子ども用の日本地図を探した。東京にあるってことはすぐにわかった。銀座の文字を探せばいいんだから、難しいことじゃないよ。
見つけたら、次はボクの家との距離を出すんだ。
これはちょっと困った。
地図の縮尺が合っているなら、だいたい四十キロくらいだ。
それのどこが大変なんだって思われそうだな。
大変だったんだよ。ボクには足しかなかったし、時嵐がいつくるかわからないんだから。
ボクはそんなに背が大きくないし、道は荒れてる。人間はだいたい時速四キロで歩けるっていわれているけど、仮にそのペースで歩けたとしても十時間はかかる計算になる。
できるだけ早い時間――たとえば朝の五時くらいに家を出たとして、向こうにつくのが十五時だ。観光する時間を二時間くらい見積もると十七時になる。
この世界の夜は本当に暗いんだよね。
電気がないから日が落ちてきたらすぐに真っ暗。地面になにが落ちてるかわからないし、道がどうなってるのかもわからなくなる。
断言するよ。いままで味わったことのない、恐怖の外泊になる。途中で時嵐や変震が起きたら目も当てられない。
だから、ボクは足を手に入れる必要があった。
それから、もうひとつ。
ボクの家のある場所と、地図そのものが問題だった。
まず道路図じゃないから細かな道がわからない。次に主要幹線っぽい道が書かれているんだけど、ボクの家のそばにはとおっていない。持ってる地図がどれくらい正確なのかを確かめるために、できるだけ高いところを探す必要があった。
いま簡単に高いところといったけど、たぶんキミが思ってるよりずっと高いよ。
なぜなら、地球はあまりにも大きくて、あまりにも丸すぎるから。
地平線とか水平線っていうのは知っているよね?
空と地上を分かつように見える線のことさ。
あれは地球が丸いからそう見えるんだ。
緯度と経度の測定にもつかった三角関数の応用さ。悲しいこと――なのかどうかちょっとわからないけど、ボクの身長は高くない。地球の半径を六千三百七十一キロと仮定すると、地表に立つボクの地平線は、だいたい四キロちょっと先に現れる計算になる。
目標にしている銀座はボクの家の座標から四十キロ先にあるから、目視するにはだいたい百メートルくらいまで登らないといけない。じゃないと地球の丸さに隠されちゃうんだ。
わかる?
百メートルだよ?
ビルは一階あたり高さ三メートルくらいだから、三十三階建ての屋上に登れってことだ。
そんな高い建物どこにある?
そりゃ、もちろんいまのボクは東京まで出ればいくらでもあるって知ってるけどね。あのころのボクにとっては無理難題に思えた。
ボクの家の周りに現れた建物のうち最大のものは、地上二十五階建てのアパートだった。
どこか高いところはないかと屋根に昇って見つけたんだ。ボクの家から徒歩で一時間くらいのところにあったよ。ただ、足元まで行ったら、自然と喉が鳴った。
ふわぁーって見上げて呟いた。
「……さいてー」
ふふふ。ママがいたらコラっていわれてると思う。
ものの見事に半壊していたんだよ。板みたいな形のアパートだったんだけど、ちょうど半分くらいのところから崩れていて、駐車場の半分が瓦礫で埋め立てられてた。まるで空から隕石が降ってきてアパートをぶち抜き駐車場に落ちたみたいに。柱から錆びた鉄筋が飛びだしててて、もちろん壁も罅々で、割れたガラス片と引きちぎられた車の残骸で駐車場が夏の砂浜みたいに輝いてたよ。興奮はしなかったけどね。
ボクは決断を迫られたんだ。
高さおおよそ七十五メートル。距離にして三十キロくらい先を見通せることになる。銀座を見通すにはちょっと足りないけど、地図と地形を照らし合わせるには充分な面積を得られる。
ただねぇ……残ってるアパートの半分が、どうみても少し傾いてるんだ。
外から見て傾きに気づけるってことは、思ってる以上に傾いてるってことになる。
近づけば近づくほどヤバいって感じるんだ。靴底の下で砕けたガラスと小石がチャリチャリ鳴ってた。知覚できるくらいの風はなかったんだけど、建物が変な形に歪んでるしあちこちに穴があいているからヒュウヒュウ鳴ってる。
「入って大丈夫かな?」
ボクは声に出して尋ねたよ。アパートにね。それから胸ポケットに入れておいた銀座カリーパンの空袋を服のうえから撫でて深呼吸した。
エントランスのドアについてる強化ガラスは粉々に砕けてたよ。ボクは片手に懐中電灯を握りしめてなかに入った。嫌な感じだった。
絶対にありえないことなんだけど、ボクが入ったことでバランスが崩れて倒壊するんじゃないかってビクビクしてたんだ。
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