銀座カリーパンと出会ったときの話

 往復も三回目で、空が赤くなりはじめてた。

 人も車もなくなって空気が綺麗になっているんだろうね。ボクの目が潤んでたのもあるかもしれない。胸を締めつけてくるような緋色。ボクの小さな影が長く伸びてく。誰もいない街に音が響いて、マスクを下ろすと店からもちだした物に染みついた嫌な臭いが少し。


 ボクのドン底っぷり、つたわるかな?

 声をだす気力もなくなって、走る元気なんかなくなって、呼吸に集中する余裕もない。


 そんなときに、ボクのお腹が鳴った。

 ちょっぴり――本当にちょっぴりだけど、元気が出たよ。


「ボクは生きてる。ボクはまだ大丈夫。ボクは死んでない」


 いわなくてもわかってることを繰り返しながらガレージに戻って。

 ボクは食べ物を探した。なんでもよかったんだ。お菓子でもなんでも。

 そのときだよ。

 ボクが相棒に出会ったのは。


 ボクが掴んだのは、小さなビニール袋に入ったやつだった。掌からちょっとはみ出るくらいの大きさの袋で、左右の両端は黒で、右端から左端まで七割くらいが焦げ茶色。残りは透明になってて、なかになにがはいってるのかわかるようになってた。


 焦げ茶色のところに日本語で商品名が書いてあってね。もちろん、ボクはまだ読めない。でも商品名のまんなかのところに赤い丸があって、黄色の鶏が描いてあるのはわかった。羽つきの兜をかぶったみたいな雄鶏がトボけた目をしてるんだ。


 ボクは笑っちゃったよ。

 袋のしたのほうに数字が印字されてて、その日付はボクが世界に放り出された日よりずっと先の日付になっていたから、たぶん安全に食べられる期限を書いてるんだろうと思った。


 透明の部分から覗ける中身は、最初コロッケかと思った。すくなくともパン粉をつけて揚げたものだね。


 ボクは袋を切り開けた。

 ふわっと、食欲をそそる刺激的な匂いがした。辺りに残ってる嫌な匂いを忘れさせてくれるいい匂いだった。手に持った感じは穴のないドーナツかな。


 ゴクリ、ってすごく大きく喉の音が鳴って、ボクは慌てて振り向いた。自分が唾を飲んだ音なんだって気づくのに十秒はかかったね。


 それから手のなかの、まだ相棒じゃなかった茶色いやつに振り向いて、ボクはおおきく口をあけてかぶりついた。


 表面はカリっとしてて、なかはもちもちしたパンだった。でも、それだけじゃないんだ。


 ボクは感動した。

 舌に触れたペーストの、どう表現していいのかわからない複雑な味に。

 甘いような、しょっぱいような、想像とぜんぜんちがくてからかったりして、いろいろな味が口いっぱいに広がって――最初に感じた刺激的な香りが鼻の奥を突き抜けていくんだ。


「……なにこれ!?」


 笑っていい。ボクは叫んだ。ほんの数瞬前まで死にそうな顔してたのに、自分がはじめてた食べた物の美味しさに感動してるんだ。調子のいいやつだよ。


 ガレージが揺れるくらいの声で叫んでるんだよ?

 手に、それを持ったまんまでさ。

 ボクは夢中になってそいつにかぶりついた。食べきるまで一分もかからない。

 そいつの――それからのボクを助けてくれる相棒の名前は、銀座カリーパンっていうんだ。


 甘いししょっぱいしからいから喉も渇くんだけど、そんなの気にならなかった。

 ボクはガレージにぶちまけてあった商品をあさって、おなじ袋を探したよ。ボクはレジスターにちかいところから無事な品物を集めてたから、似たような袋もいっぱいあった。


 でも、ボクのお目当てはよく似てる彼らじゃない。銀座カリーパンさ。見つけたらすぐに袋を破ってかぶりついたよね。また一分も我慢できずに食べちゃったよ。


 そこでようやく、ボクは飲み物がいると思った。

 ガレージの入り口ちかくに並べておいたペットボトルを取ってさ、キャップを開けてカラフルな飲み物を流し込んだよ。炭酸は抜け気味だったけど一気に飲んだからゲップが出た。下品な話で申し訳ないけど、そのときにまた銀座カリーパンの匂いがするんだ。


 ボクはもうひとつ食べずにはいられなかった。

 今度は、今度だけはゆっくり食べよう。味わうんだ。

 そう心に決めてね。


 ボクはこれまでとちがって袋を裂かないように丁寧にあけた。それから一口、一口、歯ざわりを楽しむように心がけて食べはじめたよ。


 落ち着いて食べてみると、なかに入ってる茶色いペーストが美味しさの源なんだって気づいた。


「これ、なんだろう?」


 ボクはいった。そこに誰もいないのに、誰かに聞きたくなったんだ。パッケージにいる黄色い鶏はトボけた目をするだけで答えてくれなかった。


 なにかに似てるんだけど、いままで食べたことのない味なんだ。指先でペーストをすくって舐めると、さっきよりずっと刺激的なからさだった。だから気づいたんだよ。


「このパンはこれで完成品なんだ」


 わざわざ口にだしていうこと? いうことだよ。大事なことだ。

 銀座カリーパンは――いまもう知ってるからいえるけど、カレーやカレーライスとはちがうんだ。ただのパンでもないし、揚げパンでもない。カレーペーストが入った揚げパンで、なかに少しの空洞があるのがポイントなんだ。そこにある空気が、カレーとパンの風味をボクの鼻まで届けてくれるんだ。


 だから、それぞれで食べても美味しさは半分――もっと低いかな。ペーストをパンパンに詰め込んであってもダメなんだ。


 なにを隠そう、ボクはあとになってそれを試すことができたから、よく知ってるよ。


 銀座カリーパンの鶏は、とぼけた目をしてスゴイ奴なんだ。

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