はじめて見る景色の話

 ボクはひとまず深呼吸をして、パパとママに挨拶するための気持ちを整えた。今日は心配させないですむかな? 可愛い……かどうかはまぁいいけど、おはよう、って簡単にいってもらえる顔になっているかな?


 最初はいらないっていったけど、ママが入れてくれた鏡つきの机はよくつかったよ。


 電気をつけてないから暗いんだけど、鏡にボクが映ってた。手入れが面倒だから短くしちゃった髪の毛をちょっといじって、むくんでるような気がするほっぺたを押しあげて。


「よし」


 なにがよしなんだって思うよ。いまはね。でもあのときはよかった。

 部屋の扉を開けて、台所にいるはずのパパやママにも聞こえるように、大きな声でいった。


「パパー、ママー、おはよー」


 いってから目を閉じて返事を待つんだ。これも儀式さ。

 ただ、その日はいくら待っても返事がなかった。

 まだ焦ってはいなかったよ。


「パパー? ママー?」


 いいながら、階段を降りていった。手すりを掴んで、足元をたしかめながらね。なんでかって暗かったから。


 窓から光は入ってたんだ。でも、電気がついてなかった。いつもそう? わからない。ボクは気にしたことがなかったから。


「パパー? ママー? いないのー?」


 いってから気づいたんだ。

 なんかおかしい。

 わかってもらえると嬉しいんだけど、朝って意外とうるさいんだよね。仕事にしてもなんにしても、家によって動きだす時間がちがうしさ。日課だってちがう。


 外では鳥が鳴いてることもあるし、車やバイクが走ってることだってある。

 でも、階段を降りてるとき、ボクはなにも聞かなかった。

 まだ違和感があるってだけで、わかってはいなかった。


 なにが起きてるのか。

 ボクは変だと思いながらキッチンの扉を開けた。

 誰もいなかった。


 パパやママがなにかを作ってた感じでもなかった。朝のコーヒーだったり、バターだったり卵を焼いてる匂いだったり、温度、質感、気配の痕跡――。


 なんにもなかった。

 台所は綺麗に片付いたまま。昨日の夜、最後に見たままだった。ママが夕食にいろいろつくってくれて、片付けもして、そのあとのまんまだった。


 もしかしたら、もっと片付いていたかも。


「パパ? ママ?」


 ボクの声は震えてたと思う。急にいなくなったと思ったし、そうだったし。

 あのときの息苦しさはいまでも忘れられない。目眩がしたわけじゃないのに、足がもつれるっていうか、力が入らなくなって、なんとかテーブルに手をついて、顔を擦った。


 左だったかな? 右だったかな?

 どっちの手だったかおぼえてないけど、とにかく顔を擦ったのを覚えてる。どうしても呼吸が浅くなって、胸が、心臓が痛くなってきて、瞬きしながらシンクの蛇口を見つめて、テーブルを押すようにしてもたれてさ。


 蛇口を動かしたんだ。

 ザァッ、と真水が出てきて。両手ですくって顔を洗った。

 不思議だよね。パパとママがいないかもって思って、なんで顔を洗うの? ボクも自分でわからないよ。いま思うと。でもたぶん夢だと思ったんだ。思いたかったんだよ。


 タオルがないかあたりを探して、棚のところの布巾で顔を拭いた。焦ってたんだね。


「パパー!? ママー!?」


 叫んだと思う。正確にはおぼえてない。でも、とにかく大きな声で呼ぼうとしたから、きっと自分でもびっくりするくらい大きな声だったと思う。


 返事はなくて、ボクは胸が痛くて、手でおさええながら、冷蔵庫を開いた。

 ここ、笑うところ。笑ってもいいところ。

 ボクはなんとか日常をつづけようとしてたんだよね。パパもママもいないのに、わかってきてるのに、わかりたくなくて、冷蔵庫からオレンジジュースを出してコップに注いだ。


 変な味だったよ。すっごく、よくおぼえてる。腐ってるのかと思ってパックを見たら、ちゃんと二週間後が消費期限だって印字されてた。


 ボクは目をつむってジュースを飲んで、天井を見た。ボクの家では、いつもはママと、たまにはパパも、ちゃんと料理をしてくれていたから少し油で黄ばんでるよううに見えた。


 そうだ。寝室だ。

 思ったよね。ボクの知ってる限りでは、それまでに二回くらい、パパとママが起きてきてないことがあったから。


 必死だよ。飲みかけのコップはテーブルに置いて、なんだかもつれてくる足で、こけないように壁とかに手をつきながら階段を登っていって、パパとママの部屋のドアを叩いた。


「パパ? ママ? 朝だよ?」


 入れないんだよね。まず、聞いちゃうんだ。いてほしくて。あんなに呼んだんだから、いたら起きそうなのがわかってるのに、知りたくないんだよ。


「パパ? ママ?」


 泣きそうだった。ボクは、どうか寝過ごしてくれていますようにとお願いしながら、息を止めてドアを開いた。


 あのときの力が抜けていく感覚。ボクははじめてだったから、とにかく目をつむって、待って、って広げたんだ。無理だよ。そりゃ無理だ。わかってる。わかってるけどそうしないでいられなかった。どうにかなっちゃいそうだったんだ。


 とにかく呼吸を整えて、もしかしたらベッドの下に隠れてるんじゃないかって思って。


 笑っちゃうけど、あの日のボクには笑えなかった。


「落ち着いて。落ち着け……!」


 自分にいってさ。クローゼットも開けてみたりとかして。

 そうだ。外にいるんじゃ? って窓まで駆けて、レースのカーテンをバッ! て開けて。


「……どうなってんの?」


 パパかママがいたら怒られただろうね。ホントに。でもいわずにいられなかった。

 ボクの家の周りは、ボクの知らないどこかの国になってた。

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