第21話.扉をあけて
呼び鈴にドアを開けるとミカエルが緊張の面持ちで外に立っていた。少し困っているような表情に笑う。
「――入れよ」
迷うミカエルにチャスは振り返らずに誘う。けれど気配で彼が入ってくるのが分かった。同時に、足を踏み入れた途端に、戸惑いと不審と若干の怒気が混じるのも感じる。
「越すのか」
もともとベッドと椅子と机しかなかった部屋、けれど小物は何もない。書籍類は紐で結んで、たった一つの段ボールにはMPのコード類と、後は卒業時の写真を入れた額だけ。
「ああ。もう聞いてると思うケド」
今日辞めると告げてサインした。研究も辞退、全額返金した。とっくにミカエルの耳には入っているだろう。姿を消そうとしているチャスをミカエルがまた逃げるのかと怒りを顔に浮かべている。
「消えて、どこに行く」
「――俺、妖精界に行く」
さすがにその返答は予想外だったのか ミカエルが目を見張り黙る。月光は入ってこないから天上の照明の紐を引き、魔法灯がつく。魔石の交換が必要だったけど、ずっとそのままにしているから、明かりは凄く弱い。
「――俺、さ。金、母親にずっと送金してたんだ。今回貰ったのも、全部送ってやった」
「困ってたのか?」
当然の質問、だけどチャスは少し笑った。そういうのが当然の質問、相手から頼まれもしないし、困ってもいない、何してるのかもわからないのに、送るなんておかしーだろ。
「さあ。たぶん……最後に会ったのは、七歳ぐらい」
再三の施設からの連絡でも来なかったらしい。
その前に妹が生まれた。タオルに包まれたそれを抱き上げる様子、授乳するのもすべて楽しそうで、愛しそうで、その二人に自分は近づくだけで顔がしかめられる、背を向かれた、嫌悪を示された。
妹が産まれたのは七歳で、マタニティブルーと母親は説明されていた。
けれど、妹に対してじゃなくて、当たるのは自分に対してだけ。
そしておなじみの施設に入り、もう来なくなった。
「金、困っていたのかな、俺がいた時はそうだったかもしんない。ずっと送り続けて、今回貰ったの全部送った。そしたら口座が閉じられて。――昨日、俺の口座に送り返されていた」
ミカエルはじっと聞いている、立ったまま。ミカエルに狭い部屋の真ん中を占められるとそれだけで圧迫感。拒絶カナ、と聞きたいのをこらえる。聞かなくてもわかる、拒絶、当然。
同時に送金元を調べればまた送金できるかもと馬鹿なことを考える。
「他人の考えはそれぞれだ。けしてチャスを否定したわけではないだろ」
うん、そうだねと答える。
「納得いってないな。当たり前か」
ミカエルがベッドに座る。なんでアンタが先に座るんだよ、と思ったけど、チャスは止めなかった、もうそんなことは許していた。
「来ないか?」
ミカエルが伸ばした両手を見下ろして、チャスは「いかねー」とはね除けて苦笑した。
――相手の口座はわかった。だからまた送金することはできるけど……したらさすがにストーカー。イヤガラセだよな。でもそれをして、また気づかせたい、知らせたい、見てもらいたいと思ってしまう自分がいて嫌だった。
「ほんとは、親の事なんて成人までには乗り越えてるはずだろ。未だに俺、執着してる。頭おかしいのかも」
「チャス、そんなことはない。親との確執を乗り越えるのはなかなかできない」
ミカエルに慰められてるのはわかっていた。そう言ってもらいたいんだ。俺。
「俺、一人でいるとダメなんだよ。今更だよ、とっくに乗り越えてなきゃいけないだろ。でも、考えちゃうんだよな。母親が今、何してるとか、どこにいるかとか、新しい家族とうまくいってないといいなとか。調べてやりたいとか。頭おかしーのかもって」
なんだよ、止まらない。気が付いていると頬が濡れていた、声を張り上げていた。自分にまだそんな感情が残っていたのかと驚く。
怒りとか悔しいとか思って人に、ぶちまけるとか。当たるとか。
「それって一人で家にいるとそうなっちゃうんだよ。学生の時はよかったんだ。勉強や、バイトで必死で、なんだかんだと奴らといて。でも働いちゃうと、家だと何もないだろ。そうすると夜、考えちゃうんだ。調べちゃいそうになる。でもやったらみじめになるから」
大金をはたいて、母親に送金してやる、もう一度関心を向けさせる。その夢を叶えたらもうどうしていいかわからなかった。
これまで堪えていた感情がこみ上げてくる。
むかつくとか、わかってほしいとか、なんでだよとか。怒りがこみあげてきていた。なんだよこんな感情。
腕を振り上げて、何度も下ろす、両手の拳を握り締めていた。
「……行っちゃったんだ」
ぽつりとつぶやく。ミカエルの驚きの目を前にして。
「ポストに表札でてて。車があって。妹と、多分再婚して家族になってて。うまくいってないといいなって、そうなると思ってたのに……いってたんだ。うまく」
自分の中はそれにすがってたんだって。あっちは自分のことを忘れてたんだ、とうに。なのに、いまだにこだわって、ひきずってたんだ、自分だけ。
わかってたのに。酷いことしたあっちはまた繰り返すって思ってたのに、繰り返してなくて。自分の方が落ちてて、あっちの方が成功してる。――そんなこともあるって。
突き付けられた。ずっと頭の中がそればっかり占めて。そしてまた、また訪ねたくなる衝動を今後もこらえるのだろうか。
「チャス、チャス!!」
ミカエルが立ち上がり、両方の手首を、ミカエルの両手が掴んでいた。
「チャス、いいんだ。それでもいいんだ」
「俺。どーにかなりそう。おんなじことバッカ考えて」
ずっと押さえてきたのに。口座が閉じられてからいろんな感情が渦巻いて。そしたらまた金が返されてきて。
ずっとそれを考えてしまう。
「恨みで事件を起こす奴いるだろ。俺、も、そうかもって思った。俺も……刺しちゃうかも」
ミカエルは、ただチャスを見つめていた。
「だから……妖精界、行くんだ。こんな感情がなくなる、なら」
「チャス」
ようやくミカエルが抱きしめてきた。ようやく、って考えたことにチャスは自分で気づいて笑った。なんだよ俺、抱きしめられることに慣れているじゃん。期待してたじゃん。
「ならば、俺といろ。俺を刺してもいい、刺されても死なないし、頑丈だ。お前はもっと幸せになればいい、俺と家族を作ればいい。そうしろ」
チャスはその胸の中で答える。
「――そんなの……ちがう、だろ」
少し考える。
「アンタは俺の事ずっと考えているわけにはいかねーし。俺も依存するわけにはいかねー」
なんて答えればいいのか。
「弱っている時に頼ったらうまくいかないだろ、共依存て。頼る、頼られる。アンタはそうならないかもしんないけど、アンタが一番に考えるのはグループだろ」
ミカエルが黙る、その顔を見ると心外という顔をしていた。
「――それこそ、俺が一番私生活のパートナーを大事にしなきゃいけないのを拒否された気分だ」
「アンタは幸せにしてくれる人のほうがいいよ。ていうか、一緒に幸せになれるパートナーっての?」
「それが、チャスじゃダメなのか?」
「俺は今依存して、頼らなきゃダメな状態、誰かと生きられない」
「――俺は軍で、二十人や五十人、それ以上の命を預かってた。たった一人ぐらい背負える。お前を背負いたい。そんぐらいじゃつぶれない。それじゃ駄目なのか?」
「バカ。それを共依存つーんだよ」
何かを言いかけるのを先制する。
「こだわるな。依存しても平気な奴もいる。それが俺だ、全部寄りかかれ」
そんな心地いいコト言うなよ。俺ずっとそう言ってもらいたかったって気づいちゃうだろ。
「お前には『一番お前が大事だ』と言われる奴が必要だ。子供の時なんてどうでもいい。今俺が何度も言う、『お前が大事だ』『お前が必要だ』」
「だからそれが依存って」
「そんなめんどくさい用語は使うな。だったら違うことで返せ。お前の身体と心で返せ。それでいい」
「……なんだよ、それ」
むなしいのに、その空洞にミカエルの言葉が響いて笑っちゃう。
「お前が好きだ。お前が欲しい。――単純でいいだろ」
「……」
涙で濡れた頬をチャスは上げた。こんなこと言われたのは初めてで。どうしたらいいのかわからない。
「なんだよ、それ。どうしたら、いいんだよ」
それ、単純すぎ。なんか、今欲しいって言われても。
「俺に任せればいいだろう。もう、頑張らなくていいんだ、自分の感情に。抗ったり、苦しんだりしなくていい」
チャスは、目を落とした。そんなことしたことない。目の前の感情の塊を避けて通って。辛くなりそうだったら、ぼーっとして。そうやって生きてきたのに、それができなくていま、どうしていいかわからなくて混乱してる。
「俺と普通に話して、傍にいて。苦しくなったら漏らして、その感情は俺が引き受けてやる。それでいいだろう」
「それってさ。俺の今の感情に、つい、言ってるだろ」
よく女の子が弱ってるときに、男がつい助けたくなって言っちゃうセリフじゃん。
――少しずつ感情が冷静になってくる。
「……ごめ。すっごい面倒なこと言った」
すがる女の子と一緒じゃん。んで男が支えられなくなって、エンド。そんな面倒な奴になりたくなかったのに。
「めんど―な奴にはなりたくない。あとで飽きてもいいけど。遊び、でもいいけど」
ミカエルの開く口にもう一度繰り返す。
「俺、やなんだ、めんどーな奴にはなりたくない」
「面倒なものか!」
ミカエルがぐっと奥歯をかみしめて、まるで怒ってるかのようだ。
「飽きもしない、遊びでもない!」
ミカエルは吼えるように言う。その声に、距離が近づいたり、遠くなる。まだ手を離さない、強く握って血流が止まりそう。放せって言いかけたけど、ミカエルの視線が強くてタイミングを逃す。
その目の中を覗いていると、不意に思い出す。
あ、そうか。って思った。母親にずっと面倒かけたくなくて。部屋の端っこで、面倒だって思われないようにしてた、俺。
手を煩わせたくない。そうすれば――居てもいいって言われそうで、思われそうで。
めんど―だって思われたら、捨てられる。
なんだよ、俺やっぱり、めんど―な子と一緒じゃん。
「チャス、チャス!?」
ミカエルがいきなり茫洋とした自分の目に驚いたのか、肩を掴んでくる。なんだよ、痛いな。
「俺、めんど―って思われるの嫌なんだ。俺、のこと――」
そうしたら、邪険にするだろ。そんな感情に、セリフが浮かんで、さすがに苦笑いが浮かんだ。なんだこれ、悲劇のヒロイン?
「俺はお前のことを――俺のモノにしたい。正直……俺だけのものにしたい。師団の者が来た時……嫉妬した」
「は、あ?」
なにそれ。それから、あ、っと思う。センセとの会話?
あの時のミカエルの微妙な顔を思い出す。あんなんで、嫉妬とか何だよ。
「お前、独占欲強すぎだろ」
センセのあの会話で、どこに嫉妬すんの?
「飽きない、ずっと大事にする、そう感じられないならそう言ってくれ。もっともっと大事にするから」
なんだよコイツ。必死で余裕なんて全然ないじゃん。チャスは寂しげに笑う。その顔にミカエルが顔をこわばらせる。
「俺、全然いいとこないぞ。欲しいなんてアンタの勘違いだと思うぞ」
「そんなことはない。欲しい、今だって十分欲しい。もし本当に行くなら――今ここで押し倒す」
「は、ちょ……待てよ」
「待たない。わからないなら身体に教え込む」
ずりずり、と前に足をすすめられて。自分は後ろに下がるしかない。やばい、こないだみたいに押しきられる。
「おま、ホントにケモノだな!」
「獣だ。それはわかってるはずだ」
「おまっ、お前が本気出したら俺が壊れるだろ!!」
獅子だぞ! こないだはまだ手加減してたのは知ってる。でも今は、そーいう話じゃなかっただろ。
「手加減はしない。それでとどまらせるならば」
踵が当たるのはベッド、このままじゃ押し倒される。
ちがうって。今晩呼んだのはそーじゃない。そんなこと漏らすためでも、スルためでもない。
ベッドに倒れ込んだチャスの上に覆いかぶさった獣に焦る。けれど、ミカエルは何もしてこなかった。ただ抱きしめていた、強く。そして何度も髪を撫でる。
「お前が――こうやってしてもらえなかったのならば、何度もする。これから」
「……」
「俺が愛してやる。それでもだめか?」
「俺、愛なんてわかんねー」
「確かにな。愛という形はない。ただ――今の感覚はなんだ?」
抱きしめられている。重い。今までに得られなかった。女の子を抱きしめるより、抱きしめてもらう方が楽、なのかもしんない。今の自分には、女の子を支えるのは無理だから。
「……重い、
ミカエルの喉が笑う。獣の笑い方なのだろうか、太い喉から出てくる音がうらやましい。立派な喉仏を持つ友人が昔はいいな、とも思っていた時期もある。
「何を見ている?」
「太い首だなって。俺はねーから」
「なら、俺のものをお前のものにすればいい。俺にはないものをお前は持っている。例えば……俺はお前を可愛いと思う」
「むかつく」
そう言いながらも、声を出すたびに動く太い喉が不思議だった。何でこんなに近いの?
「……」
「嫌じゃなきゃ、抱きしめられてくれ。それから、考えてくれ。大事にさせて、くれ」
しばらく目を閉じる。こうやっていると――母親のことを考えないで済むんだな、と思う。それは、とても心が楽だった。区切り、になるのかも。
考えていたこと、少し進んで、スイッチを入れてもいいのかもと思った。
あのさ、とコイツの腕の中で声を出す。
「俺は――決めたんだ。だから妖精界に行く」
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