第3話.獣の相手は美”女”だってば
ドアが閉じ振り返ると、エレベーター内の質量を占めた男が息をつくのがやけに響いた。ため息というか、安堵というか。
「俺の方がため息つきたいんだけど」
「悪かった」
「――それ」
彼がチャスの方を見てくるから、眉を寄せる。あまり苦情は言わない自分だが、さすがに気になる。
「悪い、とかすまない、とか言われてバッカの気がする」
「……まいったな」
彼は今度はそう言って、髪をかき上げた。綺麗にセットした前髪が崩れて、仕事モードじゃなくなっている。
一応他にも言葉のバリエーションはあったんだ。
(参ったとか、すまないとか、なに?)
「――食事に行かないか?」
「は?」
訊き返した声はワンテンポ遅れた。俺? とか、なんで? とか。また頭の中が疑問符で満ちる。
「――さっきの。女除け?」
「……なぜ」
飯に誘われて意味が不明。
向かっていくのは地下三階の駐車場だ。もしかして既に車に向かっているの? 拉致じゃん。
「ナンシーとか。まだ未練ありそーだし。あの状況で俺を連れ出すの変でしょ」
「変か?」
「ああいうのは、女の子にやってよ。もしくは秘書に」
派手に登場して不釣り合いな相手を食事に誘うとかシンデレラストーリーじゃん。虫よけじゃなくて何。
それなら秘書に店を予約させて、適当な相手を探し出してもらえばいいじゃん。
「昨日の詫びをしたかった」
「いいよ。すべて解決。契約については師団と話し合う、謝ってもらうことないし」
地下に下りると密閉されたコンクリートの圧迫感と排気ガスが満ちた駐車場独特のにおいが立ち込めている。
「俺、ここで帰るし」
「店を予約してある。食べにいかないか」
背を向けたままチャスは振り返る。上流階級の王様と、ただのバイトの格好の自分。どうしたって予約するような店で侮られるに決まっている。
「そんな堅苦しい店じゃない。肉、食べたくないか?」
正直、腹は減っている、めちゃくちゃ減っている。昨日のままの冷蔵庫は何も入ってないし。ここの社内食堂は高い。いつもは適当にパンにハムとチーズを挟んで林檎を持ってくるのに、それさえできなかった。
「……肉、なら」
一人で部屋に帰ると、また母親のことを考えてしまう。仕事中もずっと住所を調べたくなる衝動が沸き上がってくるのを抑えていた。だから、応じてしまった。
「決まりだ」
彼の車のライトがロックが解除されて光る。先へ行く背を見送りながら、チャスはふらりと身体を揺らした、膝が崩れて不意に自由が効かなくなる、目の前が暗くなった。
「――おい、チャス!」
片頬を軽くたたかれて、意識を取り戻す。次の瞬間、肩から身体を担がれていた。
「気分は? どうした? 持病は?」
「あー平気」
「平気なわけないだろう!」
深い声が腹に響く、身体にふれているとびりびりくるんだけど。
そのままレンジローバーに担ぎ込まれる。こんな座高が高い車に背伸びもせず男一人を軽々と寝かせるってどんな背の高さと筋力だよ。
肩を外し、後部座席に頭から足まで座席上にまっすぐに寝かせられる。
なんで通勤にこんなの使ってるんだ、と思う。翠に銀のコーティングの美しいフォルムはスポーツタイプ。スピードマニアか? ならお高いポルシェとか買えよって思ったけど余計なお世話か。
もしくは運転手付きマイバッハとか。
まだ貧血が治らないチャスが顔の前に腕を翳すと、ミカエルは後部座席にあった自分のジャケットをチャスの身体にかける。
「病院行くぞ」
「……やめろよ」
思ったより、情けない声がでた。全然声が出ない。
「言い訳は聞かない」
「いいって」
エンジンがかけられる、本気だと知って慌てる。
「だから――空腹だって。それでだって」
彼が、サイドブレーキをかけて、チャスを振り返る。
「……いつから食べてない?」
「……」
再度、目線で鋭く問いかけてくる。これじゃ逃げられないし、前にも進んでもらえない。
「昨日の昼から」
「――夕方には家に帰った、のか? 寄り道は――どこもしてないのか。外で食べるとか」
寄り道ってなんだよ。成人の男だぞ。
外で食べるが、寄り道? ――なんかコイツの聞き方、変な言い回しだな。もうひと含みありそう。
ハンドルにかけた指が神経質にハンドルを叩いている。自分の答えを待っていて、怒ったような顔。そういや昨日も職員を見据えていたけど、コイツ心配になると視線が強くて怒ってるよーな顔になるのかも。
なんだか、妙に過保護。
「熊」
「なんだ?」
「違うな。獅子? 金茶の髪が逆立ってるし、せっかくセットしてたのに」
お行儀のよいスマートな獅子が髪を乱して、金茶の目をランランと輝かして怒っている。言い当てた自分に笑った。
「――話を逸らすな」
「だから――帰って寝て起きたら、何もなかった。うち何もないから」
「外食とか買い出しに行けば――行かないのか?」
チャスは向きを変えて上を見上げる。すっげ―車、と呟く。俺のベッドより柔らかいじゃん。スポーツカーなのに、すっごい広くて、地面から浮いている感じがする。
「――車内に売店や食堂もあるだろう」
「――気が乗らなくてサ」
どーしても外で物を買うのは贅沢だって気がして、社会人になっても未だにできない。コンビニも外食も。社内のコンビニはオーガニック系で高いし。
「食事の補助はでているだろう?」
それも送金のために溜めていた。――全部意味なくなったけど。
「正直、腹に入れるより金の方が確かじゃん」
「どういう意味だ」
「後に残る、てこと」
食べたら消える。金は残る、そんだけ。
「――最後に何を食べた?」
チャスはむくり、と起き上がった。そしてドアに手をかけた。
「――気分治ったから、もう帰る」
「おい」
慌てて、運転席から降りてチャスを追いかけてきたミカエルにチャスは薄く笑った。肩にかける手を上から押さえた。
「そういうの、好きな子にやってあげなよ。――誰でも喜ぶんだから」
なんで興味を持たれたのかよくわからないけど。
そう言って顔を見上げた途端、襟を引き寄せられて、次の瞬間には唇が重なっていた。
え、と思った。相手は身をかがめて、目を閉じている。金茶のまつ毛が揺れている。片方の肩はしっかり押さえつけられてる。あれ、と思う。首がのけぞり、更に乗り上げられてきて、更に唇が深く重なっているような。
一度唇は軽く離れる。なんで、と尋ねようとすると、もう一度こすり合わせるように唇が合わさっていた。乾いた唇が自分のモノをなぞる。
チャスはようやく、あいていた手でその胸を押し返す。動かないから、今度は殴るように突き飛ばす。それでようやくミカエルの身体は離れた。彼が大きく息を吐く。
チャスは自分の唇を触れて、それからぬぐった。
(俺、今何を――された、んだ)
「――今の、て、なに?」
「キスだ。好きな子にやれっていうから……”誰”でも喜ぶんだろ」
「それって、俺、対象じゃないし!」
「なぜだ?」
なぜって。絶句する、女相手ならば、ってことだったのに。
駐車場の低い天上が迫ってくる。その中ですんごく背が高いボリュームのある
「俺はアンタの対象じゃないし。アンタの対象も俺じゃないって。間違えんなよ、血迷うな」
――近い距離で抱きしめられたら敵わない。だから一歩、二歩と下がりながら、警戒して隙を見せないように目を見ていたら、なぜか相手は傷ついているような瞳だった。
”誰でも喜ぶ”、がまずかった、と気づいたけど。訂正は入れない、一度出た言葉は消えないから。
悪かったは言わない。それを言ってどうすんの。今更だ。それは関係を立て直すことだから。
自分の望みは、ここで関係を断ち切ること。
そう思いながら、後ずさって距離を開けていたら、膝が崩れた。あ、と思ったら力が入らなくなっていた。
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