第6話 203号室

 考えた末、警察署に俺はおもむき、「不法侵入の事案がある」と伝えた。

 ――友人が、内見に訪れたアパートの空き部屋に侵入して、なにかよくないことをしているらしい。薬物がらみかもしれない。

 署員にT彦の顔写真をみせたら効果覿面こうかてきめんで、すぐに動いてくれることになった。俺はパトカーに相乗りして現場へ向かった。


 また、Y村の携帯電話にも連絡を入れた。『友人のT彦が203号室に入り込んだようで手を焼いている。警察を呼んだ』と伝えたら、駆けつけると約束してくれた。


 ――女のもとからT彦を連れもどさなくてはならない。

 こうして複数の人間を巻き込んだのは、第一にはひとりで行くのが怖かったからだ。第二には自分の正気を信じたかったからだ。

 そう、俺の気は狂いかけていた。あの地獄から聞こえてきたような不気味な声。よく似た二人の女。203号室の二つの事件……。複数の事柄が俺の心を揺さぶっていた。悪霊の存在を俺は信じかけている。そんなものがいないことを見届けてくれる証人が欲しかったのだ。


 パトカーが現場に到着すると、昼と同じプリウスからY村が現れた。

「なんとも大変なことになりましたね」

 Y村は言った。ひどく疲れた様子で、昼より十歳も老けて見えた。


 二人の警官とY村と俺とで、二階に上がる階段を登った。警官たちは格闘技に打ち込んできたと思われる体格の持ち主で、心強く感じた。

 サイレンの音を聞きつけたアパートの住人たちが降りてきて興味深げなまなざしを送ってきた。


「ドアには鍵がかかっているようですね」

 警官のひとりが言った。

「お開けします」

 ポケットからY村は鍵束を取り出した。


 カチャッ。枯れ枝を折るような音とともに鍵がとかれた。俺は息を飲む。警察官がドアノブをつかんで、ドアを開けるのを見守った。


「電気は通っていますか?」

 警官がたずねた。

「いいえ。いまは電力会社に止めてもらっています」

 Y村が答えた。


 懐中電灯を手に警官は部屋のなかへと足を進めた。Y村が続き、それから俺が続いた。Y村がぶつぶつと何かを言っていた――大丈夫大丈夫そんなモノ存在しないただの噂話だ違う違うそんなことはない嘘だそんな話は違う違う存在しないあいつはもう死んでいるんだ違う違う存在しない大丈夫大丈夫……。

「Y村さん?」

 俺の問いかけをY村は無視した。


「どなたかいますか」

 警官が声を張り上げた。

 なんの反応もなかった。玄関で靴を脱ぎ、俺たちは居間へと足を踏み入れた。


 懐中電灯の頼りない光が壁を床を天井を照らした。なにもなかった。入居者のいない空き部屋そのものだった。そこには冷蔵庫もなかったし、ビニールプールもなかった。ビニールプール……もしかしたら俺が今日見聞きしたものはすべてが夢幻ゆめまぼろしだったんじゃないだろうか。


 となり合う部屋に警官が足を踏み入れたその瞬間、悲鳴が聞こえた。

 警官は引き返してきて、すごい勢いで俺の前を横切った。

「O塚、どうしたんだ!」

 もう一人の警官が懐中電灯をその方に向けた。見れば、O塚という警官が台所のシンクに向かって腰をくの字に曲げ、吐瀉物としゃぶつをまき散らしていた。 


「地獄だ! 地獄だ!」

 口の端から唾液の糸を垂らしながらO塚は叫んだ。

「あああああああっ!」

 部屋から別の叫び声。Y村の声だ。


「どうしたんだ、何があったんだ! 扉の向こうに何がある!」

 その警官は歯を食いしばり、立ち上がった。俺はその背中を追いかけ、部屋に入った。ツンと鼻をつく甘いにおいが俺を出迎えた。


 警官の懐中電灯が部屋の中を照らし出した。

 俺は見た。

 そこにはビニールプールが――昼にのぞき見たビニールプールがあって、なかを赤黒く密度の高い液体が満たしていた。プールのふちも床も天井もその色がこびりついていた。

 ビニールプールには白いボールが浮かんでいた。いや、ボールなどではなかった。T彦だった。


 急に視界が下がった。俺は腰が抜けたのだ。変わり果てた姿の友人と目があった。T彦は笑っていた。まるで性の快楽を享受するかのような喜悦の笑みを顔いっぱいに貼りつけていた。


 俺は叫ぼうとしたが、できなかった。二本の腕に後ろからはがいじめにされたのだ。


「U村くぅん」

 壊れた笛の音のような声が耳朶を切り裂いた。

「あいたかったよぉ」

 冷たい体を背中に押し付けられた。それと同時に、腐ったようなひどい臭いが鼻を突いた。


 十本の指が俺の口をつかんだ。指は俺のあごをむりやり上下に開いてきた。

 目の前で警官が失神して倒れるのを見た。その際、懐中電灯はあらぬ方へと飛んでいって消えた。俺は完全な闇につつまれた。


「M姫と遊ぼうよぅ」

 口の中に何かが押し込まれた。ごわごわした柔らかいもの。カスタードクリームのような感触の物体がこびりついている。鉄さびの味わいが口腔に広がる。

 吐き出そうとしても、強い力で口の中に押し込まれる。息がふさがれ、俺は呼吸のしかたを忘れた。そして視界が暗転した。


 意識を取り戻したのは、あれからどのくらい後だったんだろうか。

 その時には、部屋にいたのは俺と警官、それからT彦の亡骸なきがらだけだった。

 T彦から目をそらし(見ればまた気を失ってしまいそうだったから)、俺は携帯電話の明かりを頼りに部屋の外へと向かった。途中、ブツブツうわ言を言っているY村とすれ違った。彼を思いやる心の余裕は俺にはなかった。


 外には大勢の人間がいた。俺の姿を見るなり、そいつらは悲鳴を上げ蜘蛛の子を散らすようにいなくなった。

 俺は、口の周りや肩にべっとりとついている汚れの存在について思い出し、それから口に突っ込まれているものの存在を思い出した。その端をつかんで引っ張り出した。紐状の物体で、俺の唾液にたっぷりと塗れており、所々赤錆のような色で染まっていた。

 広げてみると、それはビキニのブラジャーだった。

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