第2話 のぞき穴

 快速列車で十分もかからない場所に、例のアパートはあった。

 俺たちが着くと、駐車場の白いプリウスから、男がひとり出てきてペコリとお辞儀をした。名前はY村といって、五十代手前ごろ。髪をオールバックにした、紳士な印象の人だ。


「U村さんですね。この方は、お友達ですか?」 

「まあ、そうですね……」

 俺は頬を赤くしながら答えた。

 T彦の格好――真っ赤に染めたソフトモヒカンに、びょうの入った革パンなんて服装じゃ初見の人はビビるよな、そりゃ。


「よろしく、Y村のおっちゃん。物件がよけりゃ俺が買っちゃうかもしれないけど、そんときはヨロシクな!」

 T彦はY村と強引な握手を交わした。

「どうぞお手柔らかに」Y村はハンカチで汗をふきふき言った。


 それからアパートへと案内された。通路脇を彩る、花壇のチューリップとパンジー。壁面には汚れひとつない。気持ちのよい印象だ。

 アパートは三階建てで、ひとフロアにつき三部屋。俺が見学するのは二階真ん中の202号室だ。Y村が鍵束から鍵を探していると、上の階から子どもの笑い声が聞こえてきた。

 

「親子連れの方も入居していらっしゃるんですね」

「その通りでございます。親子でも快適に過ごせる部屋づくりを目指して設計しておりますので」

「駐車場も満杯みたいですね。もしかして、かなりの人気物件ですか?」

「おかげさまで。お貸しできる部屋はこちらで最後になります」


 鍵が開けられ、俺たちは部屋の中に足を踏み入れた。


 部屋の中は、外からの印象と違わず、清潔で素朴な感じだった――この印象はいまとなっても変わっていない。

 ウォークインクローゼット付きの3LDK。ひとりで暮らすには広すぎるほどで、家賃を考えるとお得なことは間違いなかった。


 Y村が声に熱を込めて説明するのを聞きながら、俺は部屋の細部まで見て回った。ベッドやサイドボードをどこに置くか具体的なイメージを頭に描きながら。

 この間T彦は飽きてしまったようで、あっちこっちうろうろしていた。まったく邪魔なやつだ。


 部屋の賃貸契約を申し出ようとした瞬間、俺の声は携帯電話の音にさえぎられた。Y村は一礼して、俺の声の届かない方へと移動してしまった。「T田不動産のY村でございます。あ、これはこれは――」。


「おい、U村!」


 T彦が姿を現した。頬はつやつやと赤く染まり、息を荒げていた。T彦は自分の唇に人差し指を当て、電話するY村の背中に向かって視線を投げた。のジェスチャーだ。


「なんだよ、一体?」

「ちょっと来い。すげえものがあるんだ」


 そう言って身を踊らせると、ウォークインクローゼットのなかに入り、俺に向かって手招きした。


「ここは遊び場じゃないんだぞ。この年になってなんてゴメンだからな!」

「そんなくだらねえことしねえよ! いいから来いって早く早く!」


 ウォークインクローゼットというのは大雑把に言うと、ひと一人横切れるスペースがあるほど広いクローゼットのこと。中ほどに通路があって、その脇に収納棚がある、そんなイメージ。

 入居者のいないクローゼットは当然のことながら空っぽで、けっこうな面積がある。棚をとっぱらったらダンスぐらい軽く踊れそうだ。


「ここだよ、ほら、見てみろって」

 

 クローゼットの奥で、T彦は壁の一点に指を向けていた。そのダークブラウンの壁になにか輝くものがあった。

 近づいた俺の影がかかると、は消え失せ、真っ黒な穴へと変貌した。

 ――穴?

 T彦は俺にうんうんとうなずいて見せた――のぞき穴だ。


「ちょっと、待てって。これやばいだろ。となりの部屋の――」

「シーッ! いいから見てみろって!」

 興奮した様子でT彦が言った。


「倫理的にマズイだろうが……」

「見ろ!」

 つばを飲み込む。それから俺はT彦の声に従った。

 好奇心というものには勝てなかった。他人のプライベートをのぞくというくらい欲望が倫理感をおさえ込んだのだ。

 音を立てないように壁に体をつけ、その小さな穴に片目を当てた。

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