(10)


 サロンから出ると、辺りはとっぷりと闇に覆われていた。いまだ復興中の銀座の町の灯りは少なく、月明かりの下にバラック建築の武骨な黒い影が落ちている。


「いやあ、見事だったよ」


 当麻は酒も飲んでいないのにご機嫌な足取りで、手の中のステッキをくるくると回す。藍次はその斜め後ろを歩きながら、「何がです?」と聞き返した。


「繋いだ手の入れ替えを暴いた時さ。君なら気づくだろうと思ったけれどね」

「そりゃどうも。でもあの仕掛け、あんた最初から知ってたでしょう」

「ああ、よくある手だからね」


 やはり知っていたか。藍次に話を振った時の口ぶりからしてそうだと分かったし、交霊会に関する仕掛けの大半を知っていると当麻自身も言っていた。


「だったら、わざわざ俺を連れてこなくてもよかったんじゃ?」

「いや、あの赤いインクの仕掛けは本当に見事だった。まるでフーディーニのようだったよ!」

「ふーでー……?」

「フーディーニ。ハリー・フーディーニさ。知らないかい? アメリカで有名な奇術師だよ。君のように脱出術が得意で『脱出王』の異名を持つ。奇術師としてまだ売れていない頃には、サーカスで危険な技を披露したりしていたというそうだから、まさに君のようじゃないか」


 藍次は、洋子が国外から取り寄せている雑誌の一つに、そんな名前があったことを思い出す。

 脱出王。なかなかいい響きだ。だがしかし、『売れていない』は余計である。こちとら、曲芸団の立派な稼ぎ頭で売れっ子天才奇術師なのだ。

 藍次の不満をよそに、当麻は楽しそうに話を続ける。


「フーディーニは、インチキ霊媒師のトリックを暴くのに長けていてね。彼らの詐欺をどんどん暴いたものさ。その中の一つに、面白いものがあるんだよ。楽器を使った心霊ショーの話をしただろう? 『暗闇で霊にトランペットやギターを奏でさせる』という霊媒師がいてね、フーディーニは一般人を装って交霊会に参加した。そこで何をしたと思う? 部屋の照明が落とされてすぐに、闇に紛れて楽器に煤を塗りたくったんだ! 会も半ばを過ぎた頃、フーディーニはおもむろに部屋の照明を点けた。そうしたら、唇と手が煤で真っ黒に汚れた霊媒師の姿がさらされたってわけさ」


 それはまた、ずいぶんと間抜けな姿だったであろう。ステージ・ショーが生業の藍次としては気の毒に思う反面、その程度でばれるような芸でよくぞ交霊会をやっていたなと呆れもした。

 当麻は左手を右手で指さしながら笑う。


「君の赤いインクは、フーディーニの煤と同じさ。おかげで、彼らは言い逃れができない状況になったからね。直前に見抜いて証拠となるように罠を仕掛けるなんて、さすがだよ」

「あー……あれは……」


 藍次は思い返しつつ、くつりと喉の奥で笑う。


「ハッタリですよ」

「……ん?」

「あんたと違って、俺は心霊ショーに参加するのは初めてですしね。さすがに相手が奇術を始める前から見抜くのは無理だ。ま、手の握り方を指示してきた時に予想はついたんで、そこから確認して入れ替えのタネは分かりました。けど、あらかじめインクを仕込むのは無理ですよ」


 藍次の告白に、当麻が足を止めて振り返る。きょとんと小首を傾げる様子は、今まで藍次が見た中で一番無防備で、子供のようでだった。


「え? じゃあどうやって……」

「インクを付けたのは、もっと後です。あんたが石盤の仕掛けを話している間さ」


 藍次は身の回りに、いつも奇術のタネを仕込んでいる。

 胸元のブローチの中には、小さく折り畳んだ紙の花が詰まっている。髪のリボンを端から解けば、細く長い糸になる。ハンカチーフは布が三重になっており、端を摘まんで一振りすると大きな布になる仕様だ。そして指輪には、赤いインクが入っていた。これは仕掛けナイフの血糊代わりや、コップの水の色を変える奇術に使うことができる。

 当麻が説明している間、藍次はテーブルの下で左手の甲にインクを付け、右手の指で伸ばしておいた。あたかも手が握られたときにインクの色が移ったと思わせるためだ。


「ネタはばれている状態だ。仕掛けを見抜かれた詐欺師が、そこで素直に手を上げるわけはないですからね」


 藍次の思惑通り、霊媒師の神納は左手を見せることなく逃げ出した。

 そこを藍次はすかさず捕らえ、揉み合っている最中に神納の左手に赤いインクを付けた後で、その手を掲げて見せた。


「あの霊媒師、ご丁寧に白い手袋を着けてくれてたから助かりましたよ。布越しじゃあ、インクがいつ付いたかなんて分からないでしょうからね。しかもあの場でちょうど逃げてくれたおかげで、またとない証拠になったもんだ」

「……君って子は」


 藍次の種明かしを聞いた当麻はしばらく呆気に取られていたが、やがて小さく吹き出した。


「はははっ、大したものだよ! やっぱり、君を連れてきて正解だ。どうだろう、今後も一緒に心霊現象の調査をしないかい?」

「……」


 今まで藍次は、当麻の誘いを即決で断ってきた。

 しかし今回はすぐに返答せず、じっと当麻を見やった。視線に気づいたのか、当麻が訝し気に尋ねてくる。


「どうしたんだい、藍次君。もしかして引き受けてくれる気に……」

「なあ、当麻先生。あんたはどうして、こんな研究をしているんです?」

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