(3)
駆け寄ってきた当麻が驚くのも無理はない。藍次は今、軽い変装をしていた。
いかにも学生らしい書生姿という格好だけでなく、厚いガラスの眼鏡を掛けて、美しい黒い瞳を歪に見せていた。長い髪はまとめて学生帽に入れてあり、頬には脱脂綿を含んで輪郭を少し変えている。
そして、いつもはぴんと伸ばしている背を少し丸めて、自信なさげに目線を落として、ぼそぼそと喋る。
たったそれだけで、藍次の印象はがらりと変わった。今の自分は野暮ったい眼鏡姿の、冴えない学生だ。
もっと本気になれば、白い肌に茶色の顔料を塗って肌色を変えたり、鼻筋や頬骨に影を付けたりして、顔全体の見た目を変えることができる。そばかすや染み、皺をつけ足せば、老人に早変わりだ。綺麗に白粉を塗って化粧をすると、妖艶な美女にも清楚な少女にもなれる。
老若男女になりきる芝居は舞台で培っており、藍次の変装の腕前は曲芸団でも随一で、自分でも自信がある。
「いやあ、これはまるで別人だ」
感心する当麻の後ろで、イネが「坊ちゃん、玄関でいつまで待たせているんですか」と注意する。
肩を竦めた当麻は、玄関からすぐの扉を開いて藍次を招いた。
そこは応接間で、これまたモダンな内装の洋室だった。絨毯が敷かれ、中央にソファとテーブルのセットがある。花瓶の置かれた出窓からは柔らかな日差しが差し込み、白いレースのカーテンが眩しい。
窓のない方の壁には西洋の風景画が飾られ、ガラス扉の本棚には洋書が並び、部屋の隅には蓄音器まで置かれていた。
てっきり、心霊先生らしく、お札や呪いの藁人形などが飾ってやしないかと思っていたが、これもまた拍子抜けだった。
「なんだ、頭蓋骨でも飾っているかと思ったのに」
「そんな物を置いたら、イネに叱られてしまうよ」
どうやら、よほど女中に頭が上がらないようだ。掴みどころのない当麻の弱みを知り、藍次は少し満足する。とはいえ、抱える鬱憤が晴れたわけではない。
藍次はどかりとソファに座って腕を組んだ。
「それで、俺に何をさせたいんです?」
さっそく用向きを尋ねる。
団長から聞いた〝お使い〟の内容は、『藍次を当麻の助手として貸し出す』というものだ。
たしかに以前、当麻は藍次に助手にならないかと誘ってきた。もちろん、その場で藍次は断ったが、まさか団長経由……藍次が断れない形で仕掛けてくるとは。
とんだ不意打ちを食らったような気分だ。舞台に出られなかった鬱憤も加えて、藍次はにっこりと笑顔を作る。
「さっさと終わらせて帰りたいんですが」
「まあまあ、まずはお茶にしようじゃないか」
当麻は藍次の怒りを込めた笑顔に気づいていないのか、あるいは気づいても流しているのか、呑気に扉の方へ向かう。
余裕の態度が癪に障る。藍次が眉を顰める前に、当麻は目を輝かせて尋ねてきた。
「藍次君、紅茶は好きかな? イギリスから取り寄せた、とっておきの茶葉があるんだよ」
好きも何も、藍次はそもそも紅茶を飲んだことが無い。珈琲は一度飲んだことはあるが、苦いだけで美味しくなかった。普段飲みなれた番茶が一番だと思う。
しかしこれもまた、藍次が答える前に当麻は言葉を続ける。
「イネがパンケーキを焼いているんだ。何せ我が家に学生が遊びに来るなんて、滅多に無いことだからね」
「遊びに来たわけじゃ……」
「藍次君はパンケーキ食べたことあるかい? 焼き立てに蜂蜜をかけたものは最高においしいよ。たっぷりのバターを塗って、砂糖を煮詰めたシロップや、苺や林檎のジャムをつけてもいい。紅茶は何が良いかな。ミルクを入れて蜂蜜で甘くしたキャンブリックティーはどうだい? パンケーキによく合うんだ、これが」
当麻が扉を開くと、廊下から香ばしく甘い匂いが漂ってきた。食欲をそそる匂いに、藍次は文句を言おうとしていた口を閉じる。
「……」
「じゃあ、準備してくるから少し待っていてくれたまえ」
当麻はそう告げて、うきうきと部屋を出て行った。
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