(2)


 ***



「はあ……」


 見事な秋晴れの空を見上げて、藍次らんじは溜息を吐いた。


 空気は冷たくも日差しは暖かい。こんな天気の良い休日には、行楽に出かけたくなるものだ。

 帝都・東京の一大行楽地の浅草公園では、参道にたくさんの出店が並び、いっとう賑やかな六区では活動写真館に行列ができる。公園の一角に張られた新楽しんら曲芸団の天幕も、きっと賑わっていることだろう。

 そう、つまりは稼ぎ時。

 新楽曲芸団の人気奇術師〝青藍〟の、申し分ない活躍の場である。

〝青藍〟こと藍次は、大勢の観客の前で自慢の奇術の腕を思う存分振るって、客のアッという顔を見るのが楽しみだった。


 だと言うのに――


『藍次、明日お使いに行ってくれるかい?』


 前日の夜、藍次は新楽曲芸団の女団長に呼び出されて告げられた。


『明日は演目があるだろ』


 藍次は思いっきり眉を顰めた。目上の者に対してぞんざいな言い方をする藍次に、女団長は気にした様子もない。

 何しろ、新楽曲芸団の団長を務める洋子は、藍次と血の繋がりこそないが、母親のような存在だ。洋子は藍次の母・青子の親友であり、母亡き後に藍次を引き取って育ててくれた。もっとも、洋子は母のように藍次を甘やかしはしなかったが。

 そもそも新楽曲芸団には、藍次を含め、親のいない子供や親から売られた子供が集まっている。幼い頃から裏方の雑用をし、曲芸を仕込まれて育った皆は共に生きる仲間であり、家族でもあった。

 それをまとめる団長ともなると、まさに一家の大黒柱。

 肝の座った女傑で、先代から団長の座を譲り受けて(というより勝ち取って)からは興行を次々と成功させ、人気を確実なものにしていた。

 洋子は赤く塗られた唇に笑みを浮かべる。


『大丈夫さ。明日の演目には新しいのを入れ込むから。だから“青藍”はお休み』

『はあ⁉ なに勝手に……』

『出し物の決定権があるのは誰だい?』

『……』

『ま、新しくてとびきり面白いネタがあるっていうなら、出してあげてもいいけどね』


 客の前で披露する奇術のネタの半分以上は、藍次が考案する。先輩たちから習った縄抜けや鍵開けなどの技術を組み合わせて行う脱出劇が、藍次の十八番だ。

 それ以外にも、手の中の物を一瞬で消したり別の物に変えたり、照明を落として見えづらくした細い糸を使った空中浮遊などはやってきたが、新しく、しかも面白いものとなると早々には思いつかない。

 それに、どうせ披露するのなら、とびきり良いものを。

 洋子の方針であり、彼女に育てられた藍次にも染み付いた矜持だ。

 人気の芸を真似した二番煎じや派手なだけの見掛け倒しの芸は、最初こそ受けたとしてもすぐに飽きられる。娯楽が増え、人気の移り変わりの激しい浅草で生き残るのは大変なのだ。

 中途半端な芸は、積み重ねてきたものを崩すだけ。曲芸団の看板に泥を塗るだけだ。

 それが分かっている藍次は、ここで簡単に「ネタはある」とは言えなかった。

 さすがに親代わりだけあって、藍次を黙らせることに長けた洋子は、そうやって『お使い』を命じたのだった。




 ――という経緯で、藍次は浅草からここまで来たわけだ。

 しかし、お使い先がまさか、あの。


「心霊先生ときたか……」


 門に掲げられた表札の『当麻』という文字を、藍次は胡乱に見やった。

 当麻榮介。

 尤学館大学で心理学の講座を持つ彼は、陰で『心霊先生』と呼ばれている。本職のかたわら、心霊現象の研究を独自で行い、大学内外からの奇妙な相談を引き受けているともっぱらの噂だ。

 それが噂ではなく本当のことだと知っている藍次もまた、当麻に相談事を解決してもらった一人だった。

 一応は恩人……であるが、素直に感謝できないのは、藍次にとって当麻という男の印象が『奇妙』の一言にすぎるからだ。

 六尺近い上背に長い手足、彫りの深い顔立ち。三つ揃いのスーツを着た姿はモダンボーイそのもので、見目は良い。

 大学で教鞭を取っていることもあって頭が良く、英国留学の経験もある。実家は裕福で、性格も鷹揚で紳士的とくれば、数多の女性から好意を寄せられ、密かに彼のファンクラブが作られていると言うのも頷ける。

 だがしかし。

 三十路を超えた男盛りの当麻は身を固めることなく、自由気ままな独り身生活を謳歌している。何しろ、見目も性格も家柄も良いのに、彼の趣味嗜好は『心霊研究』。幽霊や千里眼など、普通ならあり得ないことに熱中し、大学では教授陣や学生から遠巻きにされていた。


 そんな男の自宅である。ひょっとしたら、彼の趣味を詰め込んだ、お化け屋敷のようなおどろおどろしいものかも……と思っていたが、外見はごくごく普通だった。

 門柱の向こうにあったのは、二階建ての和洋折衷住宅だ。白い外壁は明るく、灰色の屋根瓦は太陽の光を受けて輝く。小さいながらも手入れのされた前庭には、可憐な撫子や美しい芍薬を咲かせる植木鉢が並んでいた。

 玄関の引き戸の格子には色鮮やかなステンドグラスが嵌め込まれており、まるで銀座のカフェーのようだ。

 おどろおどろしいどころか、お洒落な外観に拍子抜けしつつも、藍次は引き戸を開けて「ごめんください」と声を掛ける。

 しばらく待っていると、廊下の奥から小柄な老女が出てきた。白髪交じりの髪を結い、格子柄の着物に白い割烹着を付けた彼女は、おっとりと尋ねてくる。


「いらっしゃいませ、どなた様でいらっしゃいましょうか」

「田野といいます。あのう、当麻先生はご在宅でしょうか? 約束があるのですが……」


 ぼそぼそと喋る藍次に、老女はつぶらな目を瞬かせた後、頬を緩ませる。


「まあ、まあ、もしかして大学の学生さんかしら。ようこそお越しくださいました」


 皺だらけの顔をいかにも嬉しそうに綻ばせて、藍次を中へと招く。少し待つよう告げた老女は、年齢を感じさせないような軽い身のこなしで二階への階段を登る。


「榮介坊ちゃん! お客様ですよ、田野さんという学生さんですよー」


 声が響いてきた後、二人分の足音と共に階上から当麻が姿を見せた。シャツにベストという洋装姿の彼は、癖のある髪を軽く搔きながら、前を歩くイネに言う。


「イネ、坊ちゃんはよしてくれないか」

「あら、坊ちゃんは坊ちゃんです」


 イネと呼ばれた老女――おそらく女中なのだろうが、彼女は家の主人に対して事も無げに言った。当麻はそれに対し、子供のように口を尖らせて拗ねた表情を浮かべる。

 なるほど、イネの方が強いようだ。

 二人の力関係を観察していると、当麻が玄関に立つ藍次に気づいた。


「ん? 田野……?」


 首を傾げつつ近づいてきた当麻は、しげしげとこちらを見た後で目を瞠る。


「なんだ、藍次君か! 誰かと思ったよ」



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