(18)

  

 ***



 その夜、家からこっそり抜け出した青年は、ある場所に向かっていた。

 人気のない夜道を、さらに人目に付かぬように電灯の無い場所を選んで早足で進む。彼の頭の中は、以前参加した『交霊会』で起こった出来事で占められていた。


 交霊会を開いたのは、大学で『心霊先生』と呼ばれている心理学の講師の当麻榮介だ。

 支倉清一の霊を呼ぶために交霊会を開いた当麻は、実際に奇妙な現象が起き、幽霊らしきものが現れたことに満足しているようだった。

 参加した学生が皆怯えているというのに、当麻は一人だけ平気な顔をしていた。しかも、また交霊会を開くと言うのだ。


『犯人に関することがもっと分かるかもしれない』

『支倉君の友人である君達がいれば、きっと僕らの呼びかけに答えてくれる。ぜひとも協力してくれたまえ』


 当麻の呑気な声が頭の中によみがえり、思わず舌打ちする。

 ――何が交霊会だ。大学講師のくせに、非現実的なことばかり言って。

 内心で悪態をつくものの、ふと脳裏に浮かんだのは、仄暗い夕陽に照らされて浮かんだ人影だ。

 黒いズボンに包まれた細い脚、白く華奢な手首。そして、シャツを染める赤黒い血の色。

 垣間見えた映像が鮮明に思い出されて、ぞくりと背筋が粟立った。一つ思い出せば、繋がった記憶が次々と脳の中で勝手に再現されてしまう。


 指先で勝手に動く木片。

 一文字綴られていく、MURDER、KNIFE、STICK、……STOMACH。

 まるで、一つ一つ罪を突きつけて、暴いていくように。

 消えた蝋燭。すべてを覆って呑み込む闇。誰のものか知れぬ息遣いが、まだ耳に残っている。

 冷たい風。赤い残照。血に濡れた『GOOD BYE』の文字。

 窓の側に佇んでいたのは、顔こそはっきりとは見えなかったが、見間違いようがない。よく見慣れた、彼の姿にそっくりで――。


 脳裏に蘇り、歩調が乱れた。石畳に革靴の爪先が引っ掛かって転びそうになる。


「っ……くそっ!」


 地面に倒れ込むのを何とか堪えた彼は、拳を強く握って自分の太腿を殴りつける。広がる痛みに意識を集中して、こんなこと馬鹿げている、と自分に言い聞かせた。

 ……そうだ、幽霊なんかいるわけがない。

 質の悪い悪戯だ。誰かが清一に扮して立っていただけだ。きっと、当麻がすべて仕組んだに違いない。

 だが、部屋の中には自分を含めて四人しかいなかった。自分が電灯を付けた時も、部屋の中にいたのは確かに四人だけで、扉も閉まったままだった。物置となっていた部屋には隠れる場所もなく、他の人間が出入りした様子もなかった。

 あの『清一』は、一体誰だったのか。

 どうやって部屋の中に入って、そして出て行ったのだろう。

 それに、もしも当麻が仕組んだのなら――


 なぜ、彼は清一が殺されたことを知っていたのか。

 ナイフを使って、腹を刺したことまで。

 刺された本人以外は知らないはずなのに。


 ……ならば、やはりあれは清一の幽霊からのメッセージだったのだろうか。

 いや、違う。きっとあの時、誰かが自分達のことを目撃していたに違いない。そして、その誰かが当麻に教えたのだろう。

 わざわざ『交霊会』を開いて、清一の幽霊の存在を主張した当麻の目的は分からない。奇妙な回りくどい方法で、こちらを脅迫しようとしているだろうか。警察に知り合いがいると言うなら、さっさと話した方がいいだろうに。


 だが、とにかく『あれ』はあの場所には置いておけない。もしも当麻や他の誰かに知られているのだとしたら、見つけられる前に隠し場所を変えなければ。

 そして、明日開かれる『交霊会』に参加した際、あの妙な板や木片を使って、偽のメッセージを作ればいい。

 あの日の交霊会の最後に、自分が動かしたように。

 そうだ。霊が文字を示すというなら、邪魔すればいいだけだ。人間の力が霊に負けるはずがない。清一の言葉など掻き消してやればいいだけだ――。


 いろいろと考えを巡らせるが、不安は膨らむばかりで少しも安心できない。何かに追われるように、焦りが青年を突き動かしていた。




 ひたすら前を向いて進む彼の前に、ようやく目的地が見えてくる。

 そこは、建設途中の建物が並ぶ一角だった。

 二年前の夏の終わりに起こった関東大震災。大きな揺れと直後に起きた火災により、本所区や深川区、浅草区や日本橋区など、東京の中心部は壊滅状態に陥った。復興計画で少しずつ街並みは整えられつつあるものの、ようやく瓦礫を片付けた更地や、手が入らずに茫々と草が生える空き地、木の足場が組まれた建設中の建物がそこここにある。

 彼はその中の一つ、大きな会社の社屋が建つ予定地に足を踏み入れた。周囲に足場が組まれ、半分ほどできあがった煉瓦造りのビルディングだ。

 人が入らぬように張られた綱を潜り、ぽかりと空いた黒い口のような、扉のない入り口から中に入り込む。青年は持参した小さなカンテラに火を灯して、入り口付近にまとめて置いてあった用具の中からすきを手にした。

 カンテラに布を被せて光量を抑えながら、建物内を歩き出す。

 窓も扉もまだ取り付けられていないせいで、中には外気と同じ冷たい空気が流れていた。内装はまだできておらず、壁の煉瓦や石材は剥き出しでがらんとしている。ところどころ床も貼られておらず、地面が見えている部分もあった。

 足を踏み外さないように気をつけながら、彼は建物の奥へと向かった。

 やがて、窓のない小さな部屋に辿り着く。金庫室か資料室になる予定だというその部屋は、以前来た時と同じで、まだ床が三分の一程度しか張られていなかった。

 近頃、資材の流通が滞っているせいだと聞いている。また、この会社の社長子息が行方不明になっていて、そちらに掛かりきりになっているせいもあるかもしれない。

 何にせよ、床がすべて張られていなくて助かった。ここから入れなければ、別の場所から床下に潜らなければならないところだった。

 少し安堵しつつ、青年はカンテラを床に置く。

 下の地面に降りて、右手の壁の近くへと進む。屈みこんで地面に触れると、その部分の土は周囲に比べて柔らかかった。

 彼は鋤を構えて、地面に思い切り突き刺した。金属の板と擦れ合った土や小石が、ザクッと音を立てる。

 そのまま、彼は無心に地面を掘り返した。ザクッ、ザクッ、と単調な音が辺りに響く。

 秋の末も近づいた夜気は冷たい。常ならば肌寒く感じるほどだが、彼の額にも首筋にも、大粒の汗が浮いていた。

 ザクッ、ザクッ。

 身体は熱いのに、背筋は時折寒気を感じて肌が粟立つ。彼は熱に浮かされたようにひたすら地面を掘った。

 ハアッ、ハアッ。

 荒い息を吐きながら、流れてくる汗を幾度も拭う。歯を食いしばり、鋤を力任せに土に刺しては引き上げる。掘り返された土が、傍らに積まれて山となっていった。


 ……おかしい。ここに埋めたはずだ。

 もう出てきてもいいはずなのに、まだなのか。


 青年は焦り、穴の周囲を広げるように掘り進める。

 穴の深さは、すでに自分の膝ほどまであった。


 まさか、誰かが掘り返した? 

 それとも、実はあいつは生きていて、土の中から這い出たとでもいうのか。

 そうして、あの時、俺の前に現れたのか。

 そんな訳あってたまるか。

 早く、早く出てこい。


 祈るような心持ちで土を掬い上げた時、何か腐ったような嫌な臭いがわずかに鼻を掠める。

 鋤からぼろぼろと落ちる土の下、ようやくそれが見えた。


「あ……」


 青年は鋤を投げ捨て、大きな穴の中によろめきながら降りる。四つん這いになり、両手を使って土をかき分けていけば、次第にその姿が露わになっていく。

 黒い布に覆われて中身は見えないが、それは確かに彼が埋めたものだった。


「……あった」


 なんだ、ここにあるじゃないか。


 ――あいつは、ここにいるじゃないか。


 安堵に、乾いた笑いが思わず零れた時だった。

 ぎし、と床が軋む音がして、眩しい光が目に飛び込んでくる。咄嗟に目を庇った彼に、何とも場違いな挨拶が掛けられた。


「やあ、こんばんは」


 カンテラを掲げた男が、こちらを見下ろして微笑む。

 彫りの深い顔に綺麗に整えられた髪。長い手足によく似合う三つ揃いの上品なスーツ。中折れ帽にステッキを携えた、銀座でよく見かける紳士然とした男の顔は、見知ったものだった。


「こんな所で何をしているんだい? 古賀君」


 名前を呼ばれた青年は、呆然と男を――当麻榮介を見上げた。

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