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教壇に立った当麻は、黒板に滑らせていた白いチョークを止めた。真面目に板書を写す学生達を見やりながら、机の上に置いていた懐中時計を見やる。
「まだ時間があるから、今日は少し雑談をしようか。君達も興味があるかもしれない、『心霊』に関するものだ」
当麻の発言に、学生達はわずかにざわついた。
心霊先生として知られている当麻ではあるが、心理学の講義でそれを口に出すことはほとんどない。心霊研究はあくまでも当麻の私的な趣味であり、公私はしっかりと分けていたからだ。
心理学は、科学的な手法によって心と行動を研究する学問である。明治に西洋から入ってきた心理学は帝国大学で研究室や講座が開かれて以来、大学教育の教養科目として比較的早くから広まっていた。海外留学で学んだ人々が指導者となり、西洋の知識や技術の導入によって成立し、受容されてきた心理学は、専門雑誌の創刊や学界の創立など着実に国内でも発展を遂げている。
当麻もまた、帝大で学んだ心理学を学生達に教えていた。彼が特に力を入れているのは、フロイトの精神分析学やユングの分析心理学といった深層心理学だ。
深層心理学は人間の心の奥底、下層よりもさらに深い層にある自我では把握できない領域、いわゆる無意識と呼ばれるものを研究する学問である。
「さて、以前ユングについて紹介したが、彼の信条の一つと思われるものに『体験主義』がある。これは『ひとは体験していないことを理解することはできない』というもので、学問上のものというより、彼の信条の上の『経験論』であり、体験を重んじている立場ということだ。
この体験の概念はきわめて広く、夢や空想、そして神秘体験や超常現象なども含まれている。ユングの家系には聖職者や霊的能力を持った人々が多く、ユング自身、子供の頃から非日常な経験や神の技と思しき不思議な体験をしていた。
例えば彼は十歳の頃から、幼い従姉妹を霊媒に仕立てて交霊会を幾度も開いた。少年時代、ギナジウムへ通っていた頃には、天空の神が大聖堂に排泄して破壊するという夢を繰り返し見た。また、大学に入った頃には奇妙な現象と遭遇している。彼が夏休みに部屋で読書をしていると、木のテーブルがピストルの発射音のような爆発音を出して、端から真ん中まで裂けた。その二週間後には、パンナイフが突然破裂したことがあった。
その後年にも、ユングがフロイトと心理学の問題について話している最中、超常現象に出会っている。フロイトの見解に賛成できなかったユングが、腹の底が灼熱状態になったのを感じた途端、本箱の中で爆発音がしたそうだ。二度もね。ユングはそれを『いわゆる媒体による外在化現象』……精神的な存在が、物理的な現象として現れたと指摘した。
これらの経験や体験を通じ、やがてユングは、魂は実在し、それは生命原理であり、時間と空間から独立した知性だと考えた。生命は物質的なものだけでできているのではなく、その奥に異なった生命原理として魂があると論じている。
例えば、私達の身体は、髪や爪や皮膚、血液、筋肉、骨に至り、様々な有機体で構成されている。これらは一定の期間で新陳代謝を繰り返し、人間の細胞組織は七年ごとに新しいものと入れ替わるとされている。
にもかかわらず、我々の人格、意識が同一性を保持し続けているのはなぜだろうか。ユングはここに、人間の肉体、つまり物質的なものとは独立した生命原理があり、これを魂だと考えた。魂は空間と時間から独立し、不滅のものだと推定している。
さて、このユングの考えでは、魂が空間と時間から独立しているとするならば、魂は空間と時間を超越するものであり、それは遠隔作用を及ぼすことができる。魂の空間的な遠隔作用には、精神遠隔操作現象いわゆる『テレキネシス』と、それから精神感応現象いわゆる『テレパシー』がある。これらの代表例として催眠術、生霊や虫の知らせ、千里眼といった透視能力があげられるが……」
当麻はいったん言葉を区切り、教室にいる学生達を見回して、その視線をある場所で止める。
「実はつい先日、僕はユングのように不思議な体験をした」
当麻の唐突な発言に、学生達は顔を見合わせる。興味津々に話の続きを待ちわびる者もいれば、怪訝そうに眉を顰める者もいた。
当麻は視線の先、学生達の中でぽかりと空いた席を見ながら口を開く。
「僕の部屋に、支倉清一君の幽霊らしきものが現れたんだ」
「!」
途端、教室にざわりと驚きの波が立った。
当麻の『幽霊』発言は、少なからず学生達に動揺を与え、しかも、よく知った同級生の名前に、皆は一様に空席を――支倉清一の席を見やる。
学生達のざわめきが大きくなる中、当麻はにこりと笑んだ。
「僕が見たものがはたして、支倉君の魂であり空間的な遠隔作用として現れたものなのかは分からないが、ぜひとも詳しく調べてみたいと考えている。そういえば近頃、支倉君は講義に出ていないようだが、誰か彼の所在を知らないかな? 実は、支倉君に頼まれたんだよ。彼の身体を見つけてほしいとね。だから、知っている者がいたらぜひ教えてくれたまえ。
では、今日の講義はここまで。質問、苦情、そして興味がある者はいつでも僕の部屋に来たまえ。紅茶を用意して待っているよ」
戸惑う学生達をよそに良く響く声でおなじみの台詞を言った後、当麻は資料を抱えて颯爽と教室を出て行った。
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