第19話 マエストロ

 ジュンから渡されたお下がりのカメラは想像よりもずっと容易く手に馴染み、マナカはいつの間にか、暇さえあればカメラをいじるようになっていた。写真の明るさやピントを自動で調節する機能はジュンの手によって予め切られており、マナカは試行錯誤を重ねながら、三日ほどかけてようやくまともな一枚を撮れるようになってきた。



「ねえマナカ、ここで撮ってほしいわ」



 村の一番高台にある展望台から眼下の景色を見つめて、カルラが言う。階段状に広がる白い建物と山々、そして遥か遠くに見渡せる海をバックに振り返った彼女を、マナカはやや緊張した面持ちで写真に収めた。



「どう?」

「¡Qué bien!(いいね)」



 一緒にカメラを覗き込みながらカルラが笑う。なんの変哲もない写真だが、明るさやピントを自分でいじりながら普通に写真が撮れるようになっただけ、マナカにとっては進歩である。



 カルラの普段の様子を撮ってほしいとジュンに言われたのは、セビージャから帰ってきた日の夜のことだった。ジュンはマナカにカメラを渡すと、各部の機能や役割を前回よりもいささか詳しく説明して、使えるようになってほしいと頼んできた。



「同世代の友人の前でしか見せない表情もあるだろうから」

「はあ、」



 会って数日も経たないうちから友人を名乗っていいのかだとか、自分なんかが撮った写真で本当にいいのかだとか、マナカとしては色々思うところがあった。しかしそれはそれとして、カメラをもっと使ってみたいという好奇心は上野でジュンの撮った写真を見た時からあったので、マナカは彼の頼みを引き受けることにした。



 コツさえつかめればカメラの扱いはそう難しいものではなかった。フラメンコの練習に付き合い始めた翌日からことあるごとにカメラを向けていると、カルラの方も撮影に協力してくれるようになってきて、短い撮影期間の割にはバリエーション豊かな写真が集まってきているように思う――もっともそれは被写体の表情や仕草の話であって、撮影者であるマナカの側は、構図や調整のバリエーションなどほとんどないに等しいのだが。



「マナカはジュンの生徒なの?」



 階段状になった石畳を軽い足取りで降りながらカルラが尋ねる。細い通路を暖かい風が吹き上げて、カルラのポニーテールを大きく靡かせた。



「生徒ではない、かな。ジュンは俺の先生じゃないから」

「マナカは写真を勉強しているんじゃないの?」

「そういうわけでもないんだよね」

「じゃあどうして二人は一緒にいるの?」



 マナカは首をひねってしばらく考えた。その様子を、足を止めたカルラがじっと見つめる。



「国外で働いている人に着いて世界中を回るっていう、俺が日本で通っている高校の授業の一つなんだ」

「じゃあやっぱり、ジュンはマナカのmaestro(師匠)だわ」

「……そうかも」



 私にもマエストロがいるわよ、と言って、カルラはセビージャでの暮らしを語り始めた。カルラが働いているのは昔の大衆居酒屋のような店で、料理や酒は全て女将が用意し、他の店員がテーブルまで運んだり食器の片付けをしたりする。ステージでは一時間おきにフラメンコのショーが行われていて、マナカの『maestro』はいつもそこで踊っているらしい。



「男の人なんだけどね、とってもかっこいいのよ」

「男もフラメンコを踊るの?」

「もちろん。女性のキャストもいるけど、うちでは彼が一番人気」



 少し誇らしげな表情でカルラは再び歩きだす。マルティン家の前を通り過ぎ、迷路のように入り組んだ小道を東の方角に進んでいくと、カルラはとある家の前で足を止めた。半地下になっていて、鉄製の手すりの向こうに短い階段がある。下った先に見えるのは、チューリップを思わせる明るい黄色の扉だ。



「Hola!(こんにちは)」



 階段を下り、迷いなく扉を開けてカルラは叫んだ。玄関先でしばらく待つと、マリアと同じ歳くらいの細身の女性がぱたぱたと足音をさせながら姿を現した。



「Bienvenido. Seb está atrás」

「Gracias」



 マナカも「Buenos tardes.(こんにちは)」と挨拶し、カルラの後へ続いて家の奥へ進む。通路の突き当たりには更に地下へと続く階段があり、そこを下ると黄色い照明に照らされた空間が現れた。壁も天井もゴツゴツとした岩でできていて、正面にはちょっとしたステージがあり、そこを囲うように何脚もの椅子が置いてある。



 ここは天然の洞窟を活かしたステージだ。カルラは昔から、この場所を借りてフラメンコの練習をしていたのだという。

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