第16話 夢

「明日は娘さんを迎えに行くんだって」



 マナカの後に続いて部屋のシャワールームを使っていたジュンが、髪をわしゃわしゃ拭きながらそう言った。漫画を読んでいたマナカはタブレットから顔を上げて、「そうなんですか」と相づちを打った。



「興味ない?」

「え?」

「どんな子なのかな、とか」

「ああ……あんまり」



 マナカは昔から他人に興味がわくタイプではない。当たり障りなくコミュニケーションが取れれば、基本的に他人のことを知りたいとも自分のことを知ってほしいとも思わないのだ。普段は空気を読んだ振る舞いを心がけているが、ジュンに対しては不思議と、それほど取り繕う気が起きなかった。



「そう。まあどんな子かなんて、会ってみればわかるか」



 案の定、ジュンはマナカをたしなめることもなく会話を切り上げて、窓際に寄った。窓を開けて濡れた髪を惜しげもなく夜風にさらし、あ、とつぶやいて振り返る。



「虫が入ってくるから電気消していい?」

「いいですよ」



 ジュンは入り口まで歩いて電気を消し、再び窓際に寄って外の景色を熱心に見つめた。月明かりに浮かび上がるその姿をぼんやりと眺めるうちに、マナカはいつの間にか眠っていた。


 ぱん、と、乾いた音が辺りに響き渡る。非日常的であるにも関わらず奇妙に耳慣れたその破裂音を認識して、マナカはまたかとつぶやいた。これは夢だ――いや、今はもう、過去の記憶が無意識領域で反芻された結果なのだとわかる。マナカは今、六歳の自分の体で、かつて生活していたはずの大地に立っている。



 相変わらず空はどこまでも高く、薄水色に澄み渡っていて、そこに手を伸ばすような形で白い塔が伸びていた。マナカは塔が作る大きな影の中に立ち尽くし、目の前で女性が倒れていくのを、スローモーションのようなコマ送りの映像で認識していた。



 女性の顔は扇のようになびく髪に遮られてよく見えない。ただ、かなり背が高く、スラリと細身の女性だということはわかった。その赤髪や分厚いコートの裾から覗く白い肌は彼女が日本人ではないことを示唆している。



 コートを着ているということは、冬だ。もしくは年中寒い地域、少なくとも赤道付近の国ではない。



 晴れているのにどこまでも寒々しい景色に気づいた瞬間、マナカの体はぶるりと震えた。上着の布地を通して突き刺すような寒さが全身を覆っている。そこでようやく、マナカは自分が酷く薄着だということに気づいた。夢の中で新たな発見があったのは初めてのことだった。



 マナカは他にも何か情報を得られないかと限られた視界の中で目を凝らしたが、目の前には倒れた女性の血によって生み出された真紅の海が広がっているばかりだ。やがてその一部が泡を立てながら蠢いたかと思うと、ごぼごぼとおぞましい音を立てながら長いまつ毛に縁取られた眼球が現れ、ギョロリとマナカの方を向いた。



 薄暗くにごった緑色の瞳と目が合う。その瞬間、マナカの体は、今度は恐怖によって震え始めた。振動で大きく歯を鳴らすマナカの目の前で、眼球がうじ虫のように増殖していく。



 その全てに恨みがましい視線を向けられて、マナカはもはや記憶の詳細を探るどころではなくなっていた。目の前の光景から逃れたい一心で全てに背を向けて走り出した時、六角形の薄暗い天井が視界いっぱいに広がった。



「……は、はっ、」



 心臓が飛び出そうなほどの動悸に耐えられず、マナカはベッドの上で上体を起こした。薄暗い部屋に自分の荒い息遣いだけがこだまする。そのまま呼吸が落ち着くのを待ち、恐怖から滲んだ涙をぞんざいにぬぐって、マナカは再び布団の中に潜り込んだ。冷え切った肩を自分で抱きしめるようにして、恐怖の波が過ぎ去るまでの永遠のような一瞬をじっと耐え忍ぶ。



 きつくまぶたを瞑っていても、どんよりと澱んだあの緑色の瞳が脳裏に焼き付いて離れない。たまらなくなって目を開けると、ジュンの広い背中が目の前にあった。しがみつきたい衝動に襲われ、マナカは逡巡する。



「ジュンさん、」



 ためらう気持ちの方が大きくて、結局小さな声で名前を呼ぶことしかできなかった。ジュンは規則正しい寝息を立てたまま起きる気配を見せなかったが、マナカは返ってそのことに安堵し、そっと自分の額をジュンの背中にすり寄せた。そうして目を閉じていると、夢に乱されていた気持ちが不思議と凪いでいき、マナカはなんとか穏やかな眠りにありつくことができたのだった。

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