第15話 あの頃
マナカはジュンの真剣な表情をぼーっと眺めた。伏せられた一重まぶたが熱心に見つめているのは、読み込まれてぼろぼろになった紙の本だ。図書館でも見たことがない表紙なので、あまり有名な作品ではないのだろうと推測する。それでもジュンが読んでいるのなら読んでみたいと思ったし、紙の本に相対する彼の姿勢が記憶の中の父と重なって、いつまでも見ていたいような気持ちになった。
それから五分後、ジュンは不意に顔を上げた瞬間にマナカの視線に気づいたらしく、「なんだ、起きてたの」と照れくさそうに笑った。
「夕食までにシャワーを浴びたければ浴びていいって」
「わかりました」
「どうする?」
「ジュンさんはどうしますか」
「俺はもう少し休むよ」
「じゃあ俺もここにいます」
ジュンは不思議そうな顔でマナカを見た。何かを言わなければいけないような気がして、マナカは慌てて口を開いた。
「あの、父が昔、よく紙の本を読んでいて。懐かしいなと思って」
「へえ。俺が言うのもなんだけど、珍しいね」
「仕事だったんだと思います」
「なんの仕事?」
「わからないんです。父はもう亡くなっているので」
ジュンは視線をふらっと宙にさまよわせて、何か考えるような素振りを見せた。
「前に『断片的な記憶しかない』って言ってたけど、それはいつ頃までの話?」
「小学校入学以前です。だから、十年前の三月までですかね。父が亡くなったのも同じタイミングです」
「……鯨の声が消えたのと同じ時期だ」
マナカは思わず顔を上げた。脳内を探れば、確かに祖母と共にウェイル・ボイスを聞いた覚えは一つもない。昔のことだし、父が亡くなったショックと混乱で記憶が曖昧になっているのだとばかり思っていたが、もしかしたら違うのだろうか。
「マナカが日本に戻ってきたのには、ウェイル・ボイスの消失が関係していたのかもしれないね。当時は世界が大混乱だったんだ」
ジュンはウェイル・ボイス消失時の世間の様子を語った。日本でももちろん戸惑いの声は上がったが、より動揺が激しかったのは、もともと宗教の重要度が高い地域だったらしい。祈りの習慣を失って精神に支障をきたす人や、心の拠り所を失って自ら命を断つ人までいたという。
「『バベル』の世界宗教としての地位を疑い始めた人々が、暴動を起こす地域もあったんだよ。その点日本は穏やかだったから、帰ってこようと思っても不思議ではないよね」
マナカはジュンの言葉に静かにうなずいた。当時から世界中を飛び回っていたであろうジュンに説明されると、その可能性も十分にあり得るような気がしてくる。更に言えば、マナカがウェイル・ボイス消失の混乱を避けるために日本に戻されたのだとすれば、父の死も一連の混乱と関係があったのだろうか。
そもそもマナカは、父の遺体を直接見たわけではないのであった。いつの間にか祖母宅で寝かされていて、目覚めていの一番に、枕元に座っていた祖母から「父さんは死んだ」と聞かされたのである。
「おばあちゃんから話は聞かないの?」
「父が生きている時から疎遠だったようで、詳しくは知らないみたいなんです。小さい頃は色々聞いたりもしましたけど、いつも父は死んだとだけ返されました」
その実、祖母は何かしらの事情を知っているのではないかと疑う気持ちがないわけではない。それでも知らないふりをされてしまえば、あまりしつこく粘ることもできないというのが現状だった。
「なかなか難しいね」
ジュンがちらりと自分のサーベントに目をやった。時間を確認しているようだ。マナカもつられて自分の左腕を見ると、時間は二十二時になろうとしていた。
「そろそろ行こう」
ジュンと共に一階に降り、マリアとレオを交えて四人で食事をとった。昼食がメインになるスペインでは、夜は簡単に済ませることが多い。オレンジのサラダとトマトのスープをゆっくりと食べる間も、マナカ以外の三人はスペイン語で何やら話し込んでいた。おしゃべりは二十三時まで続き、マナカはその間中、なんとも忙しないスペイン語の響きをBGMに、ダイニングの壁にかけられた太陽のタペストリーをぼんやりと眺めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます