第14話 遠く

 マリアはその後、奥の階段を上ってジュンとマナカが滞在中に使う部屋を案内してくれた。マリアが部屋を去り、ジュンと二人きりになると、どっと疲労が押し寄せてきた。



「疲れた?」



 ベッドに腰掛けて靴を脱ぎながら大きなため息をつくマナカを見て、ジュンは可笑しそうに笑った。



「そのうち慣れるよ」



 励ますように付け加えられた言葉にマナカは曖昧にうなずいた。正直なところ、これからの生活が不安でたまらなかった。



「言葉がわからないのがキツイです」



 ぼそっと呟いたマナカの言葉を拾って、窓の外を眺めていたジュンが目線を寄越した。ゆったりとした空気感に救われながら、マナカは自分の気持ちを口にした。



「正直、サーベントがあるから大丈夫だって思ってたんです。でもいざ現地の人を前にすると、翻訳がどうとか言ってられないし、親切に話しかけてくれてるのに理解できない自分が情けない。挨拶とか、簡単な言葉とかは一応勉強したんですけど、それも忘れちゃうし……」



 真藤の研究室で翻訳機能を使わずに電話していたジュンを思い出す。そのすごさも必然性も、今なら十分に理解できる。



「その件に関しては俺が悪かった。お前の気持ちを思えば、事前に様子を伝えておくべきだった」



 隣に腰を下ろしたジュンはそう言って、マナカの顔を覗き込むようにしながら肩を叩いた。マナカは鼻の奥がツンとしてきたのを悟られないよう気を配りながら、リビングルームでタブレットをいじっていた男性の名前を尋ねた。



「彼はレオ。マリアの夫だ。マナカは学生かって聞かれたから、そうだって返しておいた。優しい人だから大丈夫」



 状況が理解できて一安心したマナカは小さくうなずいてから、ジュンに新たな疑問を投げかけた。



「ありがとうございます。あと、この部屋ベッド一つしかないんですけど、俺はどこで寝ればいいんですか?」

「それはごめん。俺と一緒」



 ぎょっと目を見開いて見つめ返すと、ジュンは気まずそうに頬をかきながら視線を逸らした。



「空いてる部屋がここしかないって言われて、急に一人増えた手前、無理も言えなかった。どうしても嫌だったらもう一度聞いてみるけど」



 ちらりと視線が戻ってきて、上目遣いでマナカの様子を伺ってくる。泊めてもらえるだけありがたいと思えば、そういうこともあるだろうと納得する他なかった。そもそも、元はと言えば強引に話を進めた真藤が悪いのだ。



「大丈夫です。見た感じセミダブルですし」



 シングルベッドだったらどうにもならなかっただろうが、西洋人のセミダブルサイズならなんとかなりそうな感がある。ジュンは割合小柄な方だし、マナカもどちらかといえば痩せ型で、場所をとるタイプの体型からは程遠い。



「悪いね。俺はこれで仕事の打ち合わせをしてくるけど、マナカは夕食まで休んでいていいよ。スペインのディナーは遅いんだ」



 また呼びにくるから、と立ち上がって、ジュンは部屋を出ていった。一人で取り残されると、外から聞こえてくる葉擦れの音が妙に大きく感じられた。



 マナカは立ち上がって自分の荷物から写真を取り出した。上野でジュンが撮ってくれた写真だ。しばらくそれをじっと眺めてから、今度は窓際に寄って、ゆったりと暮れていくスペインの街並みを眺めた。窓は狭い裏通りに面していて、正面の部屋は空き家らしい。カーテンのない窓から生活感のない暗い部屋が覗いている。そこから通りに沿って視線を動かすと、段を作りながら下っていく白い家々や遥か彼方の海岸までが細長く切り取られ、一枚の絵のようにマナカの目を楽しませた。



 ずいぶんと遠くまで来たのだと、マナカはその時初めて実感した。画一化された都市とは違って、この小さな村では何もかもが日本と違う。この村にしかない景色があり、人がいて、空気があるのだ。ジュンが切り取って写真に収めているのは、もしかしたらそういう類のものなのかもしれない。ともすれば一般化され、他と区別できないほど均されてしまった、固有のものたち。本来なら人間が当たり前に有しているはずの、他との違い。



 マナカはもう一度、手元の写真を眺めた。ここに映る自分が新鮮に感じられるのは、マナカ自身が気づいていないマナカの一面をジュンが捉え、写真に閉じ込めているからだろう。この写真を見ていると、そわそわと浮き足だった心が落ち着いていくのがわかる。



 どんなに焦って落ち込んでも、結局は今の自分で精一杯やっていくしかないのだと結論づけて、マナカはサーベントでメモアプリを起動した。レポートを書く際に慌てなくて済むよう、普段からメモを取っておくように、というのが、シノからのアドバイスである。



 窓を開けるとゆるゆると生ぬるい風が頬を撫でた。ベッドに寝転がって思考を記録しているうちに寝てしまったようで、目を覚ますといつの間にか戻ってきたジュンが部屋の隅の椅子で本を読んでいた。


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