第11話 甲斐田シノ
そんな調子だったから、夕食の味はよく覚えていない。噂のフィッシュアンドチップスを食べて、「これがフィッシュアンドチップスか」と納得したことだけ記憶している。でもどうやって店から帰ってきたかは不明なので、二十二時前には十中八九寝ていたと思う。そんなマナカをジュンがどうにかホテルまで引っ張ってきてくれたことは明白で、手を引くくらいならまだしも、おんぶでもされていたらと思うと、怖くて詳しく聞けなかった。
「あの、行ってきます」
翌朝、おずおずとホテルの部屋を後にするマナカに、ジュンは布団に潜り込んだままひらひらと手を振った。今日丸一日、ジュンは予定を入れていないらしい。時差ボケの調整と事務仕事の時間にするだとかなんとか言っていた。組織に縛られないというのは本当に自由なのだなと、マナカは眠り足りない眼をこすりながら少し恨めしい気持ちになった。
ホテルを出て、マナカはジュンに教えてもらった道を思い出しながら、駅前のカフェチェーンを目指して歩いた。十時に待ち合わせしている『世話係』との面談のためだ。初めての一人行動に緊張しつつ、表面上は何食わぬ顔をしてロンドンの街中を闊歩する。
「すみません」
目的の店の自動ドアをくぐってきょろきょろと店内を見回していると、背後から声をかけられた。突然聞こえた日本語に驚きながら振り向くと、ずいぶん低いところに、まだ中学生くらいの女の子の頭があった。
「こんにちは。草壁マナカさんですよね?」
桜色のふっくらとした頬に、長いまつ毛の影が落ちている。肩口まで伸びた柔らかそうな栗毛は大きめのウェーブがかかっていて、彼女の幼さをより強調していた。
「世話係の甲斐田紫乃です。よろしくお願いします」
頭を下げた少女をマナカはまじまじと見つめた。
「え、俺の世話係って君?」
「そうです」
「すみません、何歳ですか?」
「十四です」
「ええ……?」
どこからどう見ても中学生だと思っていたら、本当に中学生だった。動揺を隠せずに何度もまばたきをするマナカを残して、シノはスタスタと店の奥に入っていってしまう。
小さな背中を追って四人席に座り、備え付けのタブレットを使ってコーヒーを注文した。ちなみにシノは、ホットミルクとパンケーキを頼んでいた。
「マナカさん、指南役のジュンさんとは上手くやれていますか?」
「はい」
「今日までに困ったことは?」
「特にないです」
「これからの生活に不安は?」
「まあ、大変そうだなあとは思いますけど……ジュンさんも居てくれるのでなんとかなると思います」
シノは「わかりました」と呟いて、手元のパソコンを使って何やら打ち込んでいた。テキパキと動くあどけない指先を、ついジッと見つめてしまう。十四歳にしては小柄なシノは、下手すれば小学生に見えるくらいだ。
「私は附属孤児院の出身なんです」
え、と声を漏らしたマナカの瞳を覗き込むように見上げて、シノは続けた。
「私の歳が気になるんでしょう。初めに断っておきますけど、法律違反ではありませんから。私にとってはこれが勉強なんです」
シノによれば、都立桜庭高等学校附属孤児院の子どもたちは特殊な教育プログラムの下に置かれていて、幼い頃から勉強だけでなく様々な『仕事』を体験するらしい。そうすることで、知識面の豊かさだけでなく人とのコミュニケーション能力や生活力、問題解決能力の育成を図っているようだ。本来、中学生以下の子どもによる労働は法律違反にあたるが、附属孤児院のプログラムは新しい教育を研究するための実験台的な役割も担っており、中学生以下の労働に関しても特別な許可が下りているという。
「はあ、大変なんですね」
いまいちピンとこない様子で相づちを打ったマナカを、シノはじっとりと見つめた。
「そうですね。あなたみたいな人には縁遠い話でしょうが」
少し棘のある言い方に、マナカは小さく眉をひそめる。文句の一つでも言ってやりたいような気持ちになるが、これからしばらく付き合っていかなければいけない相手だからと、喉まで出かかった言葉をぐっと飲み込んだ。
「シノさんはソルブランコにも来てくれるんですか?」
「そうですね。四月の末頃に一度訪問させていただきます。マナカさんのサーベントに記録用のフォーマットを送ったので、その時までに入力しておいてください」
サーベントに通知が来たので、その場でファイルを開いてざっと確認する。滞在期間や場所を記録する欄に続いて、『印象に残ったこと』『学んだこと』『その他感じたこと・考えたこと』と項目が並んでいた。それぞれ三千文字前後という指定があり、マナカは心の中で悲鳴を上げた。
「うわあ、これ、箇条書きじゃ駄目なんですか?」
「駄目ですよ。小論文だと思ってしっかり文章にしてください。多民族共生専攻の場合はこれが出席確認になります。月一回の提出で、成績評価にも関わってくるので、しっかり書いた方がいいですよ。記入例と注意事項も送りますからよく読んで取り組んでください」
シノが言い終えた直後、ワゴン型のAIがコーヒーとホットミルク、パンケーキを運んできて、ボディの上部から伸びる二本のアームで器用に配膳を始めた。マナカの前にはコーヒーが、シノの前にはホットミルクとパンケーキがそれぞれきちんと並べられている。大衆向けの大手飲食チェーンにおいて、AIが調理から接客までを担っているというのは、日本とあまり変わらないようだ。コーヒーの香りがマイクの店とは全く違うことに、マナカは密かに驚いた。
「他に何か質問はありますか?」
「いえ、特には」
「わかりました。もし気になることがあれば私宛にサーベントでメッセージをください。二十四時間以内には対応します。緊急の場合は電話で。まあ、こっちはできるだけ避けてほしいですが」
淡々と付け加えたシノは、後は無言でパンケーキにぱくついた。沈黙が気にならないタイプなのだろう、特にマナカの存在を気にする様子もなく、ナイフで生地を丁寧に切り崩しながら口に運ぶ。そんなシノに合わせて、マナカも無言でコーヒーをすすった。窓から差し込む温かい日差しと周囲の客から聞こえてくる英語の響きが、奇妙なほどのどかに感じられた。
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