第10話 The Britannica

 入国審査を済ませて、空港の地下にあるヒースロー・セントラル駅に向かった。ここからヒースロー・エクスプレスを使って、ロンドン市内のパディントン駅まで移動する。



 羽田と同じようにジュンに手を引かれながら、マナカは浮き足だった気持ちで周りの人間を眺めた。ごちゃごちゃと混雑している構内は人間の匂いが濃い。英語やその他マナカのわからない言語に混ざって、時々思い出したように日本語が聞こえてくる。大きなスーツケースを引きずった観光客が大半の中、リュックサック一つしか持たないマナカとジュンは、かなり身軽だった。



「荷物、こんなに少なくて大丈夫だったんですか?」

「大丈夫だよ」



 電車の到着を待ちながら、ジュンは振り返ってそう言った。確信の込もった口ぶりと眼差しにたじろいでしまい、マナカはそれ以上問いを重ねることができなかった。



 眠りそうになるたびにジュンに小突かれながら十五分ほどで到着したパディントン駅は相変わらずの混雑だが、立ち並ぶショップの間を抜け、エスカレーターを上って地上に出ると、ラフな格好をした現地の人の割合が増えてきた。アーチ上のガラス屋根からは午後の黄色っぽい日差しが届き、広い構内を明るく照らし出している。



「あ、買い物とかしたかった?」



 駅の出口に向かいながら、ジュンが思い出したように言った。自分は全く興味ないけれど、という顔をしていて、なんだか面白かった。



「買い物は大丈夫です。でもコーヒーでも飲まないと、立ったまま寝そう」



 あはは、と笑って、ジュンは再び歩きだした。アーチを抜けると、薄水色の空が頭上に広がった。



 人生で初めて外国に来たという感慨は意外なほど湧かなかった。石造りが多い建物のや英語の看板など、細々とした新鮮さはあるけれど、見上げた空の色も街の空気感も、東京とさほど変わらない。



 マナカは少しの落胆と安堵を感じながら、ジュンの行きつけだという老舗カフェを目指した。とにもかくにも一度座って落ち着きたいというのは、移動に慣れているジュンも同じ気持ちのようだった。



「少し歩くんだけどね。ブラックがすごくおいしいから」



 大通りから外れ、MSWもないような込み入った路地裏を歩きながらジュンが言う。飲み物から食事まで人間が調理をする店なのだと、機嫌良さそうに口元を緩めた。迷いのない足取りから、かなり通い慣れていることが伝わってくる。



 マナカはジュンと同じ年齢になった自分を想像してみた。ジュンは今年三十歳になるらしいから、マナカが彼と同じ年齢になるのは十三年後だ。受験をし、大学生活を送って、仕事をして……と当たり前の日々を過ごしていれば、長いようであっという間の時間だろう。



 たったそれだけの年月で、果たして自分は外国に行きつけの店を作れるだろうか。土産物屋に目も向けないくらい、ヒースロー空港を我が物顔で歩けるようになるだろうか。



 ジュンのSNSに投稿されていた写真たちが脳裏をよぎった。ジュンが行きつけの店を持っているのは、きっとロンドンだけではない。北欧にも東南アジアにもアメリカにも、こうして心躍らせながら足を運ぶ居場所があるのだろう。



 五分ほど歩き、本屋とドラッグストアの間に現れた短い階段を下ると、手動で開けるタイプの木製のドアが現れた。上部にはめ込まれたガラス製の窓には、白っぽい字で『The Britannica』と刻まれている。



「Hello.」



 ジュンは何の迷いもなく扉を開け、右手を軽く上げながら店内に足を踏み入れた。後に続いて入ったマナカの目に、濃いブラウンのカウンターと、その奥に鎮座する巨大な食器棚が飛び込んでくる。柔らかい暖色の照明を受けて輝くグラスや皿が眩しくて、マナカは思わず目を細めた。



「Oh, Jun! Good afternoon.」



 カウンターの奥でグラスを磨いていた男性がこちらを振り返り、ジュンを見て嬉しそうに近づいてくる。歳はジュンと同じくらいだろう。青い瞳にオールバックにしたブロンドという、絵に描いたようなイギリス人だ。爽やかな笑顔にかっちりとした白いシャツがよく似合っている。



 しばらくの間、男性とジュンはカウンターを挟んで、英語で何やら話し込んでいた。速くて聞き取れないのでぼーっと立っていると、やがて店員の方が、マナカに向かって手を上げた。



「こんにちは。僕はマイクです」



 綺麗な発音だった。彼が日本語を喋ったことに驚きつつ「マナカです」と答えて近づくと、マイクは上げていた手を下ろして握手を求めてきた。



 肉厚の手を恐る恐る握ってみる。マナカの手の三倍はあるだろうか。見上げるほど背が高く、肩幅も広い。あまりの体格差に、骨格からして別の生き物のような気がしてくる。



「マナカは高校生?」

「そうです」

「いいね。『セイシュン』だね」



 横で聞いていたジュンがふっと吹き出した。



「そんな言葉よく知ってるな」

「昔イタルが言ってた」

「嘘だろ」

「本当だよ」



 ブラックでいいの、と尋ねながら、マイクはジュンとマナカを一番奥のカウンター席に案内した。横長に広い店内はカウンター席が八席と、反対側の壁沿いに二人掛けのテーブル席が三つ、所狭しと設置されている。カウンターと同じ濃いブラウンを基調としたインテリアはレトロ感満載で、可愛らしい陶器の動物やちょっとしたポストカードが飾られていた。それらを見回して、マナカは百年も二百年も前にタイムスリップしたような感覚になった。



 マイクはコンロでお湯を沸かしている間に豆を挽き、サイフォンを使って二人分のコーヒーを落とした。コーヒーの香りが店いっぱいに広がり、すっと目が覚めるような心地になる。素早い手の動きが面白くてカウンターの中をじっと見つめていると、マイクは「I get nervous. (緊張するよ)」と言ってはにかんだ。



「どうぞ」



 大きめの白いティーカップになみなみと注がれた液体がカウンターの上で黒光りする。両手で包み込むと、滑らかな陶器の質感を通して、しっかりと熱が伝わってきた。香りを味わってから口をつけると、ピリッとした苦味の後に包み込むような自然な甘さが追ってくる。



「うん。おいしい」



 ジュンはゆったりと微笑んでマイクと目を合わせた。嬉しそうにうなずいたマイクがこちらを見たので、マナカも「おいしいです」と伝える。



「よかった。もしまたロンドンに来たら、ぜひ寄って」



 「ありがとうございます」と礼を言いながら、マイクの言葉の区切り方やその場に留めるような語尾の抑揚が、ジュンの話し方にそっくりだと気づく。



 ホテルは『The Britannia』を出て五分ほど歩いたところにあった。チェックインを済ませて荷物を置き、早めの夕食を求めて再び街へと繰り出す。カフェインの覚醒効果も虚しく、少しでも気を抜くと動けなくなるくらいには眠気と疲れでどうにかなりそうだった。

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